美女の香りにむせカエル 象さんPOモード
前方を警戒するオオボラは、じりじりと足を止めたまま、闇の奥へと目を凝らしていた。
──あの触手……やはり厄介だな。
洞窟の空気はじめじめと重たく、視界はせいぜい数十センチ先までしかきかない。
その先は、濃密な闇が黒い泥のようにのしかかり、何も見えない空間と化していた。
どこから、いつ、触手が飛んでくるか──まったく予測がつかない。
先ほどは、偶然と反射神経が噛み合ってかろうじて回避できた。
だが、次も同じようにいけるとは限らない。
タカトによると、触手は一本だけ。
本来は、メスと交尾するための器官だという。
だが、それは縄張りを荒らす外敵に対しても容赦なく向けられる。
ただの生殖器具にしては、あまりにも暴力的すぎる。
だが、問題は、その“速さ”だった。
触手が振るわれた一瞬、耳に届いたのは風を裂くような甲高い音。
まるで音そのものが衝撃波になって、周囲を打ち砕くようだった。
──あれが直撃すれば、ただではすまない。
事実、先ほど触手が掠めた岩肌は、円柱状に抉れ、内部の石が丸ごと吹き飛んでいた。
ただの鞭ではない。岩を穿つほどの質量と速度がある。
──これが人間の頭なら、ひとたまりもない。
──頭蓋骨など、簡単に砕けるな。
そう思ったとき、オオボラの脳裏に、さきほど見た転がる頭骨のイメージがよぎった。
……まさか、あれも──あの触手の犠牲か?
洞窟の奥からは気配が消えない。
いや、それどころか、先ほどよりも気配が濃くなっている気がした。
まるで、暗闇そのものがこちらを睨み返してくるような、そんな不快な感覚。
だが、このまま立ちすくんでいても何も変わらない。
後ろに引く選択肢もない。
ならば、前に出るしか道はない。
「……仕方ねぇ」
オオボラは覚悟を決め、一歩──右足を前へと踏み出した。
その刹那──
ピタリと、風の音が止んだ。
いつの間にか、洞窟を包む風切り音が、凍りついたように静まり返る。
妙な沈黙。空気すら動かなくなったような、圧迫感。
──来る!
直感が、そう告げていた。
オオボラは反射的に、手に持った鉈を顔の横へとかざす。
直後、
バキィィィンッ!
耳をつんざくような金属音が、洞窟にこだました。
鉈がまるで紙細工のようにへし折られ、二つに割れて宙を舞う。
それと同時に、オオボラの体が側方へ吹き飛ばされた。
「ぐッ……!」
岩壁に背中を叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。
鈍い痛みが、背骨から脳まで突き上げてくる。
視界が揺れ、遠ざかっていく松明の炎が、地面の向こうで小さく揺れている。
―― 一拍、遅れた……!
痛みの中で、オオボラは必死に冷静を保とうとする。
確実に、さっきよりも速くなっている。触手の軌道が見えなかった。
──このままでは、確実に削り殺される……!
打開策はただ一つ。
やつの「位置」さえ分かれば──!
位置さえ掴めれば、軌道を読み、先手を取ることができる。
オオボラの額を汗がつたう。
だが──
暗闇の中で、どうやって『珍毛』の位置を特定すればいいというのか。
相手は音速で動く触手を持ち、姿はまったく見えない。
松明の明かりも届かない、漆黒の空間。
勘だけで立ち向かうには、あまりにも無謀だった。
オオボラは、ゆっくりと立ち上がると、歯を食いしばる。
「おい、タカト!」
叫ぶように声を飛ばした。
「お前の位置から、『珍毛』の姿は見えるか!?」
だが、すぐに返ってきたのは、苛立ち混じりの声だった。
「暗くて何も見えやしねえよ!」
──やはり、ダメか……!
落胆しかけたそのとき──
「オオボラ! 少しだけ時間をくれ!」
タカトの声が洞窟に響いた。
「何をする! というか、どれぐらいだ!」
触手の攻撃を間一髪でかわしながら、オオボラは聞き返す。
タカトは岩壁にビン子を座らせると、彼女のカバンの中をごそごそと探り始めた。
「5分! いや、3分でいい!」
「……わかった。3分だな!」
この暗闇の中での3分は、決して短くはない。
だがタカトが何か策を持っているのなら──賭ける価値はある!
オオボラは気持ちを奮い立たせ、折れたなたを構え直す。
「こいや! この触手野郎がッ!」
……3分後。
※なお、この間に繰り広げられたオオボラと触手の死闘については、ぜひ映像化にご期待くださいwwww(作者談)。
「できた!」
タカトの声が洞窟内に高らかに響いた。
「何ができたんだ!?」
触手をなたでいなしながら、オオボラが叫ぶ。
「この“美女の香りにむせカエル”にはな、裏モードがあってだな……!」
……出た、誰も頼んでないのに説明を始める、いつものタカト節。
ビン子が起きていたら、きっと「また、アホなもの作ってからに……」とツッコミを入れていただろう。
だが残念ながら、ビン子ちゃんはいまだに夢の中……Zzz
しかもその足元には、当然ながらゲジゲジが……。
──これがバレたら、確実に殺される。
そう確信したタカトは、慌ててビン子をもう一度背負い直した。
一方のオオボラには、もはや話を聞いている余裕などない。
「そんなことはどうでもいい! 早く! 奴の位置を教えろ!」
「はい、はい……わかりましたよ……」
つまらなそうに返しながら、タカトは手のひらで“美女の香りにむせカエル”の裏モードを開血解放する。
「ゲロ……」
タカトの手の上から、小さな鳴き声が聞こえた。
「ゲロゲロ、ゲロゲロ!」
次第に、その鳴き声は激しさを増していく。
「オオボラッ! 2時の方向5m! 来るッ!」
タカトの叫びが飛んだ。
その声に呼応し、オオボラは即座に構える。
折れた鉈を両手で握り、2時方向に意識を集中──
だが!
──ヒュンッ!
風を裂く音が、まったく違う方向から届いた。
「3時だと……!」
しかし、焦りはない。
先ほどの一撃で、オオボラは“珍毛”の攻撃速度をすでに見切っていた。
ほんのわずかな時間差と角度のズレ──それさえ補正すれば、捌ける!
オオボラは咄嗟に体をひねり、足元の岩を蹴って姿勢をずらす。
「至恭至順!!」
身体の芯から導き出されたその技は、折れた鉈の角度を絶妙に保ったまま、迫る触手を受け流す。
金属が風を切り、火花が一閃!
音速の軌道が、斜めに逸らされる。
触手の直撃を、逸らした──!
──どがっ!
再び、触手が岩肌を打ち抜いた。
空間が震えるような衝撃とともに、壁の一部が崩れ落ちる。
だが、オオボラは一瞥すらくれず、怒声をタカトに向けて叩きつけた。
「何が2時だよ! 3時の方向じゃねぇか!!」
「あほか! 俺から見て2時だよ!!」
「お前から見てなんて知るか! そっち基準で叫ぶな!」
「仕方ねーだろ! このカエルの向きで判断してんだから、方向と距離が分かるだけでもありがたいと思え!」
誰も聞いてくれないので、代わりに作者が説明しよう。
“美女の香りにむせカエル”。
本来なら、美女の体臭を感知し、“ゲコッ!”と鳴いて方向を教えてくれる──夢のような融合加工品、になるはずだった。
──が。
いざ完成してみれば、美女の香りには完全無反応。
なぜか、加齢臭──そう、「オヤジ臭」にだけ敏感に反応するという、致命的な欠陥品だったのだ。
……しかし、タカトはそこを逆手に取った。
この洞窟には、『万毛』たちが放つ腐ったヨーグルトのような悪臭が立ち込めている。
だが、その中にひときわ強烈な“異臭”が紛れているのだ。
……『珍毛』。オス個体が発する、生殖器由来の刺激臭。
言うなれば、タケノコを湯がいて一晩放置したような、ツーンと鼻にくるアレである。
その臭いを、警察犬──いや、警察象に覚えさせれば、敵の位置が特定できるのでは?
そうひらめいたタカトは、裏モードを改良した。
これこそ! 名付けて!
『美女の香りにむせカエル 象さんPOモード』だぁぁぁぁぁぁあ!
──ゲロッ!
途端に、カエルが反応し、威勢よく鳴き出した。
しかも、一定方向を向いたまま、執拗にゲロゲロと警告を発し続けている。
タカトは確信した。
──ビンゴ!!




