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73 村人、東へ



 ゼイル王国東に存在していたカヤラ国が、かの国の統治下に置かれてから数ヶ月。

 昆虫の魔王メザリオによる侵攻をきっかけに、南の魔王フォーザン、北東の魔王セーランが同時に動き出したのが数日前のことだ。


 魔王メザリオの予想外の戦力に対して国は勇者を送り込むことを決断する一方で、余剰戦力もないため、カヤラ領東側の土地は放棄されることになっていた。


 それゆえに、東の土地では人々が逃げ惑っていた。

 婦女も老人も若者も、皆等しく平原を西へと駆けている。都市はいかに堅牢な市壁を持っていようとも、すでに守るための兵がいないのだから、そこにとどまることは死を意味していた。


 彼らは住み慣れた都市が魔物が蹂躙されるのを背後に、振り向かずに走っていた。

 けれど、そうした覚悟を済ませるには、あまりにも時間がかかりすぎていた。


 着の身着のまま、いち早く都市を飛び出したものはすでに逃げおおせていたが、決断に時間がかかった者たちは、いよいよ魔物が近づいてきた段になってようやく、動き始めたのである。


 そのときにはすでに、傭兵たちもそれまで生き延びてきた勘を働かせ、さっさと西へと避難していたところだろう。いや、彼らだけでなく、常備兵たちも民の護衛という名目で西に向かっていたのだ。


 それゆえに、彼らもはや無防備な姿を晒している。

 誰が悪いというわけでもない。ただ、敵は時間的な猶予など与えてはくれなかった。ただ、それだけのこと。


 そんな必死で西へ向かう彼らのところへと向かう存在があった。


 空中を舞うように、水が浮かび上がっていた。それはあたかも川のように宙を流れたかと思いきや、次の瞬間には水球を作り上げている。


 その水の中には、半魚人の魔物マーマンやかにの魔物ジャイアントクラブなどが存在しており、逃げる民の頭上にて水球が弾けると、音を立てて地面に着地した。


 ズシン。

 その物音に、近くにいた人々は声を上げずにはいられなかった。


「魔物が! 魔物が来たぞ!」


 その一声で彼らは恐慌状態に陥ってしまう。


 マーマンはさほど強い魔物ではないが、水のないところでも長期間に及ばなければ活動でき、手製の銛を持っているため物理的な攻撃も可能であった。


 そしてジャイアントクラブは大きなはさみが特徴的で、こちらも物理的に相手を叩きのめすのに長けている。


 水棲の魔物は水がなければ生きていけない。それゆえに多くは高い魔力を持ち、「初等魔術:水」を用いることで水を自在に操って生活圏を守るとともに、外敵に対する攻撃を行っている。


 それゆえに、こちらの魔物はやや例外的な存在だった。


 だが、その狙いは明らかだ。湖など水棲の魔物に適した環境ではない人の領域を襲うに当たって、まずは水を操る魔物によって、魔王セーランがいるであろう拠点との断絶が起きないように移動ルートを保持しておき、陸上でも活動できる魔物で人を襲うのだ。


 マーマンはその役割をしっかり与えられていたらしく、手にした銛を振るって人の首を一突きした。


「ぐぇっ!」


 逃げていた人の足が止まる。そして勢いよく傷口から赤い血を流し始めた。

 それに対して、マーマンはスキルを使用する。


 途端、赤い血が固まっていくとともに、人の傷口から透明な液体が浮かび上がってきた。


 彼ら水棲の魔物はどこからでも水を得られるスキル「吸水」を保有しているのだ。そして、その対象は人も例外ではない。


 みるみるうちに肌から瑞々しさが失われていく有様に、誰もが悲鳴を上げた。そして半魚人はさらに勢いづいて人々を突き刺し、ジャイアントクラブは大きなはさみで大人数人を叩きつぶした。


 はさみを赤く染めたそれは、さらに逃げる民を追っては叩きつぶしていく。

 誰も抵抗はできなかった。ジャイアントクラブのほうが大きく、逃げたところで追いつかれてしまうのだ。


 家財など気にせず逃げておけばよかった。そんな後悔をしてももう遅い。魔物は躊躇なく人を蹴散らしては、赤い湖を作り上げていく。


 血肉が多少混じったところで、あとから綺麗な水だけにしてしまえばいいのだろう。やつらは気にすることもなく、ひたすらに人を潰していった。


 絶叫を上げる見捨てられた人々の中、一人が尻餅をついた。目の前には迫るジャイアントクラブ。そのはさみが振り上げられようとしてた。


「だ、誰か……」


 思わず呟いた次の瞬間、しかし衝撃はやってこなかった。


 そのジャイアントクラブの頭にはぽっかりと穴が空いていたのだ。もはや動くこともなく、頭胸甲の一部と魔石を残して消えていった。


 そして彼らの前に、一人の少年が降り立つと、黄金の剣を一振りしてマーマンを切り裂いた。


 敵をものともしない屈強さに、敵をも恐れぬ勇猛さに、人々はその言葉を口にした。


「勇者だ! 助けに来てくれたんだ!」


 感激する彼らに対して、けれどその少年は眉をひそめた。


「生憎と俺は勇者じゃない。けど、魔物なら蹴散らしてやる。その間に逃げるといい」


 彼らに告げたフォンシエは、迫る敵の大群を見据える。


 応援といったところで、そもそも彼は一人でこちらに飛び込んできたのだ。できるだけ敵が多いほう、すなわち東へとなにも考えずに向かったところ、このような最前線に行き着いたのである。


(あれが水棲の魔物か。水に呑まれたら厄介だ)


 どれほど屈強な猛者であろうと、息ができなければ窒息してしまう。

 フォンシエは警戒心を強めながら、集まってきた敵目がけて「初等魔術:炎」を使用する。


 火球は勢いよく飛んでいくと、群がっていた敵を吹き飛ばした。

 それを見るなり、魔物どもは一時後退し、水の中へと飛び込んだ。それはあたかもうねる蛇のように動きつつ、小さな水の塊を弾丸として放ってきた。


 それは狙いはあまりにも雑で、フォンシエのみならず周囲にまで着弾しようとしている。


(厄介な……!)


 彼は咄嗟に「初等魔術:土」によって土壁を作り上げ、その攻撃を阻む。

 防戦一方になっていれば魔力が尽きてしまうだろう。しかし、水中目がけて切り込むわけにはいかなかった。


 そうなれば、フォンシエも覚悟を決めなければならない。


「悠長なこと、言っていられないな」


 彼はふと敵に視線を向けると、「高等魔術:炎」を用いる。浮かび上がっていた水球の付近で魔力が一気に高まっていく。


 このあっという間に魔力が奪われていく感覚には慣れない。だが、今は魔力がなくとも、ある程度はしのげるスキルがあった。だから発動した後、魔力がなくなって相手ができなくなったなら、いざとなれば逃げてしまえばいい。


 けれど、それも現状を乗り越えてからの話だ。


 とある魔物どもは東へと逃げ始め、残った魔物は発動の前にフォンシエを仕留めてしまおうと水球を放ってくる。


 それに対して「初等魔術:水」があればうまく制御してやることもできたのだろうが、彼は取得していなかった。


(くそっ。早く、早く……!)


 発動までなんとか無事でやり過ごさなければならない。


 土の壁でなんとか防ごうとするも、敵もここで彼を打ち倒すことができなければ甚大な被害を受けることになるのだ。ありったけの魔力を用いて攻撃してきていた。


 壁は崩され、フォンシエのところへと鋭い弾丸のような一撃が飛び込んでくる。


「こんなところで! やられるものか!」


 彼は歯を食いしばると、光の盾を生じさせた。それは水球の威力を完全に殺すことはできず、フォンシエの頬や手足をかすめていく。


 まだ彼は、高度なスキルを同時に使用していれば、完全な威力を発揮することはできなかったのだ。


 だが、それでも彼はふと息をついた。

 眼光は鋭く、ただ敵だけを見据えていた。そのときが来たのだ。


「吹っ飛べ!」


 瞬間、魔力が急激に解放される。彼の叫び声は、爆音にかき消された。


 ズゴォオン!


 爆発の衝撃は周囲の敵すべてにおよび、魔物のみならず宙にあった水をも吹き飛ばした。


 水滴が無数に飛散する中、フォンシエは目を凝らし魔物の姿を探している。が、その際に痛みを覚えた。


 したたかに打ちつけられた感覚に、フォンシエは顔をしかめる。どうやら、水滴に交じって敵の攻撃も放たれていたようだ。


 しかし、メタルビートルの外骨格で作られた鎧はびくともしない。それこそ、勇者よりも立派な装備だったかもしれない。


 フォンシエは敵が一旦引いていくのを見つつも、深追いするのをやめた。すでに東の都市は、敵のいる拠点と変わっていたのだ。それに先ほど「高等魔術:炎」を使用したことで魔力も大きく減っている。


 近くに倒れる遺体を横目に見つつ、フォンシエはなにもせずに移動を始める。

 彼らを手厚く弔うことはできない。その暇があれば、一体でも多くの魔物を倒すべきだから。


(それにしても、こちらに勇者は来ていない。ならば、いったいどこにいるんだ?)


 なにも聞いてきていないフォンシエは、ひとまず周辺の都市の魔物を倒しつつ、情報を集めることにした。


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