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9.ラズと風

 マリアベルの部屋の前。ダンは緊張で身を硬くしていた。

 ラズとネイは仕事で今朝早くに城を発っている。そして彼はラズとの約束を果たす為に彼女の部屋まで来ていた。いつもなら事ある毎に彼女の下を訪れる兄弟達も流石に午前中は仕事や学校があって来ていない。お陰で今日は初めて二人きりだと分かっていまい、余計に緊張を高めていた。


(覚悟を決めろ。気まずくても話をして時間を潰すくらい俺だって出来る)


 部屋に入るのを待っている両側の近衛騎士達が生ぬるい目線で自分を見守っているのは気のせいだと思いたい。

 ダンは一度深呼吸すると、白い扉を開けた。


「あら」

「……おはよう」

「おはよう。ダン」


 マリアベルは読んでいた本から顔を上げると笑顔を向けた。ダンが一人で来るのは珍しいと分かっているだろうに、それに対して触れることはない。彼女の笑顔に安堵しつつ、ダンは勧められたソファに腰を下ろした。


「何を読んでたんだ?」

「サーカスの本よ。昨日へリオと城内の図書室に行って借りてきたの」


 ほら、と彼女が開いて見せたのは優しい色合いで描かれた絵本だった。コミカルな衣装を着たゾウやサルの動物達、派手な化粧のピエロ、火の輪をくぐる猛獣。ダンも知っているサーカスが短い言葉を添えて紹介されている。


「そんなに楽しみなのか?」

「うん。とっても」


 その表情は笑顔の筈なのにダンは違和感を覚えた。どこか寂しげに見えるのは気のせいではない。


「……ラズがいないと寂しいか?」

「…………」


 ダンの問いに彼女は分かりやすく口を閉ざした。言葉はなくてもそれが答えなのだろう。いつも笑顔を振りまいているが、ここは彼女の故郷ではない。幼馴染だというラズの存在は彼女の中ではとても大きいのだ。


「ちょっとだけ、ね」


 なんとか答えた言葉も力がない。その気持ちはダンも分かる気がした。彼にとってもラズは数少ない自分の理解者だ。二日経てば戻ってくると分かっていても、いないと思うと寂しさはある。

 マリアベルはそれを誤魔化すように席を立ち、お茶を淹れてくれた。礼を言ってそれを口に含めば、覚えのある味がする。どこで口にしたのだろう。爽やかな後味のハーブティー。


(あ、あいつの部屋だ。)


 マリアベルが淹れてくれたのは、ラズが振舞ってくれたのと同じハーブをブレンドしたお茶だった。彼は目が覚めるからと淹れてくれたのだが、朝からここを訪れたダンのことを考えてマリアベルも同じものを選んでくれたのだろう。

 そうだ。彼女が元気を取り戻すかもしれないものをダンは持っている。マリアベルには教えるなと言われていた彼の部屋。そしてその鍵。


「マリアベル」

「何?」

「ちょっと俺に付き合ってくれないか?」


 ダンは行き先を言わない。それでもマリアベルは迷わずこくりと頷いた。






 静かに開けられた扉。中を覗いたマリアベルは目を輝かせた。


「もしかしてここって、ラズの部屋?」

「良く分かったな」

「シィシィーレのラズの家もこんな感じなの」


 そう言って彼女は嬉しそうに部屋を見渡した。積み上げられた本の山。壁にかけられたトゥライアの地図。装飾品や娯楽品は無く味気ない。だが落ち着いた色合いの静かな空間。


「あいつには秘密にしてくれよ。本当は君にここを教えないように言われてるんだ」

「そうだと思った。良かったの? 私を連れてきてしまって」

「居ないあいつが悪い」

「ふふっ。そうね」


 互いに顔を見合わせて笑う。今の彼女の笑みはラズの前でだけ見せる子供っぽい表情だ。これを見たら兄達はさぞ悔しがるだろう。


「でも、どうしてダンが部屋の鍵を持ってるの?」

「留守中にここを借りる約束をした。時々勉強サボって昼寝するのに丁度いいんだ」

「ラズと仲良くなったのね」

「……君の言った通り同い年だし。気が楽だから」


 嬉しそうに彼女が微笑む。彼女の部屋やテラスで話をする時と違って、ダンも気負いなく話が出来た。やはりこの部屋は不思議だ。自然と力を抜くことが出来るのは何故なのだろう。


「いいなぁ、ダンは。ラズがいても時々ここに来ているのでしょう?」

「まぁ、息抜きに」

「ずるい」


 ぷくっと頬を膨らますマリアベル。それはいつものような美しい表情よりも好感が持てる。


「なら、マリアベルも来ればいいじゃないか」

「でも、ラズがいる時はダンも鍵を持っていないのでしょう?」

「今までは内務官から鍵を借りていたが、どうせ必要なくなる」

「どうして?」

「あいつが戻ってくる前に、俺が勝手にこれの合鍵を作る」


 そう言って見せたのはラズから預かっている鍵。確かにダンが持つ為の合鍵を作ってしまえば、二人は出入り自由。初めからダンはそのつもりだったに違いない。それが分かったマリアベルは可笑しそうにクスクスと笑った。





 ***


 王城から北西。朝から馬を走らせ、イーシャに着いたのは昼過ぎだった。泉はこの町の北に広がる馬では進めない程木々の密集した森の中にある。昼食を町の飯屋で済ませた二人は馬を宿屋に預け、徒歩で一時間程進む。木々の無い開けた場所を見つけた時、そこに広がる美しい泉を発見した。

 一息ついて皮袋から水を飲む。そして改めて泉をしげしげと眺めていたラズはぼそりと言葉を零した。


「……おかしいな」


 水面は日光を反射してキラキラと光っている。水には濁りも無く、周囲を荒らす動物達もいない。そんな美しい泉を前にした感想だとは思えず、ネイは訝しげに聞き返した。


「何がだ?」

「水が綺麗過ぎる。魚どころか泉に面してる所は苔すら生えていない」


 確かによく見れば泉の中に生き物の姿は見当たらない。水のある場所に茂る筈の植物も苔も無く、水面に接している部分は岩がむき出しになっている。更にラズが口にした言葉にネイは寒気を感じた。


「生物が、存在出来ない……?」


 まさかこの泉には毒が混じっているとでも言うのだろうか。ならば呪いどころの話ではない。だが、彼が出した結論は毒ではなかった。


「僅かだがこの水には魔力の残滓がある」

「魔力?」

「これは……」


 突然森の中を駆け抜けるように吹いた突風。ザァッと木々が揺れる音がして、とっさにネイはそれを避ける様に手を顔の前に出し、目を細めた。だが、ラズは気にも留めずに佇んでいる。


『友よ。ここに〈水〉はいない』


 頭の中に響く穏やかな声。低い男性に似たその声の主はラズを見据えていた。


「いない? でも微かな魔力が……」

『彼の言う通りよ。確かに感じるけれど、ひどく不格好で濁った魔力。これは精霊のものではないわ』


 更に現れた女性らしい優しい声の主。突然の来訪者達は久しぶりの挨拶もせず、ラズの目の前に立っていた。いや、立っているというのは正しい表現ではない。彼らは浮かんでいた。どちらも背が高く、左右対称の整った顔立ちをしている。尖った耳に足首ほどまである長くまっすぐな髪。服は着ておらず彼らの体は陽に透けていた。そう、彼らは人間ではない。精霊と呼ばれる存在なのである。足は無く、その場に浮かんでいるその姿はラズの目にだけ映っていた。


「ラズ?」


 怪訝な表情でネイがこちらを見る。精霊が見えていない彼からすればラズが独り言をいっているようにしか見えない。そんな表情にもなるだろう。


「悪い。〈風〉達がいるんだ」

「風?」

「あぁ。風の精霊だよ。彼らの話ではどうやら人為的な魔力がここにはあるらしい」

「精霊が見えるのか?」


 精霊は誰もが見ることの出来る存在ではない。神官であっても魔術師であってもそれは精霊を見ることの出来る力にはならない。それが出来る者は精霊自身が決める。彼らが気を許した相手のみがその姿を見て、言葉を交わす事が出来るのだ。ラズは彼らに許された人間だが、だからと言って風の精霊全員が見えるわけではないし、それは他の精霊の関しても同様である。


「彼らとは幼い頃から縁が深くてね。それよりも問題はこの泉だ。この中に原因が必ずある筈なんだが」


 それを探すには中に入るしかない。ラズが荷物と上着をその場に置くと、〈風〉の一人が呆れた声を出した。


『友よ。その男の前で体を濡らしても良いのか?』


 泉の中に入る気満々だったラズはピタリと動きを止め、ぎこちない動きでネイを見る。


(そうだった……)


 女であることを隠している以上、体のラインが顕わになるような真似は避けなければならない。どうすべきか迷っているラズに気付いたネイが傍に寄ってきた。


「どうした?」

「いや、あの……。多分湖の中に魔力の媒介になるものがある筈なんだ」

「あぁ」

「ただ此処からはそれを探せないし……」

「中に入って探せばいいのか?」

「へ?」


 そう言うとネイはあっさりと服を脱ぎ始めた。靴も脱ぎ、綿の長ズボンだけになると湖に向かって歩いていく。鍛え上げられた美しい筋肉のついた体。その背中を見てラズははっと息を飲んだ。


(傷……)


 騎士にとって体に残る傷など珍しくもない。けれど彼の背を二つに分けるかのように斜めに走る大きな傷は縫合されていても痛々しい。

 ラズと同様その傷を見た〈風〉達も気になっているようだった。


『あれはただの刀傷ではないな』

『えぇ。魔傷ね』


 二人が口々に言う。魔傷とはその名の通り魔力によって負った傷である。ただの刀傷よりも直りにくく、治療にも魔法の力が必要で通常完治は難しいとされる。彼の背の傷は大分古いもののようだった。


「…………」

『友よ』

「え、何?」

『媒介は我が探そう。その方が早い』

「いいの?」

『無論。だが取り出す事は出来ぬ』

「分かってる。ありがとう」


 そう言って泉へと向かってくれたのは男性らしい容姿と声をした〈風〉だった。精霊に性別は無く、男性らしいとか女性らしいというのは単なる見かけの個性に過ぎない。おまけに〈風〉は色がないのだ。何故透明な彼らの姿が見えるのか不思議ではあるが、それは彼らがラズに姿が見えるよう力を使っているからであるらしい。


「ネイ! 一先ず〈風〉が上から探してくれるって」

「……そうか」

「でも〈風〉は水の中に入ることは出来ないんだ。場所が分かったらネイに行って欲しい」

「分かった。……」

「……何?」


 じっと自分を見るネイの視線。気になって声をかければ、彼は泉の上を見渡した。


「俺には見えないけど、確かにいるんだな」

「うん。いるよ」


 すると何故か嬉しそうにもう一人の〈風〉がくすくすと笑い声を零した。

 そうこうしている間に〈風〉がそれを見つけたのは早かった。その場所の上に浮かぶ彼を目印に、ラズはネイに場所を指示する。


「それと、これ」

「布?」

「何があるか分からないから、直接触らずにこれに包んで。それと少しでも異変に気付いたら何もせずに戻ってくれて構わないから」

「分かった」


 一つ頷き、ネイは素早く泉の中に入っていく。泉と言っても直径三十メートルはある。慣れた動きで泳ぐ彼をラズは見守った。島で育ったラズは当然泳げるが、それよりも大陸育ちのネイの方が泳ぎは早い。騎士は泳ぎまで訓練するのだろうか。

 ラズの指示した場所で潜り、ネイはすぐに戻ってきた。全身ずぶ濡れになった彼を出迎えると、無言で布の塊を渡される。手の上で布をそっと除ければ中から出てきたのは拳大ほどの赤黒い石だった。魔術師でもないラズでもそこから魔力が発せられているのが分かる。

 するとラズの隣に寄り添っていた〈風〉が声を発した。


『やっぱりこれね。複雑に絡み合った魔術が詰め込まれてる。一体何の効果があるのかは分からないけれど、ロクでもないのは確かよ』

「そう」


 だがここで問答しても仕方がない。再びしっかりと布でくるみ、ラズは体を拭いていたネイに向かって笑いかけた。


「さて、ネイが風邪を引かない内に引き上げようか」

「あぁ」


 用意してきたボトルに泉の水を汲み、ノートに色々書き込んでいる間にネイはズボンを脱ぎ絞っていた。上半身ならともかく下まで脱いだ彼を見ることが出来ず、用意が終わってもラズはしばらく泉を眺めているしかない。そんな彼らを二人の〈風〉が静かに見守っていた。

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