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番外編 二人の夜(2)

 浴室で汚れを流し、借りたタオルで頭を拭きながらネイはリビングへ戻った。けれどそこにリジィの姿はない。ランプに明りが灯ったままだから、ネイがいる事を忘れて眠ってしまったなんて事は無いだろう。

 身支度を整えソファに座って待っていると、本棚横のドアからリジィが顔を出した。


「あ……」

「どうした?」

「あの、えっと……」


 目線の先が定まらず、落ち着かない様子でドアの傍に立ちすくんでいる。ネイが立ち上がって彼女の前に行くと観念したのか、左手でぎゅっと裾を握った。


「その、……一緒でもいいかな?」

「…………」


 何を、とは聞けなかった。彼女が出てきた部屋の中を覗いてみれば、そこはベッドが一つだけの寝室。次に無言で目線を下せば、耳を真っ赤にしたリジィが俯いている。

 勿論彼女が嫌でないのならばネイが否と言う筈が無い。まぁ、試されるものが色々とあるが。


「……リジィが良いなら」

「う、うん。私は……、へーき」

「そうか……」


 そのまましばし沈黙が落ちる。こういう時、何と言えば正解なのだろう。元々口が達者でないネイでは咄嗟に気の利いた言葉など浮かばない。

 ネイは湯で少し温まった手のひらをそっとリジィの髪に滑らせた。何度も髪を梳く様に動かせば、彼女の肩から力が抜ける。


「……私も、浴室使うね」

「あぁ」

「疲れてるでしょ? 先、寝ててもいいよ」

「分かった」


 最後にひと撫でして、彼女を浴室へ送り出す。入った寝室はベッドとクローゼット、腰下ぐらいの高さのチェストがあるだけの小さな部屋だ。ベッドの横には両開きの窓。まだカーテンが開けたままになっていて、神殿のある方向からはうっすらと明りが見える。そして何より目を引いたのは海。窓を開けると潮の匂いがネイの下まで届く。ここが、リジィターナが生まれ育った場所。

 夜の海は黒くて果てが無い。けれどその闇にネイが恐怖を感じる事はない。闇の本質を誰よりも良く知っているから。

 どのくらいそうしていたのだろう。やっとネイが眺めていた海から目を離したのは、リジィが寝室に戻って来た時だった。


「寒くない? 大丈夫?」


 秋とは言え、夜の潮風はもうそれなりに冷たい。まだ髪が濡れているリジィではこのままだと体を冷やしてしまうだろう。俺は大丈夫、と返事をしてネイは窓とカーテンを閉めた。明りはチェストの上のランプだけ。独特の閉塞感に、ネイの鼓動が大きく高鳴る。


「海が、」

「うん?」

「……新鮮で。俺は山育ちだし」

「あぁ、そっか。王城からも海は見えないもんね」

「波の音が聞こえるのは不思議な感覚だ」

「へぇ。私はいつも聞こえるのが当たり前だからなぁ……。王城の夜は波の音も虫の声もしないから、最初は落ち着かなかった」

「そうか」


 ベッドに座ったリジィの髪に再び触れる。まだ湿った髪は束になってするりと指から滑り落ちていく。


「髪、随分伸びたな」

「うん。ネイはちょっと痩せたね」

「そう、か?」

「うん。今忙しいの?」

「ダリオン殿下の留学が決まったからな。最近殿下も頻繁に外出するから、それについて行く事が多い」

「あぁ、ダンの専属になったんだっけ」

「知ってたのか?」

「うん。手紙に書いてあったから」


 第三王子ダリオンとリジィがずっと手紙のやり取りを続けていた事はネイも知っている。羨む気持ちもあるが、ネイが今回シィシィーレに来る事が出来たのはダリオンのお陰だ。彼には感謝の気持ちの方が大きい。


「あ、の……」

「ん?」

「ネイも、サディアに行くの?」


 不安げな色を宿して、ランプに照らされた碧眼がネイを見る。ネイがダリオンの護衛騎士になったことで、彼の留学期間中共にサディア国へ行ってしまうのかと思ったらしい。不安を拭うように、彼女の手を握った。


「いや。送迎はするが、サディアに常駐する予定は無い」

「……そっか」


 安心したようにふわっとリジィが微笑む。確かな喜びをのせたその笑顔にネイは息を飲んだ。静かな波の音に宥められていた熱情が、ネイの胸をじわじわと侵食する。思わず握った手に力をこめそうになって、慌てて顔を逸らした。


「もう、寝るか?」

「あ、うん。そうだね」


 ネイを窓側にして、二人で同じベッドに潜り込む。元々が一人用だ。二人眠ることが出来ると言っても、やはりそれほど広くは無い。触れるなと言う方が無理な話だ。リジィがランプの火を消すと、部屋に残ったのは僅かなオイルの匂いとカーテン越しに窓から注ぐ月明かり。

 僅かに感じる体温と近くなった彼女の香りがネイを満たした。


「だ、大丈夫? 狭くない? 布団足りてる?」

「……大丈夫だ」


 沈黙を恐れるかのように早口にまくし立てる彼女がなんだか可笑しかった。ネイの緩んだ口元。その表情を見たリジィもまた頬を緩める。


「そうだ。ネイはいつ向こうに戻るの?」

「明日」

「え?」

「明日の昼過ぎには発つ予定だ」

「……そっか」


 ネイが此処にいるのはあくまで任務。王城に戻れば、またしばらくはシィシィーレに来る事が出来なくなる。王城から此処までは往復で約半月。近衛騎士団に所属するネイは二・三日の休暇は取れても、長期の休みを取る事は難しい。

 一方、リジィは朝から神殿の仕事に行かなくてはならない。ただでさえ参拝者の多いこの時期、恐らくネイを見送る時間も無いだろう。つまり、明日の朝にはまたネイと別れなくてはならないのだ。

 今すぐでなくて良い。あの時ネイがそう言った訳をようやくリジィは理解した。単にリジィの準備が出来るまで、という意味ではない。王都と島との距離、そして互いの仕事。無事こうして心が通じ合っても、今すぐ共には居られないのだ。

 次に会えるのは一体いつになるのだろう。そう思ったら、このまま瞼を閉じる事ができなかった。

 一つ覚悟を決めて、詰まりそうな声を絞り出す。


「ネイ……」


 緊張で震える指がネイに向かって伸びる。彼の黒い瞳が自分を見つめた。リジィが名前を呼ぶだけでネイの表情が、目元が緩む。それを目にした途端、早くなる鼓動。

 恐る恐る近付いたリジィの指がネイの頬に触れた。


「リジィ?」


 以前は呼んでもらえなかった名前。リジィの本当の名前。女性としての名前。


(不思議……)


 ネイが呼んでくれるだけで、自分がどんどん女性になっていく気がする。

 大きな手のひらがリジィの手に重なった。その温度に堪らなくなって、頭を埋めていた枕から起き上がる。リジィの目線の先は彼の唇。目を閉じる直前、驚いた顔のネイが見えた。

 触れるだけの口付けをして、ネイからほんの少し離れる。落ち着かない鼓動に急かされて目を開ければ、さっきよりももっと嬉しそうな顔があった。


「リジィ……」

「うん……」

「いいのか?」

「……うん」


 とくん、とくん。常とは違うリズムを刻む胸の鼓動。それでも苦しさを感じないのは、きっとリジィ自身がネイを求めた結果だから。まだ始まってもいないのにリジィの耳が熱い。

 狭いベッドが軋む音。つられて顔を上げれば、視界に入るのは自分に覆いかぶさるネイの姿。ゆっくりと彼の顔が近付いて、今日何度目になるのか分らない口付けが降ってくる。


「ん……」


 唇を重ねるだけのこの行為が、どうしてこんなにも胸を満たすのだろう。ネイが与えてくれる感触が、体温が、リジィの中の熱を押し上げてくる。


(ネイも、同じなのかな……)


 同じであればいい。与えられるだけではなく、与える事も出来たらいい。自然と湧き出た気持ちに後押しされて、リジィは両腕を伸ばした。求めるように、ネイの首に回して抱き寄せる。一瞬ネイの息を飲む音が聞こえたかと思うと、口付けが深くなった。


「んぅ……はっ……」


 厚い舌が自分の舌に絡む。それに応えたいけれどどうしたら良いのか分らなくて、受け止めるだけで精一杯だった。くすぐるように舌先が口蓋を撫で、力の抜けた声が出そうになる。


「っ……、あ!」


 いつの間にかネイの手の平が寝巻きのワンピースの裾から入り込んでいた。太ももの内側、柔らかい皮膚を撫でられて思わず我慢していた声が漏れる。これから何もかもが見られてしまうのだと気づき、急激に恥ずかしさがリジィを襲う。他の女性達に比べて貧相な胸、筋肉のついた腕や脚、そして日焼けした肌。それを見たらがっかりされてしまわないだろうか。そんな不安が胸を締め付けた。


「……リジィ?」


 不意に顔を逸らしたリジィの表情に気づいたのだろう。ネイがそっと彼女の前髪を掻き上げ、名前を呼ぶ。


「怖いか?」

「ち、違うの!!」


 怖いわけじゃない。嫌なわけじゃない。ネイの事も、これから先の行為も。この不安をどう伝えたら良いのだろう。おろおろする事しかできないリジィの言葉を、ネイはじっと待ってくれた。安心させる為だろう。裾の中に入っていた手が抜かれ、リジィの頬を撫でている。


「あ、あの……ね……」

「あぁ」

「……あの、わたし…その……」

「うん」

「……自信が無いの」


 段々と小さくなっていく声。それでもこれだけ至近距離であればしっかりネイの耳には届いていたらしい。最初はその意味が分らなかったようだが、続く言葉に目を見張った。


「私は、その……女性らしく、無いから……」

「…………」


 シーツの上に散らばる美しい髪、赤く染まった頬と唇、そして美しい線を描く首元。彼女から立ち上る色香だけで眩暈がしそうなほど魅力的なのに、リジィはそれに気がついていないらしい。だがいくらネイが得意でない言葉を尽くした所で、動揺している彼女の心には届かないかもしれない。


「……ネイ?」


 ネイは体を起こすと、黙って自分の衣服を脱いだ。と言っても寝巻き代わりの為、着ていたのは綿のシャツとカーゴパンツだけ。シャツを脱いで現れたのは鍛えられた筋肉で覆われた上半身。魔石調査の際に目にした姿だが、リジィもこれほど傍で見た事はない。よく見れば大小様々な傷がいたる所にあった。左肩には背中から繋がった魔傷の痕もある。


「醜いだろう?」

「っそんな訳ない!!」


 自嘲してそう呟いたネイに、リジィは衝動的に上半身を起こして抱きついた。この傷の一つ一つが全て彼の努力の成果であり、逃げずに敵に立ち向かった証だ。それは誇りこそすれ、醜い訳が無い。

 むき出しの胸に顔を埋めるリジィをネイがそっと抱きしめた。


「ならこの体が火傷だらけだったら? 病的に痩せていたら? お前は俺を嫌いになるか?」

「ならないよ! 私は……ネイが好きなの。どんな姿でもネイだけが……」

「俺も同じだ」


 ネイが少し体を離して涙目のリジィを見下ろした。


「リジィターナ。俺が好きなのはお前だ。他の誰でもないお前だ。俺のこの気持ちがお前と同じものだと……信じられないか?」


 自分と同じ。ネイも、どんな姿だろうと関係なくリジィだけを求めてくれている。リジィを好きでいてくれる。ネイに対するリジィの想いと同じ分だけ、彼の言葉を信じていいのだ。それに気がついて、リジィは黙って首を横に振った。





 ***


 早朝。朝食を済ませた二人は神殿への道を並んで歩いていた。まだ陽が昇ってそれほど時間が経っていないが、神殿の仕事は朝が早い。もうリジィが出なくてはいけなかった為、ネイも一緒に家を出たのだ。左手には朝日に光る透き通った青い海。右手には島の豊かな緑。美しい景色に囲まれながら、けれどそれを楽しむ余裕が二人の心にはない。


「見送り行けなくてごめんね」

「いや。この時期神殿が忙しいのは仕方が無い」

「船は昼だっけ?」

「あぁ。昨日は時間がなかったから、今日はそれまで島を見てまわろうと思ってる」

「そっか。豊穣祭でどこも賑わってるからね」


 二人は時間を惜しむようにゆっくり歩いているが、それでも段々と神殿が近付いてくる。神殿広場の向こうには沢山の屋台が並んでいるのが見えた。丘を下り、石畳が敷かれた道まで出る。ここまで来れば神殿は目の前。もうネイとは別れなくてはならない。

 ネイが、リジィの手を握った。


「ネイ……」

「…………」


 何か言わなくてはと思うほど何を言ったら良いのか分からなくて、二人共言葉が出てこない。でもこのまま別れるなんて出来なくて、リジィは一歩踏み出して背伸びした。


「っ!」


 不器用に重なる唇。一瞬瞠目したネイだったが、すぐに彼女の腰に手を回し、離れた唇を追いかけた。二度三度と口付けを交わし、二人が離れる。


「ネイ」

「…………」

「会いに来てくれてありがとう」

「リジィ……」


 ネイに名前を呼ばれ、リジィが顔を上げる。そこにあるのは彼女の満面の笑み。ずっとずっとネイが見たかったもの。


「今度は私が、ネイに会いに行くから」

「……あぁ。待っている」


 互いの体温を惜しむように最後に一度だけ抱きしめ、ネイはその腕を放した。


「それじゃ、またね」

「あぁ、また」


 朝日に輝く髪、健康的な肌、白い式服から伸びるすらりとした手足。そして自分を見る碧の瞳と名前を呼ぶ声。その全てを目に焼き付けようと、ネイは離れていく愛しい女性の姿が見えなくなるまで見送った。そんな彼の表情にもまた笑みが浮かんでいる。

 今度は彼女が自分に会いに来てくれると約束してくれた。それがいつかは分からない。他人が聞いたら不確かな約束だと思うかもしれない。けれどネイにはそれだけで十分だった。彼女が必ず自分の下に来てくれると、信じる事ができたから。


『ネイザン』


 いつから居たのか、木陰から相棒の黒豹が姿を見せる。彼は随分と機嫌が良いようで、その尾がゆらゆらとリズミカルに揺れている。


『もう良いのか?』

「あぁ」


 グライオはネイの足に擦り寄る。ネイは彼の頭を優しく撫でた。


『これからどうするのだ?』

「この辺りを見て回ろう。もう少し海も見ておきたい」

『神殿の裏に案内してやろうか?』


 それはきっと、昨夜グライオとリジィが話をしていた精霊達が酒盛りしている場所だろう。確かに見てみたいが、そこはあくまで神殿の敷地内。精霊はフリーパスでも残念ながらネイは人間で、部外者だ。


「……俺が入ってもいいのか?」

『セリオスは良いと言っておったぞ』

「…………。神官長に会ったのか?」

『昨夜、あの後〈風〉達と共にな』

「俺の事を話したのか?」

『我の契約者だという事だけ話しておいた』

「そうか……」


 セリオス神官長は国の重要人物であると同時にリジィの親代わりだったと聞いている。彼女との関係を告げるのならば、自分の口からしておきたい。


『それに神殿で働くリジィターナの姿も見たいだろう?』

「……。そうだな」


 こっそりと自分が知らない彼女の姿を見るのも良いかもしれない。思わぬ所からの提案にネイは口元を緩めて頷いていた。

 

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