62.おまけの護衛
果ての見えない真っ暗な空には沢山の星々が瞬いている。頬を撫でるのは柔らかな秋の夜風。陽が海の向こうに沈んでから大分経つというのに、まだシィシィーレ島は賑やかだ。
森のあちこちで見事な紅葉を見ることが出来るようになった今日、シィシィーレ島では秋の豊穣祭が開かれていた。毎年の収穫への感謝と来年の豊作を祈る為の催しで、豊穣を司る女神フェルノーイの下へ最も人が集まる日でもある。お陰で神殿で働いているリジィターナはここ数日、豊穣祭の準備と急激に増える礼拝希望者の対応に追われていた。
豊穣祭のメインイベントの一つであるセリオス神官長の祈りの義は昼に無事終わった。後はもう一つのイベント、豊穣の喜びを人々で分かち合う、つまり食べて飲んでのお祭り騒ぎである。これは陽が昇るまで続けられる。その為、夜の更けた今でもシィシィーレ島のあちこちで明りが焚かれ、人々の歓声や音楽で賑やかなのである。
神殿での仕事がひと段落したリジィは今、人々の喧騒から離れた丘の上にいた。神殿から三十分ほど歩いた所にあるお気に入りの場所だ。シィシィーレ島には山がないので、この丘の上からは島全体も海も見渡せる。幼い頃から神殿から抜け出しては〈風〉達と遊んでいた場所でもある。
一本だけ生えた大きなクヌギの幹に寄りかかりながら座るリジィの手元には数枚の便箋が握られていた。月明かりに照らされたそれを読む彼女の目は優しく細められている。それはマリアベルからの手紙だった。
ラズとしての役割が終わり、トゥライアの王城を出てからすでに丸一年が経っていた。ラズが去った二ヵ月後に王家は正式に第二王子ディストラードとマリアベルの婚約を発表し、更に一ヵ月後婚姻を結んで挙式を挙げた。神殿は平等な立場でなくてはならない為、神殿の関係者は王家の挙式には参列できない。だからリジィは大衆に紛れてこっそり城下のお披露目パレードを見に行っていた。真っ白なドレスを着たマリアベルは本当に綺麗で、誰よりも幸せそうだった。
そして今リジィはマリアベルのもう一つの朗報を目にしてる。マリアベルが懐妊したのだ。無事生まれたら会いに来て欲しい。手紙にはそう書かれていた。
(良かったね。マリィ)
表情をほころばせて、今は遠い幼馴染に心の中だけでそっと言葉を呟く。
『良い知らせだったのか?』
不意に聞こえた声は馴染みの〈風〉のもの。リジィは緩んだ表情のまま顔を上げた。
「うん。マリアベルが妊娠したんだって」
『あら子供が出来たの?』
「そうだよ」
『それは目出度い』
『本当ね~』
幼い頃からマリアベルを知っている〈風〉達も嬉しそうだ。
あの時願った通りにマリアベルは幸せでいてくれる。それはリジィターナにとってもこの上ない幸せだ。笑みを浮かべるリジィの髪を〈風〉の一人がそっと撫でる。その心地良さに瞼を閉じた。サラサラと伸びた栗色の髪が風に靡く。
一年前肩ほどまでしかなかった髪は、もう背の中ほどまで伸びている。変わったのはそれだけではない。以前より胸も膨らみ、リジィは女性らしい体つきになっていた。そして一番大きな変化は、半月前初潮が来たことだ。
リジィが子供を産めないと医者に診断された理由が、無月経と呼ばれる女性器の機能異常だった。通常十五歳ごろまでには来る二次成長が、リジィにはずっと来なかったのだ。何故それが今頃改善されたのかは分からない。魔術師達によって順調にプレディオ=コーザの魔石が取り除かれているからなのだろうか。
魔石のことなど知らないシィシィーレの医者は心因性ではないかと言っていた。つまり、女性でありたいと強く願う気持ちが女性ホルモンに作用したのではないかと。
リジィは手紙をしまうと自分の髪に触れる。神殿で働く女性達と同じように今日は白のワンピースを着ていた。伸びた髪に女性らしい体つき、清潔感のあるワンピース。誰が見ても今日のリジィターナは女性そのものだ。
(私が、女性でいたいと願ったから……?)
医者の言葉を思い出して自問する。心当たりが無い、とは言えない。だって気付いてしまった。王城から遠く離れて、神殿で毎日を過ごして、足りない事に気付いてしまったのだ。
王城を出た時、自分は何も変わっていないと思った。けれどそうではなかった。リジィの心は今も足りないものを求めている。それは、ネイだ。
故郷の緑に囲まれ、海を眺めて安寧な日々を過ごしても忘れられなかったもの。ふとした時に思い出してしまう仕草や表情。それは確かに恋だった。ラズでいた時には気付けなかった感情。リジィターナに戻って初めて自覚した自分の本当の心。
そんな時思い出したのはセフィルドのあの言葉。
――躊躇う暇があるなら突き進めば良い。掻っ攫われたなら奪い返せば良い。
――自分の為だけに生きて何が悪い。
相手のことを考えて躊躇せずに、自分の為だけに進むことは間違っていないのだと。自分が進みたい道を、自分の思う通りに進めばいいのだと。そう言われている気がして、リジィは随分と遅れて気付いた気持ちを認めてあげることが出来た。遠く離れてから気付くなんて、他人が聞いたら今更だと感じるだろう。けれどそれがリジィの初めての恋で、紛れも無い本心なのだ。それを偽る必要なんて何処にもない。
ネイを好きな自分を受け入れた時、自分は女なのだと初めて強く意識した。それが医者の言ったように自分の体に作用したのかどうかは分からないけれど、一度は諦めた女性として生きる道を再度受け入れるきっかけになったのは確かだ。
『リジィ。寒くはないか?』
〈風〉が気遣うように声をかけてくれた。ラズであってもリジィターナであっても〈風〉達は変わらず傍に居てくれる。それがとても嬉しい。例え初めての恋が叶わなくても、二度とネイと会うことが出来なくても、〈風〉が居てくれれば大丈夫。そう自分を慰めた。
「うん。大丈夫」
『おや、知り合いが来ているようだ』
『ちょっと挨拶してくるわね』
「いってらっしゃい」
〈風〉達の姿が空気に溶ける。豊穣祭は女神の気が最も強くなる時だから、人間だけではなく様々な精霊達もこの地に集まる。特に酒が好きな地の精霊はここぞとばかりに神殿を覗く。供物には沢山のワインが用意されるから、おこぼれを貰おうとにやってくるのだ。精霊達もこの豊穣祭を楽しんでいるのだと思うと、リジィも楽しい気分になる。
そろそろ屋台でも冷やかしに行こうかな。そう思ってリジィが丘の下を見た時、こちらに向かって来る人影を見つけた。この辺りは神殿周りと違って明りがないから、背の高い人だとしか分からない。ここは普段島の人達は近付かない場所だ。見晴らしは良いが、逆に言えば何も無い。もしかしてこの辺りの地理を知らない観光客が道を間違ってしまったのだろうか。声を掛けた方が良いのか迷ったあげく、リジィは腰を上げた。
けれど結局、声を掛ける事は出来なかった。段々と近付いてくるその人物の顔が見えてしまったから。金縛りにあったように指一本動かせず、リジィは月光に照らされたその人をただ見つめる事しかできなかった。
やがて目の前まで来たその人は、月明かりの下にいるリジィを見て眩しそうに目を細める。
背が高く鍛えられた男性の体、闇のように黒い髪、そして同じ色の黒い瞳。何度も何度も頭の中に浮かんでは、リジィの胸をきつく締めていたのと同じ姿がそこにはあった。
「……ラズ」
空気に溶けそうなくらい、微かな声が耳に届く。久しぶりに呼ばれたラズと言う名前に、彼が本物なのだと確信する。けれど、何故?
「ネイ……?」
トゥライアの王城で働いている筈の彼が何故此処に? 一年以上経った今、何故リジィの前に立っているのだろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、ネイは一歩リジィに近付いた。
「会いに来た」
「え?」
「本当はダリオン殿下が行くと言っていたんだが、俺が無理を言って代わってもらった」
「…ど、どうして……」
何故? その疑問はいまだ消えない。自分が仕えるべき王族の希望を断ってまで、何故一人で来たの?
「俺は、……ずっと黙っていた事がある。それを謝りに来た」
「謝る?」
「知っていたんだ」
「え……」
「ラズが女性であることを」
「っ!! ……う、うそ」
その言葉を到底信じられず、リジィは戸惑った。思わず一歩足が下がる。けれどその距離を詰めるようにネイも近づいて来る。
「本当だ。黙っていてすまなかった」
けれど冷静になって考えてみれば、今のリジィは女性の格好をしている。それでもネイは驚きもせず『ラズ』と呼んだ。それが何よりの証拠ではないか。それを理解した途端、リジィの心臓がバクバクと音を立てた。頬か、耳が、体中が熱い。だって、相手はかつての仕事仲間ではない。リジィを女性として見ている男性だ。初めて自分が恋心を抱いた人だ。何を話せば良いのか分からない。どう接すれば良いのか、リジィには全く分からない。
混乱するリジィは気付けなかった。一歩踏み込めば触れられる距離まで、いつの間にかネイが近付いている事に。
ずっと目を逸らしているわけにはいかず、ぎこちない動きでネイを見る。そこでやっとネイの姿をちゃんと見ることが出来た。気付いたのは、ネイが記憶の中の姿よりも少し痩せたこと。泣きそうな辛そうな顔で自分を見ていること。
自分だけじゃない。ネイも不安なのだ。一年以上も会うことのなかった相手に向き合う事に。それでもネイは会いに来てくれた。それなのに此処でリジィが逃げてしまったら、ネイを傷つけてしまう……?
言葉の出ないリジィに、ネイの口から祈るような言葉が零れる。
「もし……」
「…………」
「もし俺を許してくれるのなら、名前を、教えてくれないか」
「な……まえ?」
「あぁ。ラズじゃない。本当の名前を」
そうだ。嘘をついていたのはネイだけではない。リジィだって同じだ。ずっとずっと一緒に居たのに、嘘をついていた。自分は男だという嘘が邪魔をして自分の気持ちに向き合う事が出来なかった。
ネイは本当のことを告げる為だけに、謝る為だけに此処まで来てくれた。
(ほんと、真面目なんだから……)
そう言う所、ちっとも変わってない。リジィが好きだと思ったネイのままだ。そう思ったら、無性に泣きたくなった。
「ごめん……」
「…………」
「ごめんなさい、私……」
「それは、……駄目だってことか?」
「えっ、ちが……」
苦しげな声が聞こえたと思ったら、唐突に視界が塞がれた。夜風に当てられほんの少し冷えた肌が自分よりも熱い体温に包まれる。苦しいくらい強く抱きしめるのは太い腕。黒い髪がリジィの頬に触れた。
「ど、して……」
「好きだ」
「!!」
搾り出したような声。ほんの少し、抱きしめる腕が震えている。その言葉が嘘じゃない事は分かっている。だってネイは嘘をつくような人じゃないって知っている。ずっとずっと前からリジィは知っているのだから。
リジィの目から次々と涙が零れる。しゃくりあげそうな喉を必死にこらえて、なんとか口を開いた。
「……リジィターナ」
腕の中でリジィが零したのはとても小さな声だったけれど、確かにネイへと届いていた。一瞬ネイの腕が緩む。けれど直ぐに抱きしめ直した。自分よりも小さな肩に額を寄せ、彼女の耳にかみ締めるようにそっと呟く。
「リジィターナ」
「……うん」
「リジィターナ…」
「うん」
自分の感情に正面から向き合えなかった二人だから、此処まで来るのに随分と時間がかかってしまった。自分の心を認めてあげること、自分の為だけに生きることを許す事。離れ離れになって一人きりになってやっと気づく事が出来た、認めることが出来た自分の気持ち。不器用な、二人の恋。
だからこそ再会には勇気が必要だったけれど、その壁をネイが飛び越えてくれた。なら、リジィは真っ直ぐにその気持ちに応えればいい。嘘偽りなく、他の誰でもない自分の為に。
「今すぐでなくてもいい。俺の傍で、共に生きてくれないか」
「はい……」
零れた涙は柔らかい夜風が乾かしてくれた。優しい闇に包まれて、二人を邪魔するものは何もない。リジィはネイの背中に手を回し、そっと彼の服を掴んで体を寄せた。
丘の上から臨める島のあちこちでは今も祝いの歓声が上がっている。明るい松明に照らされた人々。鳴り止まぬ乾杯の音に、鳴り止まぬ音楽。
けれどそんな賑やかな喧騒から遠く離れた丘の上。月明かりに照らされて、重なり合う二つの影。
そんな彼らを二人の風の精霊と一匹の黒豹が満足そうに見守っていた。
END
ご拝読ありがとうございました。これにて本編は完結となります。
あと補足的な番外編を数話投稿して終了しますので、ご興味のある方は少々お待ち下さい。




