60.見えない心
琥珀色の液体の水面に歪んだ自分の顔が映っている。誰から見ても無表情なその顔で、ネイは乱暴にグラスを煽った。明りが灯されないままの自室は、月明かりだけでは薄暗い。
今ネイが飲んでいるのは、トゥライア国内で広く流通している安価な蒸留酒だ。特別それが好みだという訳ではない。元々酒は付き合い程度にしか飲まないし、寝酒の習慣も無い。けれど此処最近、ネイは毎日のように酒に手を出していた。
酩酊するほど弱くはないし、かと言ってほろ酔いになって気分が向上するわけでもない。ならば何故飲んでいるのかと言えば、それは頭の中に浮かぶ一人の影から逃げたいからだ。考えたくないと思えば思う程ネイから離れないその人物は、酒を呑んだ所で忘れられる訳がないのだけれど。
淡々と空いたグラスに次の酒を注ぐネイの足元には、闇の精霊グライオが静かに横たわっている。酒を呑み始めた頃は何か言いたげに視線をよこしていたが、今はそれもない。ただその間中、グライオがネイの傍を離れる事はなかった。まるで重傷を負った彼の片割れよりも、ネイの方が心配だと言うように。
ネイはちらりと床の上の黒豹を見る。グライオは目を閉じたまま微動だにしないが、ネイの事を気にかけているのは分かっていた。そう、ネイには分かるのだ。グライオの心が。それが何故なのか問うた事はないが、あの日、契約を交わしたブルネイとマリアベルを見てネイは確信していた。傷を負って倒れた白豹。そして精霊と契約を交わした人間の少女。他人事だとは思えなかった。記憶は定かでないが、かつて自分は同じ事をグライオとしたのではないか? そんな予感がした。そしてそれは段々と根拠のない確信へと変わっていた。はっきりと昔を思い出した訳ではないが、この面倒見の良い人間臭い闇の精霊はこれからずっと自分と共に居てくれる。そう思ったら少し気持ちが楽になった。
コトッと小さな音を立てて、口をつけようとしていたグラスをテーブルに戻す。そしてネイは座っていた椅子から床へと腰を下ろした。グライオの隣に。それに気付いたグライオは瞼を開き、前足の上に置いていた顔を上げる。するとネイの手がグライオの頭を撫でた。剣だこのある硬い手のひら。不器用な手つきが段々と黒豹の背へと移動する。けれどネイの目はどこか遠くに向けられていた。
『……このままで良いのか?』
何に対しての言葉なのか、聞かずとも分かっているのだろう。ネイは視線を床に落とした。
「…………。もう決めた事だ」
『大切なのだろう?』
「だから! 大切だから、俺は……」
グライオを撫でていた手は、乱暴に床へ叩きつけられる。まるで痛みを感じる事が自分への罰であるかのように、ネイは何度も拳を振るった。見かねたグライオが緩くその腕を咥えて止める。
『よせ』
「……俺では、護れない」
力の抜けたネイの腕がだらりと下がる。グライオはぴったりとネイに寄り添うように床に伏せ直した。
例の魔術師の仕掛けた魔方陣によってラズが攫われ、ネイは護れなかった自分を責めた。けれどそれだけではネイの心は折れなかった。身勝手だと分かっていても近衛騎士団長シークに休暇届を出し、足が動く限りラズを探し回った。そして、〈風〉と共に向かったあの安宿。そこでネイの視界に飛び込んできたのは、衣服の乱れたラズと覆いかぶさる男の姿。
それを見た途端、ネイの中で何かが弾けた。自分を支配している感情は怒り。護れなかった自分への怒りとラズを害そうしている男への怒りだ。そしてそれらはすぐに他の感情へと飲み込まれた。それは――嫉妬だった。
ネイの手からラズを奪った男への、ラズの涙を見た男への、ラズの肌に触れた男への嫉妬。男の欲を含んだその感情をネイが自覚した時、ラズはネイの目から逃れるようにセフィルドの影へと身を寄せた。
鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。男の欲を覚えたネイから逃げ、ラズはセフィルドを選んだのだ。この時ネイの中でずっと張り詰めていた何かが崩れてしまった。後から聞けば、セフィルドはラズを護る為に敵の一味になったのだと言う。ならば護れなかったネイよりも、味方をも欺き、護り抜いたセフィルドをラズが信用するのは当然のことだと思えた。
全ての戦いが終わり、ネイは最も重要な時に私欲の為だけに休暇を取った事への責任を取る為、直属の上司であるシークに辞職届けを提出した。けれどそのような責任の取り方は不要だと却下された。責任を取って欲しいと相手が思っていないのに、責任を取ろうとするのはただの自己満足だと諭された。その通りだ。ネイは自分で自分を責める為に、辞職しようとしていたのだから。
それでもラズの護衛を外れる事は許可された。騎士団長の命令よりも私欲を優先させたのだ。騎士としてあるまじき行為に罰がなければ他の騎士達への示しが付かない。結果、ネイは要人の護衛から外され、今は訓練のみの参加となっている。近衛から平の騎士に降格する事も覚悟していたが、「この忙しい時にお前を他の隊に取られるのは俺が困る」と言ってシークは残留を許してくれた。
ラズの護衛は元マリアベルの担当だったクレイドが請け負ってくれたと聞いている。彼は腕も確かだし、ネイも信頼している先輩騎士だ。彼ならば問題なくラズを護ってくれるだろう。
自分は罰を科せられ、後任の護衛も決まったラズとはこれで会う事もない。全ては自分が望んだ通りだ。それなのに、こうも毎日じりじりと胸が焼けるような思いを味わっているのは何故なのか。これで良かったのだと自分を誤魔化すように毎晩酒を煽っても、それが消える事はない。
(俺はまだ……ラズが欲しいのか……?)
目を閉じれば直ぐに思い浮かぶラズの様々な表情。笑った顔も怒った顔も泣き顔も。けれどダメだ。もう自分はラズの護衛ではいられない。ネイは異性としてラズを見ていると強く自覚してしまったのだから。
欲があるのだ。自分の中に汚い男の欲が。それは護る筈だったラズを傷つけ、泣かせようとしている。つい先日、ラズの肌を味わった夢を見た朝は酷く後悔に苛まれた。もう後戻りできないと突きつけられた気がした。だから手放した。ネイの中にあるのは欲だけではない。護衛対象だからではなく女だからではなく、ネイ自身がラズという一人の人間を大切にしたいと思う、いつでも笑っていて欲しいと願う気持ちが確かにあるから。誰よりも愛しいという気持ちが確かにあるから。だから、護る為に手放したのに。
『欲を持たぬ者などおらぬ』
「……俺には必要ない」
『違う。必要だから欲するのだ』
「俺には必要でもラズには必要ない!」
『ネイザン……』
そっと黒豹が額をネイの太ももに摺り寄せる。ネイは再びその頭に手を置いた。けれどその手がグライオを撫でる事はなかった。
『自分ばかりを責めるのはよせ。ヒトが自分以外のヒトを求めるのはごく自然で当たり前の事だ。叶わぬ願いでもいい。それでも、そんな自分を認めてやらねば』
「……認める?」
『あぁ。そうだ。求める自分を許してやれ。……できぬのならば、代わりに我がお前を許そう』
「…なんだ、それ……」
そう零したネイの口元から、ふっと小さな息が漏れた。同時にネイの体から力が抜け、緩慢な動きで瞼が下りる。そんなネイを見ていたグライオは、彼が完全に眠りに落ちたのを確認すると静かにベッドから毛布を引き摺り下ろし、大切な契約者へと被せた。
自分の感情を持てあまし、悩み苦しむその姿はまるで小さな子供のようだ。けれどグライオはどこかで安堵もしていた。悩むのも苦しむのも全て昔ネイが凍らせていた心が、今確かに動いている証なのだから。
***
シィシィーレへと出発する前日。午前中に仕事を片付けたダンがラズの下を訪れたのは昼を過ぎて一時間程経った頃だった。ノックの音に気付いたラズが自室の扉を開けると、ダンはラズの表情を確かめるように一度見て、促されるまま中に入る。ソファの定位置に座り、ダンは「良いもの見せてやるよ」と言った。
「良いもの?」
お茶を淹れて戻ってきたラズがダンを見返す。すると彼は上着のポケットに手を入れた。中から取り出したのは小さくて赤い何か。それはスルスルと勝手に移動して、ダンの手のひらにちょこんと座った。
「これ、……トカゲ?」
ラズが首を傾げると、体長十五センチほどの小さなトカゲがくわっと口を開ける。その奥にはチロチロと小さな炎が見え隠れしていた。
「うわっ!?」
「はははっ、サディアじゃ火蜥蜴って呼んでるらしい」
「火蜥蜴?」
本当にトカゲだったらしい。ツルツルした鱗は真っ赤な夕陽のような美しい色をしている。
「火山なんかに生息している火の精霊なんだってさ。見たこと無いだろ? トゥライアに火山はないからな」
「じゃあ、どうしたのこの子?」
「フェイロンに貰ったんだ。元々ヘリオにでも見せてやろうと思ってサディアから連れてきたらしい。ま、実際はそんな暇もないくらいバタバタしたからな。フェイロンも帰り支度をするまですっかり忘れてたんだってさ」
サディア国のフェイロン王子は生まれつき魔力が人より強く、精霊が見える事は知っていた。ダンの説明によれば、自国の魔術師から魔術の基礎を学んでいるそうだ。その一環で火山地帯を訪れた際、たまたま師の魔術師がこの火蜥蜴を発見したらしい。
「ちょっと借りるぞ」
そう言って立ち上がったダンが部屋の隅から持ってきたのは夜の灯り用に備付けられているランプ。それを目の前のローテーブルの上に置き、ガラスグローブを外してマッチで火をつける。するとテーブルの上で大人しくしていた火蜥蜴が突然ランプに向かって突進した。そして器用に芯を避けてランプの炎に噛みつく。熱さなど感じないのか、パクパクと炎の上で顎を動かしている。
「えっ!?」
「こいつのエサだよ」
「エサ? 炎が?」
「そ。面白いだろ? こいつは木屑や落ち葉を燃やしたものより、精油の炎が好みなんだ」
「へぇ。だから人懐こいんだ」
「そういう事。精油は人の傍に居ないと手に入らないからな」
フェイロンと魔術師がこの火蜥蜴を手に入れたのも捕まえたからではなく、二人が持っていたランタンの炎を見て自分から寄ってきたらしい。それ以来、フェイロンが城で面倒を見ていたそうだ。
「この子、名前は?」
「いや、名前はつけないでおこうと思ってる」
「どうして?」
「ヘリオに聞いたよ。〈風〉の事」
「あっ……」
以前ラズが友人の〈風〉達に名前をつけない理由を聞かれた事がある。その話を覚えていてくれたんだろう。
「俺はさ、いつかサディアに行ったらこいつを故郷に戻してやろうと思うんだ。だから名前は付けない」
「そっか」
フェイロンがヘリオではなくダンに火蜥蜴を譲ったのも、彼がいつかサディアに来ることを確信していたからなのかもしれない。
しばらくすると火蜥蜴はランプから離れ、自分でダンの胸ポケットに戻って行った。
「お腹一杯になったのかな?」
「多分な。暗くて狭い所が好きらしくて、すぐポケットに入ろうとするんだ」
「あははっ。可愛いな」
「……やっと笑ったな」
「え?」
ランプの火を消し、片付けながらダンが言う。
「マリアベルが心配してた。お前が、らしくないって」
「…………」
残された時間は出来るだけマリアベルの傍にいる為、ラズは手が空く度に彼女の下を訪れていた。その時は普段通りに接していたつもりだけれど、言葉にしないだけでマリアベルは気付いていたのだ。笑うその裏側に憂いを隠している事。辛い事実から目を逸らして逃げている事を。
ダンもまた、ラズを心配して火蜥蜴を見せに来てくれたのだろう。
「ネイザンがお前の護衛辞めたって?」
「うん。……でもまぁ、それは別に……」
「嘘付け。気になってるんだろ? ネイザンの事」
強がりもバッサリと切られ、ラズは知らず知らずの内に苦笑していた。こういう感情を、何て言えばいいのだろう。言われた言葉は決して優しいものではないけれど、余計な気遣いも飾りもない言葉は、まるで付き合いの長い友人同士のようだ。
「何笑ってんだよ」
ダンが怪訝な表情をする。そんな顔にもなるだろう。笑みが浮かぶような会話の流れではなかったのだから。
「いや、まぁ……。でも本当にいいんだ。ネイザンが俺にばかり構っていられない事は分かってるし。俺も、明日には此処を発つしな。今更グダグダ言うつもりはないよ」
「ふーん。そうか」
ダンはまだ納得がいかなようだったが、それ以上は言及しなかった。無理に心の内を聞き出すのは本意ではない。ただ、ラズが愚痴なり不安なり零すのなら聞き役になろうと思っていただけで。
「ま、シィシィーレに戻って暇になったら手紙書けよ。俺も、返事出すし」
「うん。必ず書くよ」
「……あー、あのさ」
「うん?」
一度は立ち上がったものの、言うべき言葉を探してダンが視線を彷徨わせる。一度火蜥蜴が潜り込んでいるポケットを上から撫でて、次にラズの顔を見た。
「……ありがとな」
「ダン?」
誰にも言えず、一人で重く暗い感情を抱えていた。陽の当たる道を歩く兄弟達とは違い、生まれた時から人々の嘲笑と拒絶に囲まれていた自分はずっとこのままなのだろうと勝手に思っていた。諦めていた。歩み寄ろうと勇気を出すこともなく、周囲の本当の心など見ようともしないで。
そんなダンの顔を上げさせてくれたのはラズだった。誰もが欲する美しい女神の愛し子ではない。彼女にたまたま付いて来ただけの護衛。けれどそんなラズこそが、誰よりも何よりも大切な友人になってくれた。ラズの隣でだけ、王子と言う立場を忘れることができた。
きっとラズに会う事がなければ、フェイロンも自分に留学の話などしなかっただろう。この火蜥蜴も当初の予定通り弟のペットにでもなっていたに違いない。ダンは前に進んでいる。他に比べれば緩慢な速度でも、確かに変わっている。そしてそれは他の誰でもない、ラズのお陰なのだ。だから、ダンの口から零れたのは感謝の言葉だった。
それ以上何も言わないダンの気持ちが伝わったのか、ラズはただ首を横に振る。
「俺は、何も……」
その表情が今にも泣きそうで、ダンはこのとき初めてラズが同い年なのだと実感した。頭では理解していたけれど、どんな状況でも取り乱さず周囲を受け止めていたラズは自分よりも遥かに年上のように感じていたから。
肩を震わせて下を向くラズの髪を、ダンはぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「元気でな」
「うん、ダンも」
最後には顔を上げて笑い合った。明日此処から発つのだと、王城の皆と別れる事になるのだと、ラズはこの時やっと実感した。
ダンが部屋から出て、ラズは一人ソファに座って天井を見上げた。
彼は此処で出来た大切な友人だ。最初はマリアベルの婿候補の一人に過ぎなかった。けれど彼が胸の内に抱えているものを知り、放っておけなかった。大勢の人に囲まれていても、ダンは一人だったから。
いつから友人関係になれたのか、今考えてもはっきりとした境界線は分からない。ダンから敬語で話すな、と言われた時はまだそんな関係じゃなかった気がする。いつの間にか、というのが正解なのだろう。
ダンと会えなくなるのは寂しいが、今の彼なら兄達と共に国を支える王子として問題なく成長していくだろう。時折手紙を書いて、互いの近況を報告し合えるのならばそれもいい。この国の王子と手紙をやり取りする仲になった事を知ったら、神殿の人達は驚くかもしれない。
そこまで考えて、ラズは一瞬息が止まったような気がした。頭に浮かんだのは最後に見たネイの姿。
(なら、ネイは……?)
ダンもネイも、ラズをマリアベルのおまけではなく、ラズをラズとして見てくれた人だ。
(なのに、どうして……?)
ダンは手紙を書いて、時々顔を見られれば良いと思う。けれど、ネイと同じことができるだろうか?
今気まずくなってしまったからとか、そんな理由ではない。けれど遠く離れた場所で手紙のやり取りが出来ればそれで良いなんて、そんなこと思えない。
(このまま別れる気でいたくせに、今更……)
そう、今更だ。けれど嘘偽りないラズの本心は、ネイともっと話をしたかったと思っている。これまでのように時折剣の相手をしてもらって、共に外出して、食事を取って……。そういう毎日がもっと続けば良かったのにと思う。そしてもっとネイのことが知れたなら――
(どうして?)
友人のダンとは離れても大丈夫だと確信している。だから別れの言葉を交わす事ができた。けれどネイは? 本当にこのまま別れられると思ってた? シィシィーレに帰ってもネイの傍には闇の精霊グライオがいるから、いざとなれば〈風〉に協力してもらって連絡が取れると思っていたんじゃないの?
(違う。そんなこと……)
だってネイはダンのように友人じゃない。王命によって傍にいただけの、ただの護衛だ。いくらネイ自身が良い人だからと言って、会いたいとかこれからも一緒に居たいとか、身勝手な我侭を言って良い相手ではない。彼はあくまで仕事仲間であって、プライベートなものは含まない関係なのだから。
(ならこの気持ちは一体、……何?)
まだ離れたくない、と確かにラズは思っている。情が移る、とはこういう事を言うのだろうか。
――なんだかネイが腹を抱えて大笑いする所を見たくなってきた。
――アレが大笑いか。確かに我も見てみたい。
そんな会話をグライオと交わしたな、と唐突に思い出す。けれど結局ネイが大笑いする姿は見ることが出来なかった。ほんの少しだけ口角を上げて目を細める姿は数度目にしたけれど。
「…………」
ネイの笑みを思い出しただけで、喉が狭くなったかのような息苦しさがラズを襲う。ラズは落ち着かない胸の内を誤魔化すように深く深く息を吐いた。




