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59.終息

 

 雲の少ない夜空に欠けた月が浮かんでいる。あと二・三日すれば三日月になるだろう細い月だ。窓から優しい月光を見上げながら、灯りの落とされた自室でマリアベルは一人佇んでいた。時刻は日付が変わった夜半時。普段ならとっくに就寝している時間だ。

 彼女の傍には今、誰も居ない。独りの時はいつも寄り添ってくれていた光の精霊は今日の戦いの傷を癒す為、精霊のみが行き来できる亜空間でその身を休めている。彼の傍には半身であるグライオが居てくれるから心配はないだろう。かなりの魔力を消耗しているので直ぐに回復は出来ないようだけれど、無事でいてくれるのならそれでいい。あの後正式に契約を交わした為、ブルネイの姿が見えなくてもマリアベルには彼の存在をちゃんと感じ取る事が出来ているのだ。

 あんな事件があったすぐ後だから、ディンは随分とマリアベルを心配してくれた。今夜も共に居ると言ってくれたのだけれどそれは断った。マリアベルにはまだやる事があるから。その証拠に、彼女は巫女の正装を身につけていた。


「眠れないのですか?」


 突然部屋に落ちてきた静かな声。けれどマリアベルは驚く様子も見せずに窓から目を離した。寝室の部屋の中央。柔らかな絨毯の上には一人の男性が立っている。音もなく現れた彼の髪は、まるで先程まで眺めていた月のような色だ。彼はマリアベルと目を合わせると穏やかな笑みを浮かべた。


「こんな時間に女性の部屋にお邪魔するのは無礼だと承知していますが、貴方が起きていてくださって助かりました」

「貴方は?」

「この姿でお目にかかるのは初めてですね。レギ=フレキオンと申します」

「魔術師長の?」

「えぇ」


 鼠色のローブは確かにマリアベルの記憶の中にあるレギ師長と一致する。けれどそれ以外はまるで違う。まるで精霊のように年齢不詳な整った顔立ち。月光を集めたような色の真っ直ぐで艶やかな髪。陶器のように傷一つ見当たらない滑らかな肌。

 そしてマリアベルの視線は彼の腕が抱えているものに辿り着いた。それは黒い布で覆われたもの。ほんの少し捲れた布の隙間から見えていたのは青白い男性の顔だ。


「……そちらのお方は?」

「魔術師の男です」


 レギに横抱きにされたままピクリとも動かない男性。既に彼の鼓動は止まっていた。青白い顔が月光に照らされて闇の中に浮かび上がる。

 彼こそがマリアベルが就寝せずに待っていたものだ。レギは絨毯の上にそっと彼を横たえた。


「冥福を祈ってやってはくれませんか?」

「お名前は?」

「プレディオ=コーザ」


 マリアベルは彼の前に膝を付き、両手を組むと静かに祈り言葉を唱え始めた。

 女神に恋焦がれた末に罪を犯した愚かな男。そうまでしてもフェイルノーイ神のいる場所に行けないのならせめて、女神の愛し子に送ってやって欲しかった。

 ただ一人の男の為に、祈りを捧げる巫女。盲目なまでに女神に一生を捧げた男。その光景を見ながら、レギは思った。彼女が巫女服のまま待っていてくれたのは、彼女自身がこれを予感したからなのか。それとも、女神のお言葉があったからなのか。けれど最後まで、その疑問を彼が口にする事はなかった。





 ***


 豪奢な馬車が城の正面階段前に留まっている。その周囲にはトゥライアとは違う制服を着た騎士達が整列して主を待っていた。濃紺を基調としたその騎士服はサディア国騎士団のもの。今日は第二王子フェイロンと第一王女ティナトナが帰国する日だ。その為、自国から迎えの馬車と護衛の騎士達がトゥライアを訪れているのである。

 例の魔術師が城を襲撃したあの日から既に七日が経っていた。主犯の男はレギによって討たれ、事件に関する調査も一通り終わった。トゥライア国王がもう危険はないと判断した為、客人二人の帰国の日を無事迎えられたのである。

 正式な式典と挨拶は広間で既に済んでいるが、サディア国の二人を見送る為、馬車の前にはトゥライアの王子達に加えマリアベルが顔を揃えていた。


「随分長いこと世話になってしまったな」


 事件のことなどおくびにも出さず、フェイロンは訪問時と同じように余裕の笑みを見せる。それに答えたのは第一王子マクシミリアンだ。彼にとって同盟国の第二王子は自分の立場を理解してくれる同胞でもあり、何でも言い合える親友でもある。


「気にするな。こちらが引き止めてしまったようなものだ」

「まぁ、そう言うなよ。色々あったがトゥライアの歴史的瞬間に立ち合わせてもらったんだからな」


 そう言ってフェイロンはマリアベルに視線を移した。正式な場の後とあって、マリアベルは白に翠の刺繍が施された巫女の正装を身につけている。太陽の光を浴びたその姿は神々しくもあったが、同時に力強くもあった。それは恐らく隣に立つ第二王子ディストラードのお陰なのだろう。最初に自分が見たマリアベルは儚い印象だった。自分の意思がない、流されるがまま誰かの傍で微笑んでいるような。けれど今、王子達や護衛の後ろで守られていただけの巫女の姿は見る影もない。そして先日、彼女は自分の意思でディンを選んだ。今後正式に彼らが婚姻を交わせば、トゥライアの歴史が大きく変わるだろう。

 彼女に向かってにっこりと微笑めば、ディンがムッと顔を歪める。分かりやすい彼の表情はフェイロンの悪戯心を余計に刺激するとは知らずに。現にフェイロンの口から出たのは、二人を祝福するには程遠い言葉だ。


「ディンに飽きたらいつでもサディアに来てくださって結構ですよ?」

「え?」

「おい!! 何勝手なこと言ってんだ!!」


 案の定顔を真っ赤にして怒りを顕にするディンなど、フェイロンは何処吹く風。トゥライアの王子達の仲が良いのは結構な事だが、残酷な事実を指摘する人間も必要だ。フェイロンはトゥライアの同盟国王家として、自分がその任を背負うべきだと自負している。そう、あくまで自分が意地悪するのはトゥライア国の将来の為だ。


「煩い。吠えるな。お前はもう少し精神的余裕を身につけろ」

「うるさいのはお前だ!!」

「……別れの時くらい絡むなよ」


 はぁっと溜息をついたのは第三王子ダリオン。彼に視線を向けたフェイロンはくしゃりとブラウンの髪を乱暴に撫でた。


「おい、何だよ……」

「お前は変わったな」

「え?」


 幼い頃からダンを知っているフェイロンは、彼が人付き合いを苦手としているのも承知している。何時からか、それに拍車がかかったように人を避けるようになった事も。けれど今回トゥライアに来て、出会ったダンは違っていた。マック程の社交性はないにしても、どこか楽しそうに夜会をこなしていた様子や、誰かの為に自分の意見を主張したり、声を荒げる姿を見るのは初めてだった。

 彼が人と向き合えるようになったのは一体誰の影響かは分からないが、王子達の中で一番成長しているのはダンであるとフェイロンは感じていた。


「お前、いっその事うちに留学するか?」

「留学?」

「あぁ。知らない環境に身を置いてみるのも良いと思うぞ」


 ダンにとっては突飛な提案だったが、今まで社交の場を避けていた分、兄達に比べて経験も勉強も足りないと自覚している。いつまでも周囲に甘えていてはいけないのだ。自国を離れサディアに留学すれば、一から人間関係を築く経験や、他国の政治なども学ぶ事ができる。

 ダンは真っ直ぐにフェイロンを見返した。


「……考えてみるよ」

「気が向いたらいつでも連絡してこい」

「うん」

「で? お前はなんでそんな顔してるいんだ?」


 フェイロンが振り返れば、まだディンが彼を睨みつけていた。どうやらフェイロンがダンの為に留学の話をしたのが気に食わなかったらしい。兄としてのお株を奪われた気分なのかもしれない。そんな彼に向かってフェイロンは大袈裟に溜息をつく。


「ダンを見習って、いい加減お前も成長しろ」

「うるせぇ!!」


 フェイロンに噛み付くディンを少し離れた場所でティナトナが見つめていた。その目にはいまだ翳りがある。それに気がついたヘリオは兄達の隣から彼女の傍に移動した。


「ティナ」

「……ヘリオ?」


 目線をほんの少し下に向ければ自分を見つめている真っ直ぐな瞳とぶつかる。戸惑うティナトナの左手をヘリオはそっと両手で包み込んだ。その手はティナトナよりも小さいけれど、温かい。


「どうしたの?」

「ティナは、トゥライアが嫌いになった?」

「…………」


 そんなは事ない。そう口にしようとして、けれど出来なかった。トゥライアが嫌いなわけじゃない。でも此処には辛い思い出がある。正直、次の訪問の約束をする気にはなれない。そんなティナトナの心情を汲み取ったのか、ヘリオの手に力が篭る。


「僕はティナが好きだよ」

「え……?」

「だから、今度は僕に会いに来てね」


 そう言ってにっこり笑ったその表情は、今までティナトナが見てきた無邪気な幼い少年の笑顔ではない。


(え? え??)


 今までならヘリオの『好き』は素直に知人に対する好意として受け取っただろう。五つ年下の少年は人懐っこい性格で誰にでも好かれているから。けれど自分の手を包む彼の体温や大人びた表情がそれを否定する。ティナトナが好きの重さを量りかねていたら、その隙にヘリオが顔を近づけそっと耳打ちした。


「僕は絶対ディン兄様よりいい男になるからね」


 途端に真っ赤に染まるティナトナの顔。満面の笑みを浮かべる第四王子ヘリオスティンに、今日初めてティナトナは知らない男の顔を見たのだった。





 ***


「貴方が居なくなると寂しくなりますね」


 そう呟いたのは左の魔術師ケヴィーノ=オレゴンだった。目の前に広げていた資料を片付けながらラズは苦笑する。


「そんな、大袈裟ですよ」

「少なくとも僕らは寂しいですよ。ね? アレク」

「え…、あぁ…えと、はい……」


 どもりながら肯定した人嫌いのフレアレクの返事はラズにとって予想外だった。人付き合いが下手な分、フレアレクは嘘もつかない。少なからず嫌われては居ない事に、ラズはふっと笑みを零した。


「おいおい、私には聞いてくれないのか?」

「失礼しました、ハディー執政官。優秀な部下を失うのは痛いでしょう」

「あぁ、勿論だ。だが、いくら口説いても靡いてくれなくてね。困ったもんだよ」


 そう言って、ソファの向かいに座っていたハディーが肩を竦めた。

 此処はハディーの執務室だ。ラズは呪いの根源となった魔石について今までの調査報告と捜索の引継ぎの為にこの部屋を訪れていた。これから魔石の解析についてはケヴィーノに加えてフレアレクが、そして捜索と調査についてはハディーの指揮の下、騎士達が行う事になる。そこで今までラズが持っていた資料や調査方法等について説明を行っていたのだ。つまり、今日をもってラズは呪いの調査を手放す事になる。


「魔石についてはまだ未解明の部分もあるのだろう? 何も今シィシィーレに帰らなくても」

「そうは仰いますが、調査は捜索方法が確立してれば誰にでも出来ます。魔石の解析については魔術師の方に一任していて私に出来る事はありません。例の騒動も落ち着いて、マリアベル様がお相手を決めた以上、私が此処に留まる理由がないのですよ」

「そうは言ってもなぁ……。何も魔石の調査だけの為に残って欲しいとは言わんよ。魔石のある場所を特定した君の統計の知識などは他の仕事にも役立つ。これからも私の下で働いてくれると実に有り難いんだが」

「お言葉は大変嬉しいのですが、私は神殿の人間ですから」


 そう言われてしまえば、これ以上留める言葉はないのだろう。ハディーは優秀な部下を手放すことに深い溜息を吐いた。


「まぁ、仕方ないな。気が変わったらいつでも私のところに来てくれ」

「ははっ。お世話になりました」


 一礼してラズは執務室を出る。廊下でラズを待っていたのは近衛騎士のクレイドだ。


「お待たせしました」

「いえ。この後はどちらに?」

「自室に戻って部屋を片付けようかと」

「かしこまりました」


 クレイドの先導で廊下を進む。自分よりも大きな背をラズは複雑な思いで眺めた。

 あの事件以来、ラズの専属護衛を務めてくれているのはクレイドだ。ラズはあれから一度もネイと顔を合わせていない。まさか仕事が出来ないほどの深い傷を負ったのではと心配したが、クレイドの話は予想とは違った。ネイはラズの護衛を辞退したと言うのだ。どうやらネイ自身が近衛騎士団長シークに願い出たらしい。

 何故、とは聞けなかった。ネイがセフィルドの手から救い出してくれたあの日、拒絶されたと感じたのは間違いではなかったのだ。その証拠にグライオもラズの下に顔を出さない。だからラズは自分からネイに連絡を取れないでいる。まだ城に残って欲しいという声はあちこちから上がっていたが、一刻も早くシィシィーレ島に戻りたいと思っている本当の理由は、ネイから避けられているのが気まずいからだなんて口が裂けても言えない。

 明後日には城を立つ。ネイとはこのまま別れる事になるだろう。


「ラズ殿?」

「あ、はい!」


 クレイドに呼ばれて慌てて顔を上げれば、既に自室に着いていた。彼が開けてくれたドアをくぐり、ラズは部屋を見渡す。けどやはりそこには誰も居ない。以前はいつも部屋に寝そべっていた黒豹の姿さえそこにはなかった。知らず知らずの内に溜息が漏れる。


「クレイドさん」

「はい」

「もう今日出かける予定はありませんから、騎士団に戻っていただいて結構ですよ」

「かしこまりました」


 一礼してクレイドが部屋を出て行く。彼は決して無駄口は叩かない人だ。その分余計な気遣いもなくて、今のラズにとっては気が楽だった。


「さて、やるか」


 魔石に関する書類は全て提出しているので机の上はある程度片付いている。あとは図書室から借りっ放しの本や私物を整理すれば、今日中に終わるだろう。


(そうしたら、……後は此処を出て行くだけ、か)


 故郷に戻れる。馴染み深い、緑多き地へ。嬉しい事の筈なのに心は浮かない。そこにマリアベルが居ないから? それとも――


 それ以上は考えないようにして、ラズはひたすら手を動かした。少しずつ空っぽになっていく小さな部屋はまるでラズの心の内を表しているかのようだった。

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