58.女神
「すごい……」
ラズの横でケヴィンが呟く。その視線の先には剣を手に結界内に閉じ込められた白豹へ近付くネイの姿があった。その後ろには立ち上がるので精一杯の黒豹がいる。何故ケヴィンがすごいと言ったのか、魔術師ではないラズにもその理由が一目で分かった。
「ケヴィンさん。あれは……」
「恐らくグライオ殿が彼に力を送っているのでしょう。もしや、彼らは契約しているのですか?」
「……えぇ」
ネイが手にした剣を闇の魔力が覆っている。契約者が精霊を使役できる事はラズも知っていた。けれどこんな風に精霊の力を自らに取り込む姿など初めて目にする。ケヴィンの話では強い魔力耐性がなければ不可能らしい。幼い頃からグライオと契約していたネイだからこそ出来るのだろう。
しばらくすると再び弦が切れるような音が二・三度続く。結界が壊れ始めている合図だ。ネイは腕を上げ、切っ先を下げていた剣を構える。それを見たラズも手元の剣を握り直した。
「〈風〉」
『……行くのね?』
「とてもじゃないけど俺じゃ敵わない。でも出来る限りのフォローをしたい。手伝ってくれる?」
『勿論よ』
その時、移動しようとしたラズの背にケヴィンから声がかかった。
「ラズ殿」
「はい」
「剣をお借りできませんか?」
「剣を?」
手にした剣に視線を落とす。何か考えがあるのだろう。ラズは素直にそれを渡した。礼を言って、ケヴィンは左手で剣を横に持つ。右手には彼の杖。それを細かい動きで動かすと、小さな陣が浮かび上がった。それはスッと剣の腹に溶けるように消えていく。
「今のは?」
「あの魔石は水属性の魔力によって主に構成されています。そこで剣自体に水に対する反術を施しました。ブルネイ殿に対して効果は薄いでしょうが、体内の魔石に対しては剣だけで攻撃をするよりも効果が高い筈です」
「反術……」
「悔しいですが、あの馬鹿の応用ですよ」
そう言ってケヴィンが自嘲する。ラズがこの場に姿を見せたのだ。弟セフィルドが捕らえられた事に薄々気が付いているのだろう。それに対して特に言葉は掛けなかった。きっとケヴィンも慰めなど求めていないに違いない。
「ありがとうございます。」
剣を受け取り、〈風〉と共に移動する。その数秒後、結界が弾けた。
結界に閉じ込められていたブルネイの魔力が解放された事で分かる。彼の魔力は確かに減っていた。結界の破壊と同時に目の前の敵を屠ろうとネイに向かって飛び出すが、その動きは精細を欠いている。
自分に向かって牙をむいた白豹を避けず、ネイは正面から剣を突き出した。狙うは首元。しかしそれは掠っただけで終わる。すんでの所で横に飛んで巨体を避け、次いでさらけ出された背に向かって剣を振り下ろす。ネイの動きを読んでいたのか、白豹が威嚇するように吠えた。同時に口腔から放たれる魔力の塊。
避けられない。誰もがそう思ったが、ネイは無事だった。後方に控えたグライオが送る闇の魔力が楯となり、片割れの攻撃を弾いたのだ。だが、それだけで白豹は怯まない。がら空きになっていたネイの腹を白い尾がしたたかに打ち付けた。
「ネイ!!」
ネイの体がくの字に曲がり、呼吸が止まる。その隙を突いた白豹が彼に襲い掛かろうとした時、鋭い刃となった風がその横っ腹を襲った。間を置かずにラズが白豹に迫る。だが白豹が体勢を立て直す方が早かった。苦しげな唸りと共に、もう一度魔力の塊が放たれる。
「っ!!」
まだ距離があった為か、それともブルネイの狙いが完全に定まっていなかったのか。体を捻ったラズにそれが当たる事はなかった。そして、
『グァァァァアアアアア!!!』
ネイが闇の魔力でコーティングされた剣を白豹の喉元に突き刺した。ラズに気を取られていたブルネイはそれを避ける事ができなかったのだ。
『許せブルネイ……』
グライオの呟きと同時に剣に込められた闇の魔力がさらに増幅する。だが、それでも暴走した精霊は止まらない。闇が自分の体を覆い尽くそうとしている中、体中の魔力を搾り出すように光を放つ。それは光の矢となって周囲に降り注いだ。マリアベルやディン達は魔術師の結界内に居る。けれど、白豹の傍に居るネイには壁となるものが無い。
「ネイ!!」
飛び出したのはラズ。だが、出来たのはネイの前に立つ事だけ。眩い光が二人を襲う。
「ラズっ!?」
「ラズ!!!!」
マリアベルの悲鳴。次いで爆発的な光と轟音。それが止んだ後、マリアベルの目に映ったのは視界を覆う砂埃とその隙間から覗く抉れた大地。
「……ラズ…?」
マリアベルの背に冷たいものが滑り落ちる。震える肩をディンが抱いた。誰もが最悪の事態を予感したその時、聞こえてきたのは咳き込む誰かの声。
「げほっ、けほっ」
「ラズ!?」
思わずマリアベルが叫ぶ。だが、土煙が引いた後も先程の場所に二人の姿はない。
『間に合ったか……』
そう呟いたのは伏せていたグライオだ。その視線は大地ではなく上空にあった。まるで飛んでいるかのように、ラズとネイの姿がそこにある。
『すまない。遅くなった』
「あ、ありがと……」
それまで姿を見せていなかったもう一人の〈風〉が光の矢の猛襲から二人を救い出してくれたのだ。ラズとネイはそれぞれに傷を負っているものの、〈風〉のお陰で深い傷はない。二人が再び地に足を付ける。その間も彼らの目は油断なく白豹に向けられていた。
「ラズ」
「何?」
「護衛の身でこんな事を頼むのは間違っていると分かっている。だが……」
続く言葉が分かって、こんな事態だというのにラズはこみ上げるものを我慢できなかった。思わず口から笑いが漏れる。
「ばーか。こんな時まで真面目じゃなくていいんだよ」
ネイは自分が守るべき相手に戦いの協力を依頼することに躊躇いがあるのだ。いつでもどこでも真面目な彼の性格に、ラズは肩の力が抜けるのを感じていた。
軽く隣の肩を叩けば、ネイも僅かに口角を上げる。
「あぁ。ありがとう」
「礼を言うのは全てが終わった後だ」
「分かった」
足を踏み出したのは二人同時。体勢を立て直した白豹に正面からネイが肉薄する。闇の魔力を警戒しているのか、白豹は剣の切っ先に意識を取られている。息つく間もなく繰り出される剣戟に白豹はじりじりと後退を余儀なくされていた。先程のように咆哮と共に魔力を発しないのは、ネイがその隙を与えないからだけではない。それだけ魔力を消耗しているのだ。
だが、白豹もただ後退している訳ではなかった。剣の動きを見極めながら最小限の動きでそれを避け、目の前の敵を切り裂こうと鋭い爪と共に腕を伸ばしてくる。一瞬の隙を突いて白豹の太い尾がしなる鞭の様にネイを襲った。それは彼の足元をなぎ払い、一気に体勢が崩れる。
「くっ!!」
とどめを刺そうと白豹の体がネイに覆いかぶさる。その時、シュンッと鋭い音が耳朶を打った。
『っ!!!?』
続いて肉を貫く鈍い音。音源は横腹から白豹を貫いたラズの剣だった。目の前の敵しか視界に入っていなかった白豹は気配を断って機を窺っていたラズに気づく事ができなかったのだ。歯を食いしばってラズは更に力をこめる。剣の鍔元まで切っ先が埋め込まれた時、ラズの手には確かに肉ではない手ごたえがあった。同時に白豹の体がその場に崩れ落ちる。
ネイはなんとか下敷きにならぬよう地面に転がり、直ぐに立ち上がった。ラズも剣を抜き、乱れた呼吸を整える。
「ブルネイ……?」
動かなくなった白豹の体。死した訳ではない。彼の体からは確かにまだ魔力の鼓動を感じる。けれどラズの剣が魔石を貫いたお陰だろう。にごった魔力は徐々に薄まりつつあった。
「ブルネイ!!」
魔術師達が結界を解き、中からマリアベルとディンが駆けて来る。その後ろからはフレアレクが。ここからブルネイを救うのはマリアベルの仕事だ。
重い体を引きずるようにして傍に移動してきたグライオが、マリアベルを見上げた。
『ブルネイを頼む』
「はい……」
マリアベルは地に伏せた白豹に寄り添った。そして労わるようにそっと汚れた体を撫でる。
「ずっと待たせてごめんね」
そう一言だけ言うと、ブルネイの額に手のひらを載せ目を閉じた。白豹を挟んで向かい側にはフレアレクが待機しており、彼女に語りかけている。契約の為の助言だろう。もうラズ達に出来る事は何もない。
じっとブルネイとマリアベルの二人を見つめるグライオの傍にラズとネイは移動した。言葉はなくともそれだけでグライオには十分だった。
***
「向こうは終わった様だな」
光の魔力が集束したのを感じて、レギはそう呟いた。すると魔術が保てなくなったのだろう。城内に潜り込む為に騎士の姿に変装していた男の見目が変化していく。日焼けした肌は病的なほど青白くなり、くすんだグレイの髪は青みがかった銀髪に変わる。そして、伏した状態からレギを見上げるその目は深い藍色。レギも良く知るプレディオ=コーザがそこにいた。
「……ヒトを守る事に、何の意味がある」
男にとってレギという魔術師の存在は理解しがたい。ヒトから離れた自分と似た存在でありながら、ヒトを守ろうとするおかしな男。彼が本気を出せば、ヒトの国などあっと言う間に無に還せると言うのに。
その質問にレギは敵を目の間にしているとは思えない程のんびりとした様子で答えた。
「僕はね、ヒトが好きなんだよ」
「……つまらぬ理由だ」
「君も、そうなんじゃないの?」
「なんだと?」
倒れている男の顔の傍にレギはしゃがみこむ。けれど決して男を押さえつけている力が弱くなる事はない。表情は緩んでいても容赦は無い。私情に流されず、どんな状況でも信念や目的がブレることはない。それはレギが最強の魔術師としてこの国に君臨している所以でもある。
「ヒトは精霊や動物のような“目”を持っていない。だから精霊が自分の意思でヒトの前に姿を現さなければ、その姿すら見ることは叶わない。つまり、君は自分からプレディオの前に姿を見せたんだ。違うかい?」
「……そんな昔の事は覚えていない」
「そう」
素っ気無い返事をレギが気にした様子はない。まるで男の答えなど最初からどちらでも良かったと言うように。
「では何故、ヒトに転化することを甘んじて受け入れたの?」
「甘んじて? 馬鹿な。アレは精霊を捕らえる術を研究していた。我はあの男によって捕らえられたのだ」
「嘘だね。僕の知っている限り、プレディオはそこまで力のある魔術師ではなかった。精々下位の精霊を閉じ込めることが出来たくらいだ。君なら本気で抵抗すれば阻止出来た筈だよ」
トゥライア国に『塔』という組織が出来る前。その頃は国の支援を受け、研究と人材の育成を行う魔術師団が存在していた。独自に研究を続けていたプレディオと既に王族に雇われていたレギもその一員だった。だが、後にプレディオは魔術師団から退団させられた。理由は彼の研究内容。肉体を持たない精霊の寿命に目をつけた彼は精霊を人間に取り込み、寿命を延ばそうとしていたのだ。精霊そのものを対象とした彼の研究は、あらゆる命への冒涜と生命を意のままに操ろうとする危険に満ちているとして糾弾された。そしてレギもまた、彼の研究に異を唱えた一人だった。
だからこそ意外だった。敵と言っても良いプレディオの傍に精霊が居たことに。
「…………」
「同情かい? それとも彼が成そうとしていた事に興味があった?」
「狂ったのだろうな。アレもワタシも」
「…………」
ヒトに興味があった自分。精霊を研究していたプレディオ。ただ最初は、変わり者の魔術師プレディオ=コーザの友人に過ぎなかった。
彼が目指していたのはヒトと精霊の融合。精霊の力を得ることで、ヒトの寿命や力の限界を超えようというものだった。けれど彼の研究内容は邪道だと周囲に批難され、次第に孤独に追いやられたプレディオは段々と自分の声にも耳を貸さなくなっていった。気付いた時にはもう、彼は魔石の研究に没頭していた。魔石によってヒトの命の誕生をコントロールし、精霊の意思をコントロールして一国を変えようとしていた。恐ろしい研究だと分かっていた。けれど見捨てられなかった。哀れな研究者を。何故なら、ヒトの寿命を曲げてまで彼が追い求めていたものを知ってしまったから。
そして研究が完成する前に己の寿命が尽きると知ったその時、プレディオは傍に居た精霊の自分と己の肉体を実験対象として、ヒトに変えてしまった。
今の自分は精霊であった時の意志と、プレディオ=コーザの肉体の融合体。もはや今こうしてレギに対峙しているのが自分の意思なのか、プレディオの意思なのかも分からない。
「ヒトの誕生を、命をコントロールできれば神になれるとでも思ったのかい?」
「…………」
「神になって、自分を批難した人間達に復讐しようとでも思った?」
「そんなものは後付けだ。あいつの本当の目的は……女神だ」
「女神? ……フェルノーイ神のことか?」
「……馬鹿な男だ。ヒトでありながら女神に焦がれるなど」
「全てはフェルノーイ神に近付く為か……」
物心付いた時には既に一人だったプレディオの心の支えは女神信仰だった。全てのものに愛を説き、恵みを与える気高く美しい女神。見る事も叶わぬ女神だけが自分の母であり、家族だった。けれど女神に愛された愛し子はその姿を見て、声を聞く事が出来るという。人間であっても女神に会える。それがプレディオの生きる支えだった。選ばれた愛し子でなくても女神に近付く為の術を探す為に、その短い一生を捧げた。
命を操る事ができるのは神だけに許された行為。禁忌を犯した自分をいつか女神が罰しに現れる、そう思っていたのかもしれない。そしてその瞬間、プレディオの願いは叶えられるのだ。
「お前は、お前達は一つ勘違いしている」
「……何?」
「フェルノーイですら完全な存在ではない。心を持ち、時には失敗し、ヒトの悪意に心を痛める一つの生き物に過ぎない」
何もかもを受け入れ、許し、愛する。そんな女神など、プレディオが求め続けた完璧な女神などこの世のどこにもいないのだ。それが分かった時、男の体から力が抜けた。自分をプレディオの肉体に縛り付けていた呪縛から解き放たれたようだった。
「ふっ……、最初から無理な話という訳だ……」
「……長生きしすぎたな。だから余計な事を考える」
「そう、かもな……」
いつしかプレディオの願いは自分の願いになり、寂しがり屋の愚かな男に女神の祝福を授けて欲しいと思うようになっていた。そして自分も唯一の女神に焦がれるようになっていた。
すまない。プレディオ。愚かな想いを抱えたワタシの友よ。お前の願いは叶えられなかった。罪を犯した自分達は女神がおわす黄昏の地へ行くことは許されないだろう。だがワタシがいる。ワタシが最後までお前と共にいるからな。




