57.暴走
「……何だ?」
突如膨れ上がった魔力にレギは片眉を持ち上げた。闇の上位精霊の結界内にいても感じるのだ。相当強力な魔力だろう。塔の魔術師達ではあり得ない。だが、それが一体誰の魔力であるのか感じ取れるほど結界はヤワではなかった。内側に居るレギに分かるのはそれが光属性であることぐらいだ。
「お前の仕業か?」
すると、微かに目の前で倒れている男が反応を示した。その口角が僅かに上がる。
「手は幾つも用意しておくものだ」
「…………」
しばらく男の真意を探ろうとしていたレギだったが、諦めたように息を吐いた。それが意外だったのだろう。男が顔を上げる。
「行かないのか?」
その問いにレギは肩を竦めただけだ。
「この結界を解いて外に出ればお前の思う壺だろう。みすみす逃しはしないさ」
「ヒトだけでアレがどうにかなると?」
「あぁ。そうだね。なんとかするんじゃないかな」
まるで他人事のように語るレギは飄々として掴み所が無い。その言葉が本心なのかどうかさえ、男には判断つかなかった。
「…………。好きにすればいい。ヒトなど信用して後悔するのはお前だ」
「うん。そうだね。好きにさせてもらうよ」
そう言い放ったレギの表情はまるで幼い子供のような無邪気さがあって、男は苛立たしげに顔を歪めた。
***
一瞬にして周囲の草木を散らしたその後にはむき出しの大地が残るのみだ。周囲五十メートルほどの範囲に渡って、それは続いていた。整えられた裏庭の面影はどこにもない。
『ブルネイ……』
闇の精霊グライオはそれを成した片割れの存在に驚愕で目を見開いた。
マリアベルを守る為、男の攻撃をまともに受けたブルネイは目を覚ますことなく先刻まで倒れていた。だが、突然身を起こしたかと思うと激しい咆哮を上げたのだ。その声と共に発せられた光の魔力。その力は大地に根付いていた豊かな緑を一瞬にして奪い去っていた。
力を発散するその刹那、グライオは反応が遅れた。今もグライオが魔術師達と協力して維持している結界の中ではレギ=フレキオンが男と戦っている。国一番の実力を誇るレギの魔力の影響から周囲を守るため、結界は維持し続けなければならない。だから咄嗟にブルネイの攻撃的な魔力の発散に対抗する事が出来なかったのだ。
「何故……」
傍では左の魔術師テグラルがブルネイの突然の行動に驚愕している。そしてそれはこの場に居た魔術師や騎士達も同様だ。ずっとマリアベルの傍に居たブルネイを敵とは認識していなかった筈。動揺の隠せぬ表情で各々の武器を手に、ブルネイの様子を覗っている。
『ブルネイ、……ブルネイ!!』
グライオがいくら声を掛けても片割れの反応が無い。明らかに様子がおかしい。またブルネイが攻撃をしかけてくるのなら迎い討てるのはグライオしかしないだろう。けれど今は意識の半分を結界の維持に向けていなければならない。この状態で我を失ったブルネイと対峙しても止められる筈が無い。
(我を、失って……?)
ブルネイの異様な姿に頭を過ぎったのは、以前暴走していた〈水〉の姿。泉の中の魔石の影響で意思を奪われ、猛威をふるった下位精霊。
『まさか……!!』
マリアベルを庇って男の攻撃を受けた時、同時に体内へ魔石を埋め込まれていたとしたら? 上位の精霊のコントロールを失わせるほどの魔石だ。〈水〉の時とは比べ物にならないくらい強力なものだろう。しかも下位精霊でもネイ達は苦戦していた。上位精霊のブルネイが相手では魔術師や騎士達が束になっても止められるかどうかは分からない。
『まずい!!』
再び急激に高まる光の魔力。威嚇するように四肢を突っ張り、唸り声を漏らす白豹の目にはもはや理性を見つける事は出来ない。野生の獣のように荒々しく、その身に宿るのは野生の美しさとは無縁の禍々しい力。迷っている時間はない。ブルネイが本気で力を放てば、王城ごと消し去る事さえ可能なのだ。
『止めなさいブルネイ!!』
美しい声と共に周囲に突風が巻き起こる。理性を失い周囲の動向に気を配る事もしないブルネイではそれを止める事が出来なかった。それを成したのはラズが慕う〈風〉の一人だ。まともに〈風〉の攻撃を受け、高まっていた魔力は霧散する。だが、倒れる事なく憎憎しげに自分を阻んだ〈風〉に敵意を向けた。〈風〉はブルネイが周囲の人間から自分へ注意を向けるようにワザと小刻みな攻撃を仕掛ける。両足のバネを使って高く跳躍するも、ブルネイに〈風〉を捕らえる事は出来ない。
その間に魔術師達が動きを見せた。その中心に居るのは塔から駆けつけて来たケヴィーノだ。何か考えがあるのだろう。周囲の魔術師達に指示を出し、自身も愛用の杖を握っている。その後ろから顔を出したのは二人分の影。思わずグライオがその名を呟く。
『マリアベル……?』
先刻この場を離れたばかりの小柄な姿がそこにはあった。隣には第二王子ディストラードも控えている。更にその二人を守るように騎士達が囲む。周囲の者達も二人が此処にいる事を承知している証拠だ。けれど、何故此処に?
グライオとほぼ同時にブルネイもマリアベルの存在に気付いたのだろう。魔石に支配されていても巫女を求める心はなくならないのか、それとも他の要因があるのか。〈風〉から彼女へとその視線が移動する。そして、白豹は求める者の下へと跳躍した。
「今だ!!」
ケヴィンの掛け声を切欠に陣が発動する。それは左の魔術師達による結界だった。セフィルドの反術程の威力は無いものの、白豹の体はその内側に閉じ込められる。だが、効果は足止め程度に過ぎない。それは魔術師達も分かっている筈だ。その間にマリアベル達の周囲にも結界が施された。〈風〉とグライオは結界が耐え切れなくなったと同時に飛び出せるよう精神を集中させる。
結界内で力を放出し、暴れるブルネイがそれを破るのにそう時間はかからなかった。弦が切れるような音が三度ほど聞こえる。もう、もたない。そうグライオが判断した時、ケヴィンの横に居たバンが汗の流れる顔を上げた。
「分かりました!! 背のど真ん中です!!」
「構え!!!」
ケヴィンの号令で今度は背後に控えていた数人の騎士達が矢を番える。その刹那、ブルネイを足止めしていた結界が破壊された。だが、狙いを定めていた騎士達によって次々と矢が放たれる。
通常の矢ならばブルネイにダメージを与える事は出来ないだろう。だが、その矢は闇の魔力で覆われていた。光の精霊に対抗すべく魔術師が手を加えたものだ。そして狙い通り、数本の矢がブルネイの背に突き刺さった。けれど、
『やはり無駄か……』
ダメージは確かにあるのだろう。それでもブルネイはものともせず、矢が刺さったままマリアベルへと肉迫する。これ以上人任せには出来ず、グライオは低い声を出した。
『ヒトの子よ』
「はい」
それが自分に掛けられている声だと直ぐに気づき、テグラルは結界に集中したまま返事をする。それを確認してからグライオは足に力を込め、姿勢を低くした。
『我が居なくとも維持できるか』
それはレギ達を覆っている結界を放棄するという宣言だった。テグラル達だけではレギと元精霊の男が戦う場の結界を維持する事はかなりの困難だろう。それでも言葉は間を置かずに返って来た。
「行ってください」
『すまぬ』
返事を受け取ると同時にグライオは駆け出した。テグラルは彼らの関係など知らないが、それでもあの闇の精霊にとって今暴走している白豹は特別な存在の筈だ。ならば自分達の為にそれを捨て置けと言える筈も無い。
(これ以上情けない姿は晒せないしな)
自分自身を叱咤して、テグラルは握る杖により精神を集中させた。
グライオはブルネイに向かって吠えた。それに呼応して背の矢に込められた闇の魔力が増幅する。矢を媒体にして威力を増した闇の魔力は槍のように大地に白豹を縫い止めた。
『グオォォォォ!!!』
苦しげなブルネイの咆哮が空気を震わせる。そして第二の陣が発動した。再びブルネイを閉じ込める為の結界。ケヴィンも最初からこの段取りを組んでいたのだろう。第一の陣で足止めをしている間、バンによって魔石が埋め込まれている位置を確認し、結界が破壊された所で闇の矢を放ち、動きが止まった所で再び結界に閉じ込める。ただ予想外だったのは魔術師が施した闇の魔力だけでは動きを止めるほどの効果が得られなかった事だ。矢は魔石まで達しなかったのかもしれない。
けれどここで、予想外な事がもう一つ起きた。思った以上に先の結界維持にグライオが力を使い果たしていたのか、それとも単にブルネイの魔力量が優れているのか、いとも簡単に第二の結界もグライオが増強した矢も破壊されてしまったのだ。
「なっ……」
これには魔術師達も言葉を失っている。魔石の破壊に失敗した今、すぐに打てる手がない。
『マリアベル!!!』
彼女に向かって白豹が襲い掛かる。だが、すんでの所でその牙が彼女に届くことはなかった。魔術師の結界とその内側から放たれたディンの剣がそれを阻んだのだ。
「ディン!!」
「下がってろマリアベル!!」
自分も定期的に剣の鍛錬をしていると言ってもその実力は騎士達に遠く及ばない。おまけに相手は暴走している上位精霊。マリアベルを庇うように前に立ち、腰元の剣で威嚇するだけでディンには精一杯だ。
体勢を崩したブルネイに向かって、疾風のように駆けて来たグライオが横から体当たりする。その勢いを殺せず大地に転がった白豹だったが、臆することなく直ぐに立ち上がった。間近で見たその目はグライオの知っているものではない。あの魔石に似た、鈍い赤色を宿している。
『グルルルルルッ…』
マリアベルへの道を邪魔した敵を憎むように、喉を震わせるブルネイ。そして今度はグライオをしとめようと頭を低くして向かってくる。まともにぶつかれば負けるのはグライオだ。そもそも光と闇の性質は違う。闇は沈静化に向いているのであって、本来攻撃性はない。攻撃に転じるのならば、別の要素が必要だ。それは先程の矢であったり、グライオの持つ牙であったりする。背に刺さっていた矢は既に破壊されている。ならば捨て身覚悟でブルネイの首元に喰らいつくしかない。
二匹の体がぶつかる直前、ブルネイは光の魔力を放出した。それは鋭い針のようにグライオの両目を貫く。
『しまっ……』
一瞬にして視界を奪われ、グライオは逆に片割れの牙が自分の首に深く食い込む熱を感じていた。これを媒介に光の魔力を直接体内に叩き込まれればグライオはひとたまりもない。
『ブル…ネ……』
真っ白な巨体だけがグライオの霞む視界を覆う。だがそこに、一瞬影が差した。
『グアァァァアア!!!!!』
叫び声を上げると同時にグライオの体が白豹の牙から開放される。倒れ伏すグライオに見えたのは、陽を浴びて煌く緑の宝玉。
「ラズ!!!」
驚くマリアベルの声。その視線の先ではラズの持つ愛用の剣がブルネイの背を貫いていた。だが、その体は暴れる白豹に弾き飛ばされる。転げながら距離を取り、ラズは素早く立ち上がった。そして、グライオの傍にはもう一人。
「グライオ。大丈夫か?」
抜き身の剣を持ったネイが黒豹を見下ろしている。グライオがゆっくりと首を縦に振り、ネイは安堵の息を吐いた。
『すまぬ。大した傷ではない。だが……』
「どうした?」
『力を使い過ぎだ。我だけでは止められぬ』
「どうすればいい」
『我の牙となってくれるか?』
「あぁ」
それがどんな方法か分からない。けれどネイは迷いなく頷いた。それは確かな信頼の証だった。
「ラズ殿!!」
駆け寄ってくるケヴィンにラズは首を横に振った。ラズの剣は確かにブルネイの背に刺さったが、そこに魔石を砕いた手ごたえは無かった。ラズは視界に動きの鈍ったブルネイを収めたまま、ディンと共に居るマリアベルを横目にする。
「マリアベルを何故此処に?」
声は荒げなかったが、その言葉はケヴィンを責めていた。その気持ちは理解できるのだろう。ケヴィンは一も二もなく謝罪する。
「申し訳ありません。けれど、彼女の力が必要なのです」
「どういう事ですか?」
馬で王城の敷地内に入ったラズとネイを見つけてくれたのはブルネイと対峙していた〈風〉だった。そして彼女に事のあらましを聞いたのだ。侵入者はレギが抑えている事。その男によってブルネイの背に魔石が埋め込まれたこと。今は魔術師や騎士達とグライオがブルネイと戦っている事。
そして導かれた先に見えたのはブルネイによって倒されたグライオの姿。二匹を引き離す為、ラズは〈風〉が預かってくれていた愛用の剣で背後からブルネイを刺し、ネイがその背にグライオを庇った。けれど、マリアベルがこの場に居るなんて聞いていなかったのだ。
良く見ればマリアベルの傍にはフレアレクが控えていた。その組み合わせにラズは息を飲む。
「まさか、契約を?」
「……それしか打つ手はありません」
以前魔石によって暴走した〈水〉を正常な状態に戻したのはフレアレクだ。魔石による精神の侵食は根深く、外からでは手の施しようが無かった。そこで彼は〈水〉と契約を結ぶ事で精神を繋げ、内側から働きかける事で〈水〉の意識を呼び戻し、魔力置換によって処置を行ったのだ。そして今、彼らはマリアベルとブルネイで同じことを行おうとしている。
「そんな事出来るのですか?」
マリアベルは確かに他の人々よりも光の魔力量が多い。光と大地を司る豊穣の女神と直接意思を疎通できるのだ。その数値は予想すら出来ない。けれど彼女に魔術の心得は無い。暴走している上位の精霊と無事に契約を結び、白豹の意思に働きかける事ができるのかは誰にも分からないのだ。
「それでもやるしかないのです。それに少しでも成功率を上げる為には出来る限りブルネイ殿を弱らせ、魔石の威力を取り除く必要があります」
ブルネイに出来る限り魔力を消費させ、魔石を破壊する為に魔術師と騎士達が結界と矢で時間を稼いでいたのだ。
「分かりました……」
二人が言葉を交わしている間に他の魔術師達がブルネイを二重の結界に閉じ込める。確かにこれまでの消費とダメージで動きが鈍ってはいるようだ。けれどまだ、マリアベルが近付けるほどのものではない。
その時、グライオの傍で膝をついていたネイが立ち上がるのが見えた。




