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55.理

 

(……狂ってる)


 見目麗しい少女が男の腰に跨り悦に浸る光景はもはやディンにとって異様なものにしか見えなかった。例え彼女を突き動かしている根底に自分への恋心があるとしてもだ。一方的な恋情はあまりに痛々しく、少女をただの人形へと貶めている。

 だが、今自分には抗う術がないのも事実。このまま肉欲に負け、少女と共に堕ちていかねばならないのか。マリアベルを一人にして? そんなことは有り得ない。

 手足が動かずとも口は動く。いっそのこと舌を噛むか。命を捨てる気はないにしろ、出血すれば自分の動きを戒めている呪縛を解くか、一人行為に耽るティナトナを正気に戻すぐらいは出来るかもしれない。

 そう覚悟して、噛んだ舌に力を入れようとしたその時、二人の耳にキィと聖堂正面入口扉が開く音が届いた。


「ディン兄様?」


(ヘリオ?)


 聞き覚えのある幼い声に助けを呼ぼうと息を吸いこむ。だが、ディンは一瞬躊躇した。今の自分達の姿をヘリオに見せてもいいのか? 弟はまだ子供だというのもある。そしてそれ以上に、当事者以外の男にこんな姿を見られたら、ティナトナの矜持も深く傷つくだろう。


「来るなヘリオ!!」


 その大声にティナトナが体を震わせた。ようやく今の状況に気がついたようだ。その顔は青ざめ、ヘリオの方に向けられている。今なら声が届くかもしれない。


「ティナ!! どけ!!」

「きゃっ!?」


 自分に向けて発せられた怒鳴り声にティナトナが反応した。ようやく自分がディンを下にしていた事に気付いたかのようだ。慌てて転がり落ちるように床へ移動する。


「あ、……わ、たし…?」


(体が動く!!)


 ディンは急いで起き上がり、衣服を整えた。ヘリオは自分の言いつけ通り入口で立ち止まったままだ。


「ティナトナ?」


 ベルトを外されたディンのズボン。上半身を顕にした自分の姿に、横に落ちている自分のズロース。自分のしてしまった事をようやく理解したのか、ティナトナの大きな両目には今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。


「わ、わたし…わたしは……」

「……ヘリオが来る。服を着ろ」


 流石にヘリオの名前を聞くと呆けていたティナトナも震える手でなんとか服を着始めた。彼女の衣服が整ってからディンは無言で立ち上がり、参列者用のベンチで隠れていた場所からヘリオに姿を見せる。


「……悪い。探しに来てくれたのか?」

「ディン兄様……、僕あの……」


 ヘリオが上手く言葉を紡げずにいる。もしかしたらここで何があったか薄々察しているのかもしれない。


「一人か?」

「ううん。アルが一緒。庭の木の精霊がアルに兄様がこっちに居るって教えてくれたんだ。だから……」


 するとヘリオの後ろから木の精霊アールハマトが姿を現した。ヘリオより少し幼い姿をしているが、実際は人よりも遥かに永い時を過ごしている精霊だ。先日の襲撃事件があった時から、彼は常にヘリオについてくれていた。


『こんな時にヘリオを一人にする訳無いだろ』

「あぁ。助かる」

「あの、兄様……」

「ん?」

「ティナが、いるの?」

「あぁ……。悪いけど、行ってやってくれ」

「うん」


 やはり気付いていたのか。ディンはくしゃっとヘリオの頭を撫で、彼の背中を押した。弟王子は素直に頷き、奥へと小走りで入っていく。


『アンタが行かなくていいのかよ』

「……俺には、ティナトナを慰める資格がないからな」

『ふーん』


 一体アールハマトがどこまで今回のことを知っているだろうか。訝しげに見返すと、彼はむっとした表情で自分を見上げた。


『なんだよ』

「……精霊って、なんでも分かるもんなのか?」

『はぁ?』

「俺が此処にいる事も知ってたんだろ?」

『この辺りの〈木〉達が此処に入ってくアンタ達を見たって言うから来ただけだよ。まぁ、中で何してたのかも知ってるけど」

「どうして分かる?」

『窓から見えたんだってさ』

「……そうか」


 どうやら窓から中の様子を見ることが出来た〈木〉もいたらしい。今回の場合は助かったが、普段から見られているのかと思うと微妙な気分だ。


『その辺のことはヘリオに言ってないよ』

「そりゃ助かった」


 全く、精霊に気を使われるなんて情けない事だ。はーっと溜息を吐いた時、急にバシッと背中を叩かれた。


「何すんだよ!!」

『うるさいなぁ。怒鳴るなよ。へんなモンがくっついてたから取ってやったんだろ? むしろ礼を言って欲しいね』


 そう言ってアールハマトが二本の指で何かを掴んでいた。それを目の間に差し出されるが、ディンの目には何も見えない。


「……そこに何かあんのか?」

『あぁ。アンタ見えないのか。毛糸みたいなのが纏わり付いてたよ』

「糸?」

『魔力で出来た糸』

「魔力?」


 自分が動けなかった原因がこれだろう。けれど何故? 当然ティナトナは魔術なんて使えない。なら多少魔力のある兄のフェイロンが? いや、いくら妹の為だってこんな風に身を捨てるような事させる筈がない。


『なーんか、ヤな感じの魔力なんだよなぁ』


 ぽいっとアールハマトがゴミを捨てるような仕草をする。目には見えないそれにディンも嫌なものを感じていた。






 奥へ足を踏み入れると、声を押し殺して泣く息遣いが聞こえてくる。ヘリオは女神像の前まで来て、やっと床に座り込んだティナトナを見つけることが出来た。


「ティナ?」

「……何、しに、来たの」


 顔が上げられないのだろう。顔を覆っている彼女の手は零れた涙で濡れていた。彼女の細い肩にかかっているのは兄の上着だ。よく見れば、ドレスの背中についている釦は外れたままになっている。


「泣かないで」


 どうするのが正解なのか分からなくて、ヘリオは膝を床に付いてティナトナを抱きしめた。自分が泣いた時、母や兄達がしてくれたようにそっと髪を撫でる。


「何よ……。なにも、知らないくせに……」

「うん。ごめんね」

「……んで、ヘリオが謝るの……」

「守ってあげられなくて、ごめんね、ティナ」

「ぅ……」


 それまで殺していた声が堰を切ったように溢れ出す。ヘリオは小さな体一杯でティナトナを包むように抱きしめる腕に力を篭めた。

 ティナトナが兄のディストラードを好きなことはヘリオも知っていた。プライドの高い彼女はそれを隠そうとしていたけれど、裏を返したようにディンにつっかかっていく態度は逆に彼女の恋心を分かりやすく周囲に伝えていた。そんな彼女を年下ながらに可愛いなぁ、と思っていたのだ。あんな風に一生懸命に誰かを好きになれたら、それはきっと素敵なことだと。

 マリアベルが現れて、上の兄二人が夢中になると、自分もティナトナの事は忘れていた。マリアベルと楽しそうに毎日過ごす兄達を見て、こんな風にずっと皆で一緒に居られたら良い。そんな事さえ思っていた。

 けれどサディア訪問と共に、今のディンを見て顔を曇らせるティナトナにヘリオは気付いた。みんなみんな幸せになれればいい。けれどそれぞれの恋心はそう上手くは回らなかった。マリアベルはディンを選び、マックは身を退いた。

 そしてティナトナは――


「……き…だったの」

「うん」

「本当に本当に好きだったの……」

「うん。……分かってるよ、ティナ」


 ティナトナが背に回した手でぎゅっとヘリオのシャツを掴む。自分よりも五歳年上の彼女の肩はこんなにも小さかっただろうか。

 父親譲りの自分の金髪とは対照的な彼女の夜色の髪。美しいそれを何度も何度も優しく撫でてあげることしか、今のヘリオには出来なかった。





 ***


「何だこれは……」


 男が周囲を見渡しながら呟いた。今、目の前に広がっているのは真っ黒な空間。けれど視界が奪われているわけではない。現に数メートル先に立っているこの国最高の魔術師レギ=フレキオンの姿は見えている。ただ、確認できるのは彼の姿のみ。先程まで自分が立っていた筈の城内の裏庭も、自分を取り囲んでいた魔術師や騎士達の姿もない。


「結界だよ」

「結界? これが?」


 自分達が存在する世界の中に結界という“部屋”を作るのではなく、まるで空間ごと切り離されたかのようだ。


「グライオの力が混ざっているね」


 風に手をかざすようにしてレギが言った。だが、実際はこの結界内に風どころか埃一つは入ってくることは出来ないだろう。

 その時、プツッと自分が作り出した『糸』が切れたことに気がついた。


「……失敗したか」

「何?」


 巫女の周りからヒトを切り離す為に使った駒はどうやら失敗したようだ。この国の王族が巫女に執着しなくなれば彼女を奪うのも容易くなる。そう思って用意した仕掛けだったが、上手くいかなかったらしい。簡単に操れるほど意志が弱い者も居れば、己の欲望にさえ抗う者もいる。全くヒトとは面倒なものだ。


「なればこんな所に長居は無用。次の手を考えねば」

「逃がすと思うか?」

「骨が折れるが仕方が無い。結界ごと破壊するまで」


 男が腕を横に振る。鋭い音と共にカマイタチが真っ黒な空間に襲い掛かる。だが手ごたえはない。


「どういう事だ……」


 此処が結界である限り、果て(・・)が無いなんて事は有り得ない。結界は魔力で作り上げた箱のようなものなのだから。するとレギは世間話をするように薄く微笑んだ。


「闇の本質を甘く見てるんじゃないのかい?」

「……本質だと?」

「闇がもたらすのは安らかな眠り、回復、沈静化。そして全てを吸収する底なしの空間」


 眠りによってもたらされる回復効果や精神の沈静化などは勿論自分も知っているが、闇が外部からの力を取り込むなんて話は聞いた事が無い。


「闇が、力の吸収だと? そんなもの……」


 するとレギが片眉を跳ね上げる。コミカルにも見えるその表情は明らかに彼の余裕を現していた。だがここで挑発に乗ってはレギの思う壺だ。男は神妙にレギの一挙一動から目を離さぬよう集中する。


「おや? ブラックホールを知らない? そうか、元々風の精霊である君は、大気圏からは出られないものね」

「ブラックホール? タイキ…ケン? 一体何の……」

「おや、しまった。しゃべりすぎちゃったな」

「お前は一体……」


 レギの不可解な発言にいとも簡単に男の気が乱れた。男が精霊のままだったのならこんな風に動揺することは無かっただろう。けれど研究者でもあったプレディオの意思を継いでいる男は自分の知らぬ知識とそれを当たり前に披露するレギの奇妙さに気をとられてしまった。


「悪いけど、これ以上は教えられないんだ。私もまたヒトだからね」

「ぐっ!!!」


 突然体が地に押し付けられる。何故だ。レギは一歩も動いていない。杖を振ってもいない。それなのにまるで体の上に巨大な岩が落ちてきたかのように指一本動かせない。


「今、な、にを……」


 これがヒトの魔術だというのか? いや、陣を使わず事象を起こすことはヒトにはできない。けれど精霊の魔法とも違う。体内の魔力を直接事象に変換するのが精霊の魔法だ。だが自分が見ている限りレギの体内の魔力は少しも発せられていなかった。

 こうしている間にもプレディオの肉体が徐々に軋み、骨にヒビが入ったのが自分でも分かる。長時間この状態で居ればヒトの肉体は壊れてしまうだろう。だが、既にプレディオと同化して長い年月が経ってしまった。精霊であった頃のように肉体なしでは己は保てない。その先に待っている結末は、ひとつだ。


「………死ぬのか……」


 死する運命のヒトを生かす為に肉体という器に取り込まれたというのに。


 靴音一つさせずに、伏した男に向かってレギが一歩一歩近付いていく。いつの間にかその姿は結界の外で見た冴えない中年男ではなく、左右対称の相貌を持った絵画に描かれた美しい若者のような姿になっていた。アイボリーの髪にトパーズの瞳。色味の薄いその姿はこの闇の中で薄っすら発光しているようにも見える。


「ごめんね。君達・・はすでにこの世界のことわりから外れている。私は君をこのまま生かしておくことは出来ない」


 声すら先程とは異なってる。けれど徐々に冷たくなっていく肉体の中に閉じ込められた男ではその変化に気付く余裕はなかった。


「それ、は……ヒト、として、か?」

「いや。この世界に生きる一つの存在としてだよ」


 ヒトでも精霊でも、騎士でも魔術師でも。自分がどんな存在であったとしても、『理』は崩せない。崩すことなんて出来ない。守りたいからだ。自分の周りに居るヒト達を、精霊を、動物を植物を。自分と言う存在を形作る全てのものを。

 それはレギ=フレキオンの生きる意味であるから。プレディオ=コーザが己の研究に身を捧げたように。

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