54.恋情
米神の辺りがズキズキ痛い。おまけに吐き気までしてくる。まるで二日酔いのような症状に苦しみながら瞼の向こうが明るいと分かって、ディンはやっとの思いで瞼をこじ開けた。首も背中も痛い。上半身を起こそうとするが、体が言う事を聞かない。
(……なんだ?)
動かないのはダルイせいかと思ったが、どうやら違う。指一本動かないのだ。一体何が起こっているのか分からず混乱するが、それでも酷い頭痛は続いていて、そのまま寝入る事も叶わない。
(どうなってやがる。ちくしょうっ!)
さっきまで自分は何をしていた? 最後の記憶は昼食を終えて一時間ぐらい経った頃だろうか。ユーリィが登城した事をディンと共に知らされ、弟は彼女に会いに部屋を出て行った。自分は自室に戻って仕事の続きに取り掛かった。ノルマをとっとと終わらせて、マリアベルの下へ行こうと思っていたから。彼女の故郷の友であるラズが居なくなってから、ずっと元気が無かったマリアベル。そんな彼女の不安を少しでも取り除ければと、時間が空けば彼女の傍に居るようにしていた。
(そうだ、確かあの後……)
仕事の途中に部屋の扉がノックされた。許可を与え、中に入ってきたのは――
「目が覚めたのね、ディン」
「ティナトナ!!」
コツコツとヒールの音をさせてティナトナが近付いてくる。彼女が顔を出したのは聖堂奥の扉。よく見れば、ディンが横になっていたのは前方中央に置かれた女神像の前の床の上だった。ここは毎日マリアベルが祈りを捧げている城内の聖堂だ。像の足元には小さな鉢が並べてある。彼女が一日も欠かさず世話をしているからか、室内であってもそれは生き生きとした白い花をつけていた。
「起き上がれないんだ。手を貸してくれ」
「…………」
「おい、聞いてんのか?」
だが、ディンの目の前まで来ても彼女は手を貸そうとはしない。
なんだ? どこかおかしい。そもそも、何故自室に居た筈なのに聖堂に移動してるんだ?
「動けないの?」
「そうなんだよ。さっきから頭痛はヒデェし。何なんだ……ったく。あ、そうか。手貸せっつってもお前じゃ運べないよな。誰かを人呼んで……」
「嫌よ」
きっぱりとした拒絶の言葉。どうせいつもの悪態だろうと思い、ディンは「あぁ?」と睨みを効かせる。だが、ティナトナは外へ行こうとはしなかった。それどころか、その場でドレスのリボンに手をかけ、するすると解き始める。唖然とするしかないディンの目の前で、ティナトナはドレスも下着も肩から外し、白い肌を顕にした。小柄な体型に似合わず、ふくよかな線が目の前に晒される。男であれば誰しもが目を奪われる美しい裸体だ。
あっと言う間に上半身を晒し、次にスカートの中へ手を入れるとズロースを脱ぎ捨てた。流石にそれを見たディンは黙っていられなかった。
「やめろ!! お前、何考えてんだ!!」
正気の沙汰じゃない。仮にも一国の姫が神聖な聖堂内で肌を晒すなど。けれどティナトナに恥らう様子は無く、そのまま手足の自由が利かないディンの腹に馬乗りになった。
「おい!!」
「好きだったの……」
「……は?」
それは先程までとは違い、本当に微かな声だった。けれどまるで祈るかのような少女の声は二人しかいない広い聖堂内に響き、想い人の耳へと届けられる。
「ずっと、ディンの事が好きだったのよ」
今にも泣きそうな幼馴染の表情。彼女を此処まで追い込んだのは自分だったのだろうか。ディンはどう声をかければいいのか分からず、ただ瞠目するしかない。
「私だって、ラインお兄様みたいに好きな人と幸せになりたいの。いいでしょう? 私だって幸せになる権利ぐらいあるはずよ」
ティナトナの白くて小さな手がディンのシャツの釦を一つずつ外していく。肌蹴た硬い胸板を撫でられ、鳥肌が立った。
「ふざけんな!! 俺の意思は無視かよ!!!」
「だってずるいじゃない。私は、私は……ずっとずっと昔から、ディンの事が好きだったのに……」
ぽたりとディンの肌の上に落ちたのは彼女の涙。生温い雫でしかないそれがディンを責めた。子供の喧嘩のように噛みつかずに、ちゃんと彼女の話を聞いていれば。彼女の変化に気付いていればこんな事にはならなかったかもしれないのに。
「ティナ……」
「ねぇ、あの子ともうした?」
あの子、とは間違いなくマリアベルの事だろう。今まで見た事の無い女の顔でそう問われ、ディンはいたたまれず目を逸らす。
「……してねぇよ」
「ふふっ。嬉しい」
「ばかっ!!」
服の上から股間を撫でられてディンの息が詰まる。相手が誰であろうと触れられれば反応してしまうのは悲しい男の性だが、これ以上を許す訳にはいかない。だが、言葉以外抵抗を示す事ができない男のベルトをティナトナは易々と外してしまう。
「止めろ!!」
たどたどしい手つきでディンの肌の上を白い手が這い進み、濡れた唇が落とされる。人形のように美しいと称される少女が乱れた姿で男に奉仕しているのはなんとも扇情的だ。だが、それを楽しむ余裕などディンにはない。魔術など使えない筈のティナトナが縄も使わずどうやって自分を拘束しているのかは分からないが、このままでは傷つくのは自分ではなくティナトナ自身だ。
確かに未婚の王女の純潔を奪ったとなれば、自分は同盟国の王子として責任を取らなくてはならないだろう。けれどディンの心はマリアベルだけに捧げられている。その為なら王族であることを捨てても良いとさえ思っている。もしもこのままティナトナがディンを使って自身を穢したとしても、ディンは彼女のものにはならない。その時は、マリアベルを攫ってどこへなりと逃げるまでだ。
「ディン……」
彼女の動きに合わせて揺れる柔らかな胸。そして白い肢体の上に流れる乱れた紺色の髪。まるで知らない女を見ているようで、薄ら寒いものが背筋を駆け抜ける。
「もうよせ! ティナ!!」
焦って叫ぶ男の声も、彼を求める女性にとっては甘美な響きに変わるらしい。ティナトナは歯を食いしばるディンに笑みを向けた。
「あ、もっと呼んで、名前……」
「ばかやろっ!!」
「んっ……」
***
「ヒトは複雑で面白いな」
「……何?」
まるで独り言のようにつぶやいた男の言葉に、レギは表情を動かさずに聞き返した。
「プレディオは精霊に興味を持ったが、お前はヒトに興味を持ったのか?」
「…………」
「ヒトも精霊もお前にとっては研究対象なのか」
「その為に生まれたのだ。不思議は無かろう」
プレディオ=コーザという研究者の欲を満たす為、自由な精霊の身から不自由な人間へと転化された存在。プレディオ本人が没してからも自分の意思ではなく、彼の意思に支配されて研究を続ける孤独な人形。
「哀れな」
「それがどうした。ワタシは自分のやりたいように生きるだけ。他人の評価など必要ない」
「だがこの世で生きる限り、ヒトは何人とも関わらずには生きていられない」
「ワタシはヒトではない」
「いや、ヒトさ」
はっきりとレギは断言した。男が初めて明確な不快を顔に表す。だがそれくらいでレギの意思は揺るがない。
「お前も、私もな。現にお前は既に何人ものヒトと関わっている。そしてヒトと関わりを持つ限り、倫理を越えた行動は許されない」
ヒトにはヒトの世界がある。それは社会と呼ばれるルールに縛られた世界だ。ヒトとして存在しているのならば、そこから外れる事は許されない。そこに精霊とヒトとの絶対的な違いがある。レギでさえ、ヒトとヒトの輪で囲われた社会の中で生きているのだから。
だがそれを理解しているのかいないのか、男は眉間に皺を寄せた。
「面倒な話はよせ。要はワタシが邪魔なのだろう」
「あぁ。邪魔だな。此処は私が守る国だ。悪いが相応の罰は受けてもらう」
「はっ。ヒトではないお前がヒトの国を守ると? それに一体何の意味がある」
「……言った筈だ。私もお前もヒトに過ぎないのだとな」
「!?」
突如地面から突き出した植物の根や茎が檻のように変化して男を捕らえる。気配を悟らせず背後を取ったノイメイはそのまま男を拘束しようと魔力を篭めた。だが、瞬時に植物の檻は中心で真っ二つに切断された。まるで大剣によって切られたようだったが、実際は男の魔力によるカマイタチだ。
けれど間を空けずに次の攻撃は既に発動していた。瞬時に男は水の固まりに飲み込まれる。そしてそれは男を捕らえまま氷の塊と化した。
「…………」
「捕らえたか?」
姿を見せたのはフレアレクとテグラルの二人。フレアレクが地下の伏流水を操り地表へと導き、テグラルが水の温度を奪う術式を展開させたのだ。目の前に突如現れた氷の塊にも眉一つ動かさず、レギはテグラルに目線を移した。
「早かったね。テグラル。サグホーンは?」
「城内の結界の強化に回っています」
「そうか。君はこの場に結界を張れるかい?」
「この場に?」
「あぁ」
一瞬レギの指示内容に対して理解が遅れる。もう既に男は捕らえたというのに、何故この場に結界を展開させる必要があるのか。だが、その答えは続くフレアレクの叫びで理解できた。
「テグラルさん!!」
「何!?」
ピシッという耳障りな音と共に氷の塊が瓦解する。そして一瞬にして凍りは水蒸気となって昇華した。地下水を丸々凍らせた巨大な氷があっと言う間に消え去る。一体どれだけの熱を発したのかは分からないが、まるで何もなかったかのように男は肩に落ちた氷の破片を払い落とした。
先程のレギの指示は、まだ倒されていないこの男を捕縛する為に使う魔力が周囲を破壊しないように張る結界の事だったのだ。男の底知れぬ力を目の当たりにしてテグラルはレギの指示に従った。これ以上自分が手を出せば返ってレギの足手まといになるだけだ。
「……結界を張ります」
「うん。よろしく」
男があの魔石を作った人物なら、水の扱いには長けている筈だ。奇襲に失敗したフレアレクもまた、この場では役に立たない事を悟っていた。
テグラルの指示でフレアレクとノイメイ、騎士達が下がる。そしてレギと男の二人を残してその場に結界を張った。反対側ではそれをバンがフォローする。だが、レギが本気になったら自分達の結界など数分も持たないだろう。
『力を貸そう。アレの本気は我にも想像がつかぬ』
結果を張る二人の魔術師に助力を買って出てくれたのは闇の上位精霊グライオだった。その傍には彼が移動させたのであろう光の精霊が地に伏している。気を失っていても回復しつつあるのか、その身に魔力が戻りつつあるようだ。
彼が言った『アレ』がかつて精霊だった男の事か、それとも魔術師長のことかは分からなかったが、テグラルは礼だけを口にした。
「助かります」
自分達が張った陣に闇の魔力が混ざっていく。それを慎重に結界内に取り込むため、テグラルは一層集中力を上げた。




