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50.毒林檎

 

 ユーリィはその日、王城へと召喚されていた。理由は華やかなものではない。再度正式な事情聴取の為に王命の下登城したのだ。通されたのは王城西棟に位置する比較的小さな客室の一つ。そこで待っていたのは騎士団副隊長トルマーレと名の知らぬ騎士と魔術師が一人ずつだけ。そこにベックの姿が無い事にユーリィは密かに安堵して息を吐いた。

 しかしこうして近くで魔術師と対面するのは初めてのことだ。今まで幾度と無く登城した経験のあるユーリィだったが、顔を合わせるのは大抵貴族か護衛の騎士だったから。目の前の魔術師は見目を整える事に興味は無いのか、硬そうな黒髪は適当に切ったのが放置されるがまま伸びた感じだ。肩に付く程の長さはなかったが、目に掛かった前髪が鬱陶しそうだった。魔術師のトレードマークであるローブはカーキ色で、所々皺が寄っている。

 ユーリィが勧められたソファに腰を下ろすと、すぐに対面に座ったトルマーレが口を開いた。


「わざわざご足労いただき感謝いたします、ユーリィ様」

「いえ、構いません。夫の事件にかかわる事ならば、召集に応じるのは当然のことですわ」

「ありがとうございます。早速で申し訳ございませんが、これからユーリィ様には以前と同様こちらの質問にお答え願います。因みに、後ろの居るのが部下のロジエルと魔術師のバンです。二人は記録係を務めます」


 トルマーレに名を呼ばれ、後ろに立つ二人は共に頭を下げる。誰の顔にも笑顔がない。それが、これから始まる事がただのおしゃべりではないのだとユーリィに再確認させた。


「よろしくお願いします」


 トルマーレはまず、前回の話の確認から始めた。緊張で身を硬くしていたユーリィも以前訊かれた事と同じなら比較的口も動き安い。そうして質問が続く内、話はあの夜会へと移っていく。


「夜会の日、ご挨拶された方を覚えていらっしゃいますか」

「えぇ」

「お名前を窺っても?」

「……全員ですか?」

「思い出せる限りで構いませんよ」


 トルマーレの言葉は穏やかだが、彼の表情に温かみは少しも無い。思わずユーリィはお茶すら用意されていないテーブルへ目を落とした。


「最初に陛下と殿下方へご挨拶をして、その後はパルミア伯爵、ヘンリー子爵ご夫婦、レインハルト男爵とご令嬢、それと……」


 出来る限り挨拶をした順番にユーリィは記憶を辿っていく。トルマーレは手元に用意された夜会の出席者リストと彼女が挙げる名前を照らし合わせていくが、リストに無い不審人物は見つからない。ならばやはりあの夜はガウディー=ハーゲンが単独で動いた可能性が高い。


「あとは、夫と共にマリアベル様とご挨拶を」

「分かりました。ありがとうございます」


 彼女がマリアベルと親しくしていたことは耳に入っている。トルマーレは軽く頷き次の質問へと移ろうとしたが、それはふと漏らしたユーリィの呟きに遮られた。


「……そう言えば、マリアベル様はご無事なのですか?」

「無事、とは?」


 書類から顔を上げれば、ユーリィは翳った表情でトルマーレを見返した。


「だからその、先日魔法生物の襲撃があった時マリアベル様も王城にいらっしゃったのでしょう? ですから……」


 それを口にした瞬間、トルマーレの目線が鋭くなる。思わず息を飲んだユーリィは続く言葉を最後まで口に出来なかった。城を守る騎士からすれば、襲撃を受けたことは不名誉だったろうか。無神経なことを口にしてしまったのかもしれない。慌てて謝罪しようとしたけれど、それは叶わなかった。


「あの……」

「どこでそれを?」

「え?」

「襲撃の事はどこからお耳に入ったのです?」

「……夫から、聞きました。襲撃があった当日の夜に」


 夫がユーリィを抱いた後はいつも直ぐに眠るか酒を呑むか。だがその日は眠れなかったのか、夫はベッドに入ったまま王城で起こった事件のことを話し出した。物騒だからしばらくは外出を控えるようにと言って。ガウディーからそんな労わりの言葉を受けたのは初めてで、ユーリィはあの時の事を良く覚えている。

 ほんの少し表情を緩めたユーリィにトルマーレは表情を曇らせた。その目に先程のような鋭さは無く、どこか同情的な色が差す。


「ユーリィ様」

「はい」

「……王家はあの事件のことを公にはしておりません」

「え……?」


 途端に冷たいものが背筋を撫でていく。ユーリィは頭の回らない女ではない。その言葉の意味が細い体を震わせた。


「襲撃の事はどこからか漏れるかもしれませんが、魔法生物の事に関しては緘口令が布かれています。その事実を知っているのはあの場に居た者達と……」


 珍しくトルマーレが一瞬言葉にするのを躊躇う。けれど、言われずともその先は分かっていた。当事者でなければ、知っているのは犯人のみだ。


「やはり……、夫が……」


 口にするのも憚られる。けれど、その事実を自分に言い聞かせるかのようにユーリィはどうにか震える唇を動かした


「犯人…なのですね……」

「……残念ながら、その可能性は非常に高くなりました」


 消え入るような声にトルマーレは冷静に応える。もはや完全に顔を伏せてしまったユーリィの心情を察し、トルマーレは席を立った。


「少し休憩にしましょう。私達は席を外します」


 そうして三人は静かに部屋を出て行く。その姿が見えなくなった途端、ユーリィの目からはぼろぼろと涙が零れた。みっともなく喉からは嗚咽が漏れる。


(あぁ……)


 ぎゅっと握ったドレスのスカートに涙のシミが広がっていく。それを眺めながら、唇を噛んだ。


(私、なんて惨めなのかしら……)


 好きな人とは永遠に結ばれず、実の父に三人の夫との契約を強要され、しかも一人目の夫は大罪を犯した犯人として追及されている。これでハーゲン家の名は地に落ちるだろう。自分はその時どうなっているのだろうか。ハーゲン家に嫁いだ未亡人として共に堕ちるのだろうか。それとも父によって次の家に嫁がされるのだろうか。どちらにせよ、これから自分の未来に光が射すことなどないだろう。


(一体何故? 私が何をしたっていうの?)


 何を恨んだらいいのか分からないユーリィの心は深く深く沈んでいく。






「バン、どうだった?」


 隣を歩く同い年の騎士に訪ねられ、左の魔術師バン=クラウドは浮かない顔で手元の書類に目を落とした。そこに書かれていたのはぐちゃぐちゃとした線だけ。ユーリィ=ハーゲンに記録係として紹介されたバンだったが、実の所彼の仕事はそれではない。バンに与えられた仕事は尋問されている相手の言葉を精査する事。だから書類に書かれたのは記録を取るフリをする為の単なるいたずら書きに過ぎない。


「彼女の言葉に嘘は一つもありませんでした」


 答えたのは隣ではなく、前を歩く副隊長に向けて。するとトルマーレは「そうか」と短く答えただけだった。

 人間は嘘を付く時、すくなからず平常の状態とは違う反応を示す。それは視線だったり手癖だったり、分かり易い者は言葉に表れたり。けれど犯罪者や表面を繕う事に長けた貴族はそれだけでは見破れない事も多い。そこでバンの出番となる。バンは予め組んだ陣の上に対象者を置くことで、相手の呼吸・心拍数・体温・発汗作用など身体的な変化を読み取る事ができるのだ。それを元に相手の言葉に嘘があるかどうかを見抜く。


 騎士の二人はこのまま一旦ベック隊長の下へ報告に行くと言う。それに付き合う必要は無いだろうと判断したバンは彼らと別れ、近くの小さな裏庭へ向かった。適当に人気の無い木陰を探して直接地面に腰を下ろし、バサッと持っていた書類を横に投げる。両手を頭の後ろで組むと、ごろんと芝の上に寝転がった。頭上では木漏れ日がきらきらと瞬いている。


(……泣いてるのかな)


 思い出すのは細い肩を震わせるユーリィ=ハーゲンの姿。下を向いたまま決してこちらを見ない彼女の様子は痛々しく、夫が犯人であることに相当なショックを受けていたようだった。


(そりゃそうか)


 今年で二十五になるバンは未婚の身だ。恋人もいたことはないし、愛しい人を失ったユーリィの気持ちは分からない。けれど美しい女性が悲しみにくれる姿を見て自分の胸も痛んだ。バンにとっては一回りも離れた相手だが、初めて近くで彼女を見て素直に綺麗だと思ったのだ。

 元々殿下達の婚約者候補として有名だったユーリィが三人の夫を得たことは口がさない者達にとって格好のネタだった。その夫が王城を襲撃し、陛下の客人を誘拐した犯人の一人だと分かれば世間は彼女をどう見るだろう。不幸な未亡人か、それとも罪人の妻か。どちらにせよ彼女にとって辛いものに変わりない。

 憂い顔なんて、見たくはないのに。


(何考えてるんだか……)


 己の思考に自ら呆れて、バンは目を閉じた。二十分もすれば再びあの部屋に戻らなくてはならないだろう。その時には少しでも彼女の涙が乾いていればいい。そう願いながら。





 ***


(また、か……)


 最近目を覚ますとこんな事ばかりだ。ラズはベッドの上でこっそり溜息を吐いた。


 突如王城の前庭に現れた魔術の陣によって強制移送されたラズが最初に目を覚ましたのは真っ暗な部屋のベッドの上だった。その後、腕の怪我は下位の〈闇〉達の力を借りて少しずつ回復している。体力回復と治療の為に長く眠りに付いてしまうので、目が覚めると必ず誰も居ないベッドの上で目が覚める。しかも起きる度に違う部屋の中にいるのだ。最初に寝ていた部屋は半地下のようだったが、此処最近はどう見ても安宿の一室だった。逃げられぬよう腕と足は縛られたままで、ご丁寧に魔術で結界が張られている。どうやら自分を攫った犯人は宿を転々としながらどこかへ移動しているようだ。


(何処に行くつもりなんだろう……)


 順当に考えれば捜査から逃げる為に王都から逃げているのだろう。けれどいつまでも自分を連れたままでは邪魔な筈だ。どこかで捨てられるか、それとも口封じの為に殺されるか。


(でも、殺されはしない気がする)


 そう思うのは犯人が誰かを確信しているから。現に怪我をした右腕には人の手で包帯が巻かれ、縛られた腕や足もロープが擦れて痛まないよう布が当てられている。どれもこれから命を奪う相手にするような事ではない。

 動きは取り辛いが何とか上半身を起こして窓の向こうを見る。陽は高く、正午にさしかかる時刻のようだ。その時初めてドアが開く音がして、ラズの体に緊張が走った。


「……おや、起きたの?」


 そう言って部屋に入ってきたのは拍子抜けするほどいつもと同じ様子の魔術師。一瞬呆気に取られてしまったが、自分のすべき事を思い出してラズはすぐに表情を険しいものに塗り替えた。


「やっぱりあんたか、セフィルド。どういうつもりだ?」

「そんなこと、今更聞く必要があるの? ラズ」


 名前を呼ばれた途端、嬉しそうに相好を崩す魔術師。どうにもそこから悪意が読み取れなくて、ラズは取るべき態度に迷う。だが、彼が誘拐犯の一味である事には変わりない。

 セフィルドは手にしていた紙袋を丸テーブルの上に置くとラズがいるベッドに腰を下ろした。骨ばった大きな手がラズの頬に伸びる。


「少し痩せてしまったね」

「さっ……!!」


 触るな! と叫ぼうとして、けれど傍で見た男の顔が以前と違う事に気づいて口が止まる。ラズは言葉の勢いを落として問いかけた。


「……アンタも同じじゃないか」


 いつも華やかなセフィルドの目にはうっすらとクマが出来、心なしか頬もこけたようだ。大分疲れている、というのがラズから見た今の印象だった。


「心配してくれるの? 優しいねぇ」

「事実を言っただけだ。心配はしていない」

「ひどいなぁ。ま、分かるでしょ? 逃亡生活を余儀なくされてるんだから、痩せもするさ」


 おどけたように肩を竦めるセフィルド。確かに今や誘拐犯として国から追われる身。転々と宿が変わっているのは逃げているから。移動を続けてろくに休めないのでは憔悴するのは当たり前だ。だが、何か違和感がある。


「アンタ結局、何がしたかったんだ?」


 犯罪者になってまで、何故? セフィルドは変態だが頭はいい。明らかに割に合わないような無茶をするような男ではない。


「君を手に入れたかったんだ」


 そう言ってセフィルドは更にベッドに乗り出してきた。手足を縛られた状態で、それでもラズはなんとか後ずさる。だが、簡単にその距離は詰められた。あっと言う間にベッドの上に押し倒され、見上げた先には金髪の整った顔立ちが自分を笑顔で見下ろしている。


「……逃亡生活と引き換えてまで?」

「それぐらい君には価値があるってことだよ」


 体重をかけて乗りかかられ、すでに身動きできない。セフィルドの手がベストのボタンを外そうとしているのが見えてラズは咄嗟に叫んだ。


「よせ!!」

「言っただろう、僕は男だとか女だとかそういうのは気にしないって」

「それがなんだ……」


 懸命に体をよじるがこの体勢では逃げられない。それでも最後まで抵抗してみせる。なんとか手だけでもロープを外せないかと必死になっていた時、顔を背けて顕になったラズの耳元でセフィルドがそっと囁いた。


「だから君が女の子であろうと、俺は君が好きだよ」

「!!!?」


 言われた言葉の意味を頭の中で反芻する。この男にはバレていたのだ。ラズが女である事が。


「なっ……」

「ごめんねぇ。治療の時に君の体を見させてもらったんだ」


 大きな男の手が開いたベストの下をくぐり、シャツの上からサラシ越しに豊かではない胸に触れる。その瞬間全身が粟立つ様な不快感が走る。


「触るな!!」

「……ねぇ、君は一生そうやって男として生きていくつもりなの?」


 セフィルドの言葉は、その手の動きはあくまで緩やかだ。そろりそろりと這うようにゆっくりラズを追い詰める。


(そうだ。私は……、もう女としては生きられない。そう決めたじゃない)


 けれどセフィルドの問いに答えられないのは何故? 動揺しているのは何故? 男として生きると言葉に出来ないのは何故?

 本当はずっと分かっていた。心の奥底に押し込めていたリジィターナの本心。子供が産めなくたって他の誰にも価値が無くたって、本当は女として生きたい。女として誰かを好きなって、女として愛されたい。


「…………」


 言葉にならない代わりにラズの碧色の瞳が濡れる。けれど雫が零れないのは、『ラズ』としての最後のプライドなのかもしれない。セフィルドはまるで恋人にするようにラズを抱きしめ、そっと額に口付けを落とした。


「僕は本当の君を愛したいよ」


 金髪の魔術師が差し出した真っ赤なりんごは、毒を含んでいて――甘い。

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