49.死と初恋
ベッドから起きだし、簡単に着替えを済ませたユーリィは窓辺に置かれた椅子へ座って読みかけの本を開いた。通常なら直ぐに使用人を呼んで身支度を済ませる所だが、今日はいつもよりも早い時間に目が覚めた。けれど、いつもと違う時間に呼ばれては使用人達の仕事にも支障が出るだろう。そう思って時間を潰す事にしたのだ。
しかし結局、本を読み終える事は出来なかった。一人の年配の執事が、ユーリィの自室に飛び込んできたからだ。
「大変です! 奥様!」
「おはよう。朝からそんなに慌ててどうしたの?」
「だ……旦那様が……」
真っ青な顔で立ち尽くしている執事。今にも倒れてしまいそうな姿に、ユーリィは思わず駆け寄った。
「ガウディー様がどうかした?」
「…あの、ご、ご遺体で見つかったと」
「え……?」
それは自分の一番目の夫であるガウディー=ハーゲン死亡の知らせだった。
***
『起きたか?』
深い眠りから覚醒して、まず耳に入ってきたのは人とは違う、体の奥に染みるような声。ネイの良く知る声だ。顔を横に向ければ、そこには黒い豹が自分と同じベッドの上に横たわっていた。どうやらネイの横にずっといたらしい。
「あぁ。……今何時だ?」
『真昼だ』
「俺が寝てから、どのくらい経った?」
『まだ半日しか経っていない』
「そうか……」
ゆっくりベッドから体を起こすと、まるで丸一日眠っていたかのように体が軽い。自分を眠りに誘ったグライオの魔法の効果かもしれない。
『あら、もう起きたの? おはよう』
「あぁ……」
そう言って現れたのは〈風〉の一人。彼女はネイの顔を見て苦笑した。彼がこれから直ぐに起きて出かける気だと分かったからだろう。だが、その前に話さなければならないことがある。
『ねぇ、ネイザン。落ち着いて聞いてくれる?』
「なんだ?」
『犯人の一人が見つかったわ』
「!?」
その言葉を聞いた途端にネイの瞳に力強い意思が宿る。
〈風〉は『見つかった』と言っただけだ。ならば――
「まだ捕まってはいないんだな?」
けれど〈風〉は首を横に振った。
「どういうことだ?」
『遺体で発見されたの』
「!? 誰だ!」
『ガウディー=ハーゲン。伯爵家の長男よ』
「……ハーゲン。ユーリィ様の夫の?」
ハーゲン伯爵はかつて王子達の妃候補として城に出入りしていたユーリィ=ササラの夫だ。当然城の騎士達は皆その存在を知っている。少なからずネイは驚いていたが、人の事情には明るくない〈風〉は淡々と事実だけを述べた。
『えぇ。城下街の持ち主がいない屋敷のリビングで亡くなっていたわ』
「その廃屋はどこだ」
『行っても無駄よ。騎士達が調べたけれど、屋敷のどこにもラズはいなかった』
「……。ならば、何故ハーゲン伯が犯人の一人だと?」
伯爵家の貴族が一人廃屋で死んでいたとなれば勿論怪しい。けれど何の証拠もなしに、彼が今回の事件に関わりがあるとは断定できない筈だ。
『私とブルネイもそこを調べたの。地下室があって一時的だけどそこにラズが居たらしいわ』
『地下室にいた〈闇〉がそう言っていた。だが、遺体が発見される前夜にラズはそこから運び出されたらしい』
「……誰に?」
『男だ。同胞の幾人かは着いて行こうとしたらしいが、そやつの結界に邪魔をされた。恐らく魔術師であろうな』
魔術師。その言葉だけで頭に浮かぶのは忌々しい男の顔。何度と無くラズに迫って困らせていた華やかな見目の左の魔術師。
「セフィルド=オレゴンか?」
『そこまでは分からぬ』
『……遺体を発見したのは私の相棒の〈風〉なのよ。けど、彼もラズが去った後でなければその屋敷を見つけることが出来なかった。屋敷自体に発見され難いような結界が施されていたみたい。犯人とラズが去った後に結界が解かれ、〈風〉がそこを見つけ出す事が出来た』
「……そして、屋敷に残っていたのはハーゲン氏の遺体だけ、か」
『えぇ』
(仲間割れか?)
ラズを誘拐した犯人が本当にセフィルド=オレゴンならラズを殺す事はない。腹の中では何を考えているのか分からないような男だが、ネイにもそれは断言できる。だが、彼はラズを男だと思っていても性的対象として見ている。そんな男の傍にラズがいると思うだけでネイは全てを許せなくなる。
(今、ラズはどこにいる?)
「もう一人の〈風〉はどうしているんだ?」
『私とレギ=フレキオンに連絡を取った後、直ぐに消えたわ。多分、引き続きラズを追っていると思う』
「……レギ師長とは知り合いなのか?」
ヒトは信用できない。ラズが陣によって強制移動させられた後、〈風〉が残した言葉だ。その彼がレギ魔術師長に連絡をしたというのは意外だった。
『レギ=フレキオンは私達の味方だから』
「味方?」
『えぇ。私達の“子”に関しては、ね』
以前戯れに交わした言葉だったけれど、レギはそれを違えたりはしない。必ず力になってくれる筈だ。彼も自分達と同じなのだから。
『ねぇ、ネイザン』
「何だ?」
『あの子の味方でいてくれてありがとう』
精霊は人に比べて感情が見え辛いが、今の彼女からははっきりとそれを読み取る事が出来た。それは愛しい子を慈しむ、母親のような愛情だった。
***
(どうしてこんな事に……)
ユーリィは血の気が引く思いで目の前の光景に圧倒されていた。
昼前からハーゲン伯爵家の屋敷には数人の騎士が訪れている。今朝遺体として発見されたこの家の主人について話を聞く為だ。
己が心から愛した人ではないとは言え、自分の夫の突然の死はユーリィを動揺させた。けれどそれ以上にユーリィを動揺させたのは、屋敷を訪ねてきた騎士団長ベック=ワイズの存在だった。かつて遠くから眺めることしか出なかったその人が自分の目の前にいる。それだけで心が乱されるのに、今彼が吸い込まれそうなボルドーの瞳に映しているのはユーリィ=ササラではない。ガウディー=ハーゲンの妻としての自分だ。そう思うだけで心が折れてしまいそうだった。
ベック隊長の隣に座るのはトルマーレ副隊長。下位の騎士ではなく隊長と副隊長がわざわざ聴取に訪れたのは、伯爵家とかつての王子達の妃候補であるユーリィに対するせめてもの礼儀なのだろう。
対面式のソファに一人座るユーリィに声をかけたのはトルマーレの方だった。
「失礼ですが、マイヤー夫人は?」
「今は自室に。加減が悪く、臥せっておりますわ」
「心中お察しします」
最愛の息子を失った悲しみは妻であるユーリィよりも深い筈だ。義理の父は既に他界している為、この屋敷にいるのはハーゲン家の女性二人と使用人達だけ。騎士達の聴取に対応できるのは今ユーリィしかいない。
顔色の悪い面を隠す事も出来ないまま、ユーリィは肩にかけたストールの端をぎゅっと胸の前で握り締めてソファに座っていた。部屋の隅に控えている使用人達も動揺を隠せないようだ。皆浮かない顔をしている。無理も無い。
執事の用意した紅茶に礼を言い、早速聴取に入る。質問を始めたのはやはりトルマーレだった。
「早速ですが、ガウディー氏が屋敷から出たのはいつ頃かお分かりになりますか?」
「……昨日の、深夜だと思います。夕食は共に取りましたが、その後私は自室におりましたから、正確な時間までは……」
「他にお分かりになる方は?」
「ダリ」
ユーリィは後ろに控えていた執事長の名前を呼んだ。夫婦とはいえ、自分達は貴族。互いの付き合いもあるし、常に夜を共にしているわけではない。彼の方が主の動向を把握している筈だ。
老齢の執事長は表情を動かさずに一歩前に出た。
「……ガウディー様は日付が変わる前にお出かけに」
その答えに、トルマーレの目線が鋭くなる。
「その時馬車の手配を?」
「はい。今、その御者を呼んでまいります」
「お願いします」
馬車も御者も屋敷で抱えているものだ。直ぐに御者は現れるだろう。その間も聴取は続く。
「ガウディー氏が夜中にお出かけになるのはよくある事なのですか?」
「……貴族の夜遊びなど、珍しくも無いでしょう?」
疲れたようにそう言えば、トルマーレは興味なさそうに「えぇ、そうですね」と相槌を打つ。今は変に同情されるよりもそのそっけない態度の方がありがたかった。
「最近、ご主人に変わった様子は?」
「どちらかと言えば、機嫌が良さそうでしたが……」
「何か良いことでも?」
「さぁ。私には……」
寝酒を飲んでは上機嫌で仕事や知人の話をする事はよくあった。けれどそれがこの一時期のことなのか、それとも昔からなのかは結婚したばかりのユーリィでは分からない。すると話を聞いていた使用人の一人が口を挟んだ。
「ガウディー様は、奥様とのご成婚以来、とてもご機嫌麗しくて」
「成る程」
その言葉に納得したようにトルマーレが頷く。けれどユーリィはそっと唇をかみ締めた。
(やめて……。この人の前でそんな話……)
憧れていた。騎士団長ベック=ワイズに。それは王子達の妃候補として城に上がっていた時からずっとずっと長い間。初めての恋だった。そしてそれは今も続いている。
自分は貴族。しかも今や希少な女性。自分が望んだ通りの相手と結ばれる事などない。幼い頃からそう理解しているからこそ、ユーリィはベックへの恋心をずっと胸に秘めてきた。彼が自分を殿下の妃候補としてしか見ていない事も分かっている。恋を成就させることはとっくの昔に諦めた。けれど消えないのだ。彼を想うこの恋心だけは。
だから心から好きな人の前で他の男性との結婚生活について話さなくてはならない今の状況は、何よりもユーリィの心を締め付けた。聴取は全て副隊長のトルマーレが進め、ベック自身が言葉を発しないのが唯一の救いだ。
「ご主人が懇意にしていた人物に心当たりは?」
「昔からお付き合いのある家の方々とはそれなりに……」
「普段とは違うお客様をお招きになったことは? 特定の方と頻繁に会ったり、手紙をやり取りされていたということありませんか?」
「心当たりはありませんが……」
「先日王城で開かれた夜会にお二人でご出席なさっていましたよね?」
「えぇ」
「お二人はずっとご一緒に?」
「えぇ。殆どは。パートナーを変えてダンスをしている間は流石に別行動でしたが」
「魔術師にお知り合いは?」
「え……?」
ずっと下を向いていたユーリィだったが、この問いには顔を上げた。
伯爵家とは言えど、ただの一貴族。普通に生活していて魔術師と知り合う機会など無いに等しい。それなのに、何故今魔術師について聞かれるのだろう。
「いいえ。そんな話は聞いたことがありませんわ」
「そうですか」
「あの……、夫の死と何か関係が?」
「それは……」
そこでリビングのドアが開いた。執事長が例の御者を連れてきたのだ。トルマーレはユーリィの質問よりもそちらを優先した。
「昨夜はガウディー氏を何処までお送りした?」
「ペディエ橋の手前です。お帰りはまた別の馬車を呼ぶから待たなくて良いと仰って。私はそのまま引き返しました」
「彼をそこに送ったのは昨夜が初めて?」
「い、いいえ」
「頻繁に?」
「頻繁、という程では……。昨夜を入れて二回だけです」
トルマーレは一度ベックと目線を交わす。その様子をユーリィは見逃さなかった。
「一度目はいつ?」
「……サディア国殿下方歓迎の夜会の、前日でございます」
「その時、ガウディー氏以外の人間を見かけなかったか?」
「いいえ。見かけませんでした。あまり人通りの多い場所ではございませんし」
「そうですか」
ペディエ橋は城下街の中でも貴族の屋敷が並ぶ地域から少し外れた場所だ。そんな所に知り合いの家は無かった筈だが、ガウディーは何処へ向かったのだろう。ユーリィには心当たりが無いが、トルマーレ達にはあるようだった。
(魔術師。ペディエ橋。夜会の前夜)
夜会の準備は女性の方が忙しい。ドレスの準備やボディケアなど朝から対応に追われる。だから夜会の前夜、ユーリィは夫よりも先に一人就寝した。それ故、夫がその後出かけていた事は知らされていない。
(魔術師、まさか……)
魔術師が関係のある最近の事件と言えば、王城を襲った魔法生物とその犯人。確か、その時一人行方不明になった人物がいたのではなかっただろうか。その事件と夫の死に何か関係が?
自らの思考に嵌っていた時、静謐で低い声が耳朶を打った。
「昨夜、送った時のガウディー氏の様子は?」
久しぶりに耳にする、ベックの声だ。ユーリィは思わず目を逸らす。
「…………。あまり、落ち着かない様子でした。苛立ちを押さえているような……」
「分かりました」
その後、二三質問が続き、今日の聴取は一先ず終わりとなった。席を立つベックとトルマーレを玄関先までユーリィが見送る。
玄関扉をくぐる直前、トルマーレが一度だけユーリィを振り向いた。
「そう言えば、こちらでは鳥を飼っていますか?」
「鳥、ですか? いいえ」
「そうですか。ご協力ありがとうございました。またお話を窺うことがあるかもしれません。しばらくは遠出を控えてください」
「分かりました。ご苦労様でした」
「失礼致します」
下位の騎士が用意していた馬に二人は騎乗する。そして屋敷の前を去っていった。
(皮肉ね……)
夫が死に、そしてそれを取り調べに来るのが今も胸の奥に居座っている想い人なんて。
ユーリィは一度自分自身を抱きしめるように腕を回し、使用人に促されて屋敷へと戻って行った。




