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44.価値

 マリアベルとラズ。二人の過去とその絆。ただの巫女と護衛ではない。ただの幼馴染でも親友でもない。共に生活してきた家族のようで、けれど本物になれない事を悲しむほどの深い深い絆。それを知り、ダンは言葉を失っていた。何か言葉を掛けたいのに一つとして浮かばず、目はゆっくりと黒豹を撫でているラズの手の動きを追うしかない。

 沈黙の中、不意にソファに座っていたディンが腰を上げた。


「……ディン?」


 ディンは黙って寝室のドアの前まで歩いていく。その背中をダンと涙を拭いたラズの視線が追う。やがてその背中がドアの前に辿り着く。上がった手はドアノブを握らず、手のひらがドアに押し付けられた。


「マリアベル」


 呼んでも中から返事は無い。けれど構わずディンは続ける。


「俺に第二王子以外の価値があると思うか?」


 誰も言葉を発しない。ラズもダンも、そして寝室の中にいるマリアベルも。けれど彼女はディンの言葉を聴いている筈だ。誰もがその確信があった。


「貴族や他国の連中から見れば王子じゃない俺は徒のガキだ。大層な価値なんてねぇよ。俺は兄上みたいに頭は良くないし、口も悪りぃ。ごちゃごちゃ騒ぐのが関の山だ。けど、それで俺っていう存在に意味が無くなると思うか?」


 グライオが目を閉じる。真っ暗な闇の中で感じる鼓動は二つ。一つは契約によって繋がった絆。そしてもう一つは自分の片割れである存在。ブルネイは今マリアベルの傍に居る。彼が教えてくれる。閉じられたドアの向こうで、彼女がベッドに臥せっていること。そして枕を抱きしめるようにして顔を埋めていても、確かにディンの言葉が届いていることを。


「大体価値ってのは他と比べる為に他人が決める指標だろう。そんなもんが本当に必要か? 俺達がマリアベルを必要としているんじゃダメなのか?」


 段々とディンの声が大きくなる。それは説得なんてものじゃなくて、純粋な感情の吐露にラズは聞こえた。

 ドアに置かれたディンの手が、ぎゅっと拳を作って握られる。


「女神だとか解呪だとかそんなものはどうでもいい。俺はマリアベルがマリアベルである以上の価値なんて要らない。俺は……」


 ディンの声が苦しげに擦れた。


「俺はそれが、今までちっとも伝わっていなかったことが悔しい……」


 見えないドアの向こうで臥せっていたマリアベルがはっと顔を上げる。彼女に寄り添っていた白豹はほんの少し目を細めた。


「あーもう! ついでだから言っちまうけど、お前もだぞ! ダン!!」


 吐き出した言葉の勢いのままディンが振り返る。急に名前を呼ばれたダンは何事か分からず、ポカンと開けた口からしまりの無い声が漏れた。


「え……、は?」

「いつまでもくだらねぇことにこだわってんじゃねぇよ! お前が髪の色の事気にしてんの気づいてないとでも思ったのか!? 昔はごちゃごちゃ言う馬鹿も居ただろうが、今は居ないだろう! 金髪だとかそんなんじゃなく、お前が認められた証拠だろうが! これ以上ウジウジしてっとぶっとばすからな!!」

「ディン。お前……」


 現在の国王に息子は四人。マクシミリアン、ディストラード、ダリオン、そしてヘリオスティン。国王も息子達も多少色味の違いはあれど、皆金色の髪を持って生まれてきた。たった一人、ダリオンを除いて。

 おかしなことではない。ダンのブラウンの色は王妃と同じ髪色であったから。けれどそうは思わない者も当然いる。そして彼らは言った。本当に国王の血を引いた子供なのだろうか、と。けれどそれは王妃の不義密通を疑う行為。不敬に当たる言葉を公の場では言わずとも、人の悪意はどこかで漏れる。幼い頃から不躾な好奇と疑念の目に晒されてきたダンは、いつの間にか人と接することが苦手になっていた。いくら国政や礼儀の勉強を頑張っても疑念の声は止まず、そう思わない者達からは同情や憐憫の声が寄せられる。

 そしてヘリオが生まれた。父王や兄弟達と同じ髪の色を持った赤ん坊。誕生を祝う声にまぎれてダンの耳に聞こえてきたのは冷たい言葉。


――ホラ、やっぱり。


 やっぱり、あの子は違うのだと。そう言われた瞬間、ダンは止めた。いつか認められるのではないかと期待すること、母の手が自分を撫でてくれることを。いくら幼い弟の金色の髪を母が撫でていても、羨ましいと思ってはいけないのだと思った。例え母が一度も自分に手を伸ばしてくれた事が無くても。

 代わりに父王も兄達も自分に優しかった。父が沢山自分を撫でてくれた。マックが自分を褒めてくれた。ディンが共に遊んでくれた。

 成長して学友が出来て、けれど失って。相変わらず期待する気持ちは封印したまま。そんなダンの気持ちにディンは気づいていたのだ。恐らくここには居ないマックも同じなのだろう。

 ダンは泣きそうな顔で笑った。ディンの言葉に気づかされたのだ。自分はあの頃の小さな子供じゃない。学友を失った時の自分でもない。今、ダンは兄達の背を追って勉強に励んでいる。ラズという友人も居る。ヘリオを大切な弟として愛してもいる。確かに、前に進んでいるのだと。それを周囲も気づいているのだという事を。

 ダンの表情に気づくと、気恥ずかしそうにディンは目を逸らした。先程の勢いがなくなってしまったせいもあるのだろう。

 すると、背後から音がした。ディンの後ろ、寝室のドアが開く音が。


「マリアベル……」


 振り返った先にいたのは愛しい愛しい少女の姿。泣きはらして赤くなった目に、再び零れそうな涙が浮かんでいる。


「ディン、私……」


 言葉は唐突に途切れた。ディンに抱きしめられたからだ。背に回された腕は逃がさないと言っているかのようにきつくマリアベルを拘束する。


「俺はマリアベルが好きだ。誰よりも何よりも好きだ。俺が好きな女の事をこれ以上貶めるようなことを言ったら本気でキレるからな」


 返事をしようとして、けれど唇が震えて声にならなかった。マリアベルは温かい腕の中で、何度も何度も頷き返す。

 ディンが自分を好きでいてくれる。それだけで自分は誇れる人間なのだと思える。此処に居て良いのだと、彼の傍に居て良いのだと思える。

 マリアベルの手がおずおずとディンの背に回る。それを見てラズとダンは黙ってその場を後にした。残された二人はしばらくそのまま、互いの存在を確かめるように抱きしめ合う。


「フェイのことは気にすんな。アレは誰にでもああいう奴なんだ」

「うん……」

「あぁ、でも仲良くする必要はないからな。必要以上は近付くな。あいつ実は変態だから」

「…う……ん?」


 話がおかしな方向に向かってきた気がして、マリアベルは若干首を傾げる。彼女の表情が和らいだ事を見て取ったディンは腕の拘束を緩めてマリアベルを正面から見下ろした。


「マリアベル」

「はい…」


 涙の残る顔がディンを見上げる。その額に自分の額をくっつけ、濡れたコバルトブルーを覗き込む。


「俺はこの先一生マリアベルしか求めない。王族を抜ければお前が手に入るというならいつでも辞めてやる。価値が必要だと言うのなら、俺にとってマリアベルの価値は国より重い」

「ディン……」

「だから、もうそんなくだらない事で泣くな」

「…うん」


 心の隅に空いていた隙間が、温かいもので埋められていく。そしてようやく気づくのだ。自分を好きだと言ってくれる人の想い。傍で支え続けてくれた親友の想い。それらを今まで見つけられなかった自分の不甲斐なさに。


「ありがとう、ディン……」


 どちらともなく重なった唇は優しくて、マリアベルの瞳に再び涙が浮かんだ。悲しみや寂しさではない。初めて人に愛され、愛したいという想いを知った少女の涙。






「グライオは?」

「……多分、ブルネイと一緒に居ると思う」

「そうか」


 いつの間にか姿を消した黒豹に気づき、廊下を歩きながらダンが尋ねる。いつもラズの傍に居たから、てっきり部屋を出る時もついて来ているだろうと思っていた。

 あの二人を見ていれば分かる。本気でマリアベルがディンに心を開いた事に。女神の言葉を全うしようとする義務感からではない。巫女の立場など関係なく、マリアベルという名前の一人の少女が、ディストラードという青年を受け入れたのだ。それはずっと彼女を見守ってきたブルネイならば言わずとも分かること。独占欲は強いが、マリアベルが本気で望めば二人の邪魔はしない筈だ。今、白豹の心の内にあるのは嫉妬か、それとも寂しさか。それはラズには分からない。


「視察はどうなった?」

「あと二十分もすれば出発する」

「マリアベルは?」

「今回の視察は城下の教会も含まれているから出来れば来て欲しいが、マック兄上も無理には連れて行かないと思う」

「そうか…」


 しばらく互いに無言で廊下を進む。ダンはサロン、ラズは自室へ。その分かれ道に差し掛かった時、ダンはラズの顔を見た。


「ラズ……」

「ん?」


 マリアベルの話をしてくれた時、ラズは言った。マリィに家族をあげたかった、と。兄達がいれば間違いなくその願いは叶えられるだろう。けれどラズは? 家族が居ないのはラズも同じ。家族が居ない寂しさを、ラズは今までどうしてきた? これからどうする気なんだ? それをダンは聞いてみたかった。けれど、実際本人の顔を見てしまうと言葉が上手く出てこず、目を逸らしてしまう。


「いや……、じゃあ、俺はサロンに戻るから」

「うん。視察頑張って」

「あぁ。ありがとう……」


 結局そのまま二人は別れた。ラズは無性に〈風〉達に会いたくなって、三階のテラスへと向かった。





 ***


 先日サディア国の殿下達を迎えた前庭の先の広場では、今二台の馬車が用意されている。どちらも四頭引きの細やかな装飾が施された王族用の馬車。一台はフェイロン王子、ティナトナ姫、マクシミリアン王子。もう一台はディストラード、ダリオン、ヘリオ、そしてマリアベルが乗ることになっている。周囲は近衛騎士達が取り囲み、視察に出発する為の準備を終えていた。

 そこに向かう人影が馬車に乗り込むべく騎士達に護衛されながら道を進んでいる。その様子をラズは王城三階のテラスから眺めていた。移動している人数は七人。その中には当然マリアベルも含まれている。彼女は今、巫女の正装をしてディンの隣を歩いていた。自分の意思で、今回の視察に行くことを決めたのだ。


『これで良かったの?』


 テラスの柵に頬杖を付いているラズに〈風〉の一人が尋ねる。ラズは嬉しそうに頷いた。


「うん」

『そう。ならいいわ』


 自分の可愛い娘が満足しているのならそれでいいのだ。もう一人の〈風〉がラズの髪を撫でる。


『戻ってきたな』

「え? あ、グライオ。おかえり」


 いつの間にか自分の足元には黒豹の姿があった。グライオは黙ってラズに身を摺り寄せる。ラズは手を伸ばし、その頭を撫でた。自分が〈風〉に撫でて貰った分を返すように。


「ブルネイは?」

『下に居る』

「マリアベルの所?」

『馬車の中までついていく気はない様だが、アレはそう簡単に巫女を手放す気はないからな』

「そっか」


 再び下へ目を向ければ、丁度彼らが待機していた近衛騎士達に迎えられ、馬車に乗り込む所だった。姿は見えないが、あの近くにブルネイもいるのだろう。


 ピチャッ


 空を見上げる。ちらほらと雲はあるが、良く晴れている。一瞬雨が降ってきたのかと思ったが、どうやら気のせいだったらしい。



 ピチャッ



 鳥肌が立った。唐突に。


『ラズ!!!』


 警告の声は〈風〉から。すばやい動作で臨戦態勢を取り後ろを向く。そこには“何か”が立っていた。


「〈水〉……?」


 透明な、木偶人形のような姿の水の塊が立っている。一つ、二つ、三つ。いや、こうしている間にもどんどん増えていく。四つ、五つ、六つ。次から次へとまるで床から生えるように増殖していく。


「何……?」


 ラズの前に立ったグライオが威嚇するように低い姿勢で唸り声を上げる。けれど見えているのかいないのか、顔の無い水人形はジリジリとラズを囲むように廊下からテラスへと侵入してくる。

 聞こえてきた騒音にはっと息を飲んだラズが後ろを向けば、下も同じ状況だった。ラズの周囲よりもはるかに多い、数え切れない程の水人形が馬車の周りに居る人達を囲むように次々と出現している。


『ラズっ!!』


 気配を感じて身を引けば、水人形の体から伸びた腕のような水柱が顔を掠めた。これらはただ現れただけではない。攻撃の意思がある。それを証明するように下でも近衛騎士達が剣を抜いていた。騎士達を凌駕する数の水人形を相手に主と客人を守るべく、騎士達が動きを見せる。


「なんで……」


 ラズも腰元の剣を抜く。陽を浴びて白銀に光る剣。セリオスから譲り受けた一振りだ。水人形達の動きは人とは違うが、近衛騎士の実力者であるネイと剣の鍛錬をしてきたラズからすれば恐ろしく緩慢だ。再び腕を伸ばそうとしてきた右手の水人形の頭を、それより前に斬り落とす。頭であった水の塊が石床の上に落ちてビチャッと飛び散った。だが、頭部を失ったまま水人形は腕を伸ばしてくる。


「くっ!」


 今度は腕を斬り落とすが同じだ。頭を斬っても腕を斬っても、水人形の動きは止まらない。そうしている間に次々と近付いてきた他の水人形達が腕を伸ばしてくる。それを避け、斬り払う。グライオも跳躍して胴に喰らいつくが、床に倒れた水人形は飛び散った体を集めても元に戻る。これではキリが無い。


『ラズ、魔石よ!!』

「え?」


 〈風〉が指し示した先。水人形の体の中に日光の反射でほんの僅か、キラリと光った何か。


(まさか!!)


 考えるよりも先に体が動いていた。一瞬の光を見逃さず、ラズは正確にそこを刺し貫く。剣の勢いと共に水人形の体から飛び出た割れた何かを〈風〉が拾った。ラズに刺された水人形はみるみる内に形を保てなくなり、ただの水溜まりになった。

 それを見たグライオや〈風〉達が同様に水人形の体に喰らいつき、起こした風で切り倒す。そうしてあっと言う間にラズ達を囲っていた水人形は姿を消した。


『これを』

「……魔石だ」


 小指の爪程の大きさしかない赤黒い石。ラズが見つけてきたものに比べて魔力量は遥かに少ないが、確かに魔石だ。これがもし、あの魔石と同様の効果を持つものだったとしたら、不恰好な水人形は魔石によって無理矢理意思を奪われた水の精霊の成れの果てかもしれない。

 下では今も騎士達が水人形達との攻防を続けている。異変を察した魔術師達も援護に加わっているけれど、魔石の事を知らなければ対応は難しい筈だ。騎士達に囲まれたあの中には王子達が、マリアベルがいるのに。


「……〈風〉」

『何だ?』

「マリアベルの下へ行って」

『何だと?』


 男性的な〈風〉が美麗な顔を歪める。テラス内に入ってきた水人形は殲滅したが、廊下には次々と新たな者達が現れ、ぎこちない動きでこちらに向かっている。害をなす者達が現れているこんな危険な状況の中、どうして〈風〉が大切な友を置いて行けるだろう。


「傍にブルネイが居てもこれじゃ数が多過ぎる。下に居る騎士や魔術師達にも魔石の事を伝えて」


 〈風〉の二人がラズを見つめる。


「必ず私も向かう。でもそれまでの間マリィを守って欲しい」


 ラズが此処にいる意味。それはマリアベルなのだ。マリアベルを守る為に護衛として王城に来て、マリアベルが一人の女性として幸せになる姿を見守る為に滞在している。誰よりも大切な親友がもし居なくなるようなことがあれば、ラズは自分で自分を許せない。

 そんなラズの本気が伝わったのだろう。〈風〉は二人同時に互いへ目を移した。


『我が行こう。ラズを頼む』

『分かったわ。任せて』


 すぐに〈風〉の一人が消える。それを確認して、ラズはグライオと目を合わせた。


「グライオ」

『我は行かぬぞ』


 皆まで言わせず、グライオはエメラルドグリーンの瞳を見返す。ネイにラズの事を託されているのだ。大切な契約者の大切な娘。傍を離れる訳にはいかない。けれどグライオが了承しない事を見越していたのか、ラズは困ったような顔で笑った。


「でも、行きたいんでしょう?」

『…………』


 本音を言えば傍に行きたい。ネイも近衛騎士。王子達の護衛の為に、既に戦場と化しているあの場にいるのだ。行って守りたい。何者にも代えられない、自分が選んだ契約者を。


「私は大丈夫。〈風〉が傍に居てくれる。行って魔石の対処法を伝えて。守らなくちゃいけない存在が居る分、私よりネイの方が戦い辛い筈だよ」

『……すまぬ』


 一言呟き、グライオは駆け出した。その勢いでテラスに侵入してきた水人形達を何体か体当たりで沈めていく。敵が体制を整えようとしている間に、ラズは再び抜き身の剣を構えた。


「行くよ、〈風〉」

『えぇ。いつでもいいわ』


 突然伸びてきた水の腕を避け、低くした姿勢のまま水人形の懐へ飛び込む。ラズの剣が翻り、横に一閃。叫び声も上げない水の塊が、足元に落ちた。

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