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43.マリアベルとリジィターナ

 その日はなんて事のない良く晴れた休日だった。

 いつものように神殿の玄関前の掃き掃除を終えたリジィターナは自分の背丈よりも大きい箒を抱えた。

 赤ん坊の頃に〈風〉達に拾われ、セリオス神官長に預けられてから七年。街の子供達と共に学校に通い始めたばかりの頃だ。神殿前を掃除するのは神官達と共に暮らすリジィターナに与えられた朝食後の仕事で、休日で学校の無い今日はこの後ベンチの拭き掃除をすることになっている。


 声をかけられたのは箒を片付ける為に神殿の裏手へ移動しようとした時だった。


「おはよう、リジィターナ。セリオス様はいらっしゃるかな?」

「おはようございます。レイフォードさん。神官長なら今は奥の間にいますよ」

「そうかい。ありがとう」


 ニコニコと人の良さそうな顔で細い目をさらに細めたのはリジィターナも良く知っているこの島の住人だ。毎日のように足しげく神殿に通っているレイフォードとその奥さん。そして初めて見る顔がそこにはあった。


(……娘さん?)


 神殿への階段を登っているレイフォード夫妻の間に自分よりも小さな女の子が居る。白い肌に淡金の髪。一瞬見えたのはこの島でも美人と評判の奥さんに良く似たコバルトブルーの瞳。先頭を歩くレイフォード、その後ろを頼りない足取りでついていく女の子、そして後ろから彼女を見守っている婦人。


(へんなの)


 神殿に来る人々は親子連れも多い。彼女のように小さな子供も中には居て、大抵は親に抱っこされているか手を繋いで歩いている。それなのに縦一列になって歩いている彼らはまるで騎士ごっこでもしているかのようだ。幼い娘が階段で転びそうになっても抱き上げない様子からすると、そういう躾の方法なのかもしれない。


(ま、どうでもいいけど)


 さっさと次の掃除場所へ行こう。サボっていると思われたら困る。何せ小煩い眼鏡の神官が目を光らせているのだ。

 リジィターナは一般の礼拝客よりも随分早い時間に神殿を訪れた一家を横目にしながら、神殿の者達だけが使う石畳の通路を急いだ。



「リジィターナ」


 神殿内のベンチを拭いていたリジィターナにそう声を掛けてきたのは、ヘリケイオスという長身の、背中まで伸ばした髪を後ろで一つに結んだ眼鏡の神官だった。何を隠そう、彼こそがリジィターナが最も警戒している神官なのだ。


「な、なんですか。ちゃんと掃除はしてますよ」

「ほう。用件を言わない内からそんな言葉が出てくるとは、後ろめたいことがある証拠ですね」

「うっ……」


 今日は天気が良いから、神官達が礼拝客の対応に追われている間に〈風〉達に会いに行こうとしていたのはあくまで秘密だ。


「まったく。何を企んでいたのかは知りませんが、今はそんな話じゃありません。神官長がお呼びですよ」

「神官長が?」

「木蓮の間です。早く行きなさい」

「はーい!」


 ヘリケイオスから逃げられるとなれば喜んでどこでも行く。リジィターナが雑巾を持ったまま駆け出すと、後ろからヘリケイオスの声が追ってきた。


「神殿内は走らない!」

「はいっ!!」


 ピタッと足を止め、それから早足で歩き出す。ヘリケイオスの溜息と視線が背中に刺さり、一刻も早くとリジィターナは狭い廊下を曲がった。


 途中で雑巾は片付け、リジィターナが着いたのは木蓮の間と呼ばれる部屋。中庭に面しているのでそこに植えられた白い木蓮を眺めることの出来る、客人を迎える為に使われる部屋だ。使い古された、けれど綺麗に保たれている木製ドアをノックすると、神官長から許しの声が聞こえた。


「リジィターナです」

「入りなさい」


 ドアを開け、中を覗く前に頭を下げる。ヘリケイオスに散々叩き込まれた神殿での礼儀作法だ。


「こちらへおいで」


 ゆったりとして決して人を急かさない老齢のセリオスの声が耳に届く。リジィターナが返事をして中へ進むと、そこには見覚えのある子供の姿。まだ四・五歳の幼い少女。


「神官長、この子……」

「おや、知っているのかい?」

「さっき玄関口で見かけました。レイフォードさん家の子ですよね?」


 そう言って少女を見れば彼女はにっこりと笑った――様に見えた。


「? この子、具合悪いの?」

「どうしてそう思うんだい?」

「だって……、なんか変」


 なんの飾りも模様も無い、真っ白なワンピースを着た幼い少女。真っ直ぐな淡金の髪が窓から入る風でサラサラ揺れている。まるで背後に見える木蓮の花の精のようだ。絵に描かれた人物画みたい、とリジィターナは思った。彼女は笑っているのに、それはまるでお祭で売られている笑顔のお面を被っているような、そんな奇妙さがあったから。

 コバルトブルーの目は綺麗だけれど、暗い。


「レイフォードさん達は礼拝ですか?」

「あぁ。もう帰ったがね」

「帰った?」


 この子を置いて? もしかして誰かがレイフォード夫妻を呼びに行っているから、娘を迎えに戻ってくるまでの遊び相手にと呼ばれたのだろうか。

 だが、セリオスはそんな彼女の頭の中を否定するように首を横に振った。


「この子はね、神殿で暮らすことになったんだ」

「……捨てられたの?」


 両親に捨てられた自分のように?

 途端に強張ったリジィターナの表情。けれどセリオスはそれを否定した。


「いいや。この子はね、フェイルノーイ様の声が聞こえるんだ」


 女神の声を直接聞くことが出来るのは神殿の中でも神官長であるセリオスのみ。この少女が声を聞くことが出来るとなれば、神殿で修行を積み、いずれは巫女として働くことになるだろう。それは分かる。けれど――


「だからって、どうして今神殿で暮らすの?」


 彼女はまだこれ程までに幼いではないか。まだまだ親の愛情が必要な年齢だ。神殿に入るのは彼女が自分の意思で未来を選ぶことの出来る歳になってからでも遅くは無い。

 だが、セリオスは教義を説くような口調で続けた。


「幼い身でフェルノーイ様のお近くに居ることが出来るとなれば、この子は普通の子ではない。俗世で生き、俗物を見知るよりも、女神様のお傍で身も心も清廉なままで生きるべきだ」

「神官長の馬鹿!!」


 リジィターナは大声を張り上げて叫んだ。馬鹿なんて言った事がヘリケイオスにバレれば即お説教だろうが、そんなことは構いやしなかった。

 セリオスは、この神殿の人たちは分かってくれていると思っていた。親に捨てられ、自分がどれほど寂しい思いをしてきたか、どれだけ回りの子供たちが羨ましいか。理解してくれていると思っていたのに。


「子供はお父さんやお母さんの傍が良いに決まってるじゃない!! 女神様がそれを望んでいるって言うなら私もう神殿の掃除も洗濯も、お供え物並べるのだってやってあげないから!!」


 悔しい悔しい悔しい。どうしていつだって子供は大人の勝手に振り回されるんだろう。傍に居たいだけなのに、どうしてそれが許されないんだろう。

 唇を噛むリジィターナの目から大粒の涙が零れ出る。本当は泣きたくなんてないのだ。泣いたら負けな気がするから。

 すると、セリオスの皺の多い手がリジィターナの栗色の髪を撫でた。今日初めて会った幼い少女の為に泣く、同じく幼い少女を優しい灰色の目が見下ろしている。


「わしも、同じ事を言ったよ」

「え……?」

「だが、矮小な自分達には女神様の愛し子を育てる自信がないと、レイフォード夫妻はそう言って帰っていったのだ」


 先程セリオスが話して聞かせたのは全て夫妻の言葉だったのだ。

 レイフォード夫妻は敬虔な女神信者だった。だが敬虔過ぎた。自分達の娘が特別な子供だと知り、いち信者でしかない自分達では尊い女神様の愛する子を育てる力量は無いと判断してしまった。少女が自分達の娘である事よりも、女神の愛し子である事の方が彼らにとっては優先すべき事項だったのだ。


「馬鹿みたい……」


 フェルノーイという名の女神は確かに存在する。けれど愛と豊穣を司る女神が、自らの子を手放すような真似を喜ぶ筈がない。そんなこと信者でも神官でもないリジィターナにだって分かることだ。


「わしもそう思う」

「ならなんで預かったの?」

「あの夫婦は教義に盲目になっておる。そんな二人の傍に無理に帰しても、この子が傷つくだけだ」


 再び少女に目を向ける。今まで二人が話していた内容を理解していないのか、彼女は再び作られたような綺麗な笑みをリジィターナに向けた。


「リジィターナ。お前がこの子の傍に居ておやり」

「どうして? 私、この子を気の毒だと思うけど、好きになれるかは分かんないよ」


 この子の笑顔は気持ちが悪くて、どうしてもリジィターナは好きになれそうに無かった。そんな彼女の言葉を聞いたセリオスは叱るどころか笑みを深める。


「そう思うのはお前が賢い証拠だ。無理に好きになる必要は無い。特別扱いする必要も無い」


 トンッと優しく背中を押されて、ようやくリジィターナは少女の傍に行った。自分よりも背の低い彼女を見下ろすと、真ん丸いコバルトブルーの瞳と目が合った。


「私、リジィターナ。リジィでいいよ。あなたは?」

「……マリア…ベル」


 初めて聞いた少女の声は、まるで生まれて初めて声を出したかのようにか細くて掠れて聞き取りづらい。


「マリアベル? じゃあ、マリィだね。よろしく」


 リジィターナが手を差し出すと、マリアベルはその手をじっと見つめた。何をする為の手か分かっていないようだったので、彼女の右手を取って握りこんだ。


「握手だよ」


 小さな手は柔らかくて温かい。

 するとマリアベルの頬が緩んだ。口角が上がり、目が細められ、瞼の裏からぽとりぽとりと雫が落ちる。それはお面ではない、涙で濡れた可愛らしい笑顔。それを見たリジィターナは前言撤回すると神官長に伝えた。

 やっぱりこの少女を好きになれると思ったのだ。



 彼女が泣き疲れて眠ってしまった後、神官長から聞いたマリアベルの話は酷いものだった。

 レイフォード夫妻はマリアベルが女神の声を聞くと分かってから、一切彼女に触れることを止めた。自分達の穢れが付くとか、そんな理由だったらしい。食事も自分達とは別のものを食べさせ、近所の人達との接触も絶たせた。何もかもがマリアベルを女神の御心に添う少女にする為。それを知った女神は彼女を哀れんだ。

 自分に近い波動を持つ、幼い少女。偶々彼女を見つけた女神は彼女に声を掛けた。ただそれだけだ。けれどその一言が少女の人生を大きく変えてしまった。親によって近しい人々から離され、孤独を孤独とも分からず少女はただ親の言いつけを守り続けた。

 女神は幼い少女を慰めようと声を掛け続ける。けれどそれが悪循環へと繋がってしまったのだ。

 誰にも触れてもらえない生活は冷たく、寂しいものだったろう。握手をしただけでマリアベルが涙を流した理由を、ようやくリジィターナは理解した。いくら綺麗な笑顔の形を作った所で感情を伴わないからっぽの笑みなど好きになれる筈がないのだと。






「人の温もりを知らず、寂しさを寂しいとも思わず、マリアベルは育っていました。彼女が神殿に預けられてからも当然敬虔な信者である両親は神殿を訪れます。けれどもう、彼らはマリアベルの親ではなかった。彼女に会ってもこう声をかけるのです。マリアベル様、今日も良いお天気ですね、と。」


 ディンとダンの顔が潜められる。普段のマリアベルからは想像も出来ないような痛々しく、哀れな少女の話。けれどこれが彼女の真実なのだ。

 マリアベルの事を女神の愛し子と人は呼ぶ。それ故に一人の少女の心が傷つけられてきたとも知らずに。


「お父さん、お母さんともう呼べないのだと、彼女が理解するのは早かった。今思えば、神殿に来る前から両親にそう教えられていたのかもしれません。だから夫妻が神殿に来る日は礼拝所に顔を出さなくなりました。会えば親であることを止めた彼らに会わなくてはなりませんから」


 ディンが拳を握り締める。彼も悔しいのだろう。ずっと傍に居たのに、マリアベルの傷に気が付けなかった自分に。


「悲しみも喜びも知らず、両親に必要とされなかった自分には何の価値も無い。昔、彼女が良く言っていた言葉です。」


 成長すると共にその言葉は口にしなくなっていた。だが、それを言えば周囲が悲しむと分かり、言わなくなっただけだ。彼女の根底にはその思いが根強く残っている。


「マリアベルがここに来る事を、私が止めなかった理由が分かりますか?」


 フェルノーイの託宣は確かに一国を左右する重要なものだった。けれど行けば当然マリアベルは巫女として女神の愛し子として扱われる。神殿にいた時とは規模が違う、大勢の人達に。それを心配しなかった訳ではない。

 ラズはディンを見る。彼は首を横に振った。


「フェルノーイ様の託宣を覚えていますか?」

「『この地で子を成せ。さればトゥライアの呪いは解けるだろう』、だろ?」

「えぇ。そうです」


 マリアベルがトゥライアで子供を生めば、呪いと言われる出生率の偏りが解決される。それを国王に伝えれば当然賓客としてマリアベルはもてなされる。国を変える重要な役割とその力を持つ巫女として。女神の愛し子として既に有名だったマリアベルならば誰もそれを疑いはしない。そして託宣通り子を産めばこの国の未来も、彼女の未来も約束されたものになる。

 けれど、重要なのはそこ(・・)じゃない。


「私は何よりも親友であるマリアベルが大切です。気の毒だとは思うけれど正直この国の行く末に興味はなかった。ただ、彼女が夫を得て子を産む。それが重要だった」


 一つの国が救われるよりも大切なもの。

 何の言葉も見出せない二人の王子に向かって、ラズは微笑む。勝手な望みを抱いている自分自身への自嘲と、一人の少女の幸せを望む親友としての笑みをない交ぜにして。


「マリィに家族をあげたかった」


 それは自分達が憧れて止まなかったもの。無償の愛が与えられる優しくて温かい絆。

 シィシィーレで巫女を続けていれば、彼女は女神の愛し子として一生を終えただろう。けれど王城に来て、愛する男性との間に子供が生まれれば、マリアベルに本当の家族が出来る。そう思ったのだ。


「私では友になれても家族にはなれないから」


 ラズの目から一粒涙が零れる。グライオは黙ってソファの上に置かれたラズの手に頬を摺り寄せた。心配してくれている金色の瞳が自分を見上げている。それにようやく気が付いて、ラズは再び黒豹の頭を撫でた。

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