42.からっぽ
マリアベルの客室。中央に置かれた日当たりの良いソファに腰かけ、ラズは自分にもたれかかるマリアベルの背中をそっと撫でた。
その足元には対照的な白と黒の豹が静かに二人の傍にいる。白豹はマリアベルの膝の上に顎を載せ、黒豹は主の指示を待つ猟犬のようにラズの足元でじっと座っている。まるで二人を守るかのように。
実際二匹の豹は示し合わせたようにこの部屋に結界を張っていた。光と闇の上位精霊によって作られた結界。どれだけの騎士や魔術師達が束になった所でそう簡単には破られない代物だ。それ程この精霊達は二人に心を砕き、同時に怒りを感じていた。ブルネイはマリアベルの心を不躾に踏みつけた男に。グライオは大切な存在を傷つけられ、ラズが自分を責める原因となった男に。
午後になってサロンに移動したマリアベル。ブルネイは姿を隠してその傍にいた。彼女に遠慮のない質問を浴びせる隣国の王子に不快を感じつつ、それでもじっと身を潜めていた。自分がこの場で姿を現し、力を行使して黙らせるのは簡単だ。けれどここは精霊では分からないヒトの国交の場。自分の不用意な行動がマリアベルを苦しめるかもしれない。それをブルネイは弁えていた。だが、止まらぬ男の言葉が愛しい少女を貫いた。
――貴方は此処で、何をしていらっしゃるのですか?
丁寧で、抑揚のない声。けれどそれがマリアベルの柔らかい心の奥を刺し、傷つけた。ブルネイには言葉にならないマリアベルの悲鳴が確かに聞こえたのだ。
だから己の片割れと、その傍に居る筈の存在を呼んだ。無条件でマリアベルが信頼しているたった一人を。ブルネイの声に応えた片割れは求めた通りその人物――ラズを連れてきてくれた。
「マリィ」
剣とペンでタコが出来た手が優しくマリアベルの淡金の髪を撫でる。ラズの肩に額をつけて俯いていたマリアベルは、閉じたままの瞼からそっと涙の雫を零した。
「…リジィ、私……」
「何?」
「…やっぱりいらないのかも、しれない……」
「どうして?」
「だって、だって私は……」
震える喉から零れる嗚咽に言葉を奪われ、マリアベルはただただ頬を濡らす。ラズは黙って彼女をそっと抱きしめる。会話を聞いている筈の二匹の豹は、口を挟まずただ傍に居てくれた。
「意思が無いなんて、本当にそう思ってる?」
「……わか…ない」
「此処に導いたのは確かにフェルノーイ様だよ。でも、行くと決めたのは誰? 此処まで旅をして来たのは? 殿下達に何かしてあげたいと思ったのは? 皆マリィの意思でしょう?」
「…………」
「誰かの為に何かをすることが、どうして自分の意思がない事と同じだなんて思うの? 前に言ったよね? マリィはもっと堂々として良いんだって」
いくら待ってもマリアベルからの言葉は無い。分かっている。いくらここでラズが言葉を紡いだ所で、結局は慰めでしかないのだ。彼女自身が納得しなければ何も変わらない。
ラズが恐れているのはこの城からマリアベル諸共追い出されることではない。マリアベルが望むのならいつだってこの城を出ても良いと思っているくらいだ。本当に恐ろしいのはこの大切な幼馴染が戻ってしまうこと。ただただ孤独だけを抱えて、空虚に笑っていたあの頃に。
(お願いよ、マリィ。もうからっぽになんてならないで)
その為だったら私はなんだってする。奪うことも逃げることも、誰かを傷つける事だって厭わないから。
***
「フェイ、てめぇっ!!」
二人が去った後のサロン。怒りの表情で声を荒げて立ち上がったディンをマックが片手で制した。出入口に立つ騎士達が緊張を高める。もしもこの場で彼らが諍いを起こすようなことがあれば何があっても止めに入らなくてはならない。一方、長兄であるマックは鋭い目線で冷静に話し始める。
「……フェイロン。今回の訪問の目的は何だ」
マックが怒りの感情を見せないことが意外だったのだろう。フェイロンはまじまじと目の前の第一王子の様子を観察しながら口を開いた。
「両国の交友と、互いの繁栄の為に必要な情報の共有」
「それで、先程のやり取りで君は知りたい情報を得たわけか?」
フェイロンの眉がほんの少し潜められる。隣に座るティナトナも、トゥライアの弟王子達も黙って国を代表する二人の様子を窺っている。
「……何が言いたい」
「君の目的は彼女かと訊いている」
何のためらいも無くその言葉を口にしたマックに、フェイロンは口の端を吊り上げた。
「はっ。いや、流石に君は鋭いな、マック。将来この国を背負って立つ君たちの伴侶となるかもしれない女性だ。どんな人間か知りたいと思うのは当然だろ? 増してサディアは同盟国だ。大切な同盟相手の跡継ぎに、おかしな女が近付いたら困るからね」
「マリアベルを疑っていたわけか」
「半分ね。でも、どうやらそれも杞憂に終わった様だよ。あんなに簡単に顔色を変える彼女が、周囲を出し抜いて君らに近付き、悪さが出来るとは思えない」
今回の訪問が決まった際、フェイロンが父王から言い渡された任務がこれだった。最近フェルノーイ神殿の巫女がトゥライア王城に滞在している。その目的を確かめて来いと。その為に風の下位精霊を放って事前に巫女の様子を探りもした。そして当日訪問し、トゥライア国王から聞かされたのは『神殿との交友』。だが、何故急に?
推測出来る範囲で最も可能性が高いのは美しい巫女の妃候補としての献上。王族も王城の人間もそう簡単に口は割らない。ならばその真意を掴む為に、人を疑うことも偽ることも知らない巫女を揺さぶるのが一番だったのだ。
結果、巫女個人が王族に取り入ろうとしている可能性は消えた。ならば――
「それで、次は神殿か」
「全く、君は素晴らしいね」
こちらの思惑を見事言い当てたマックにフェイロンは素直に感心した。
恐らく彼女に対して感情的になっているディンでは辿りつけない答えだろう。現に本人を見れば呆気に取られた表情をしている。どんな時でも冷静な判断を下せなければ国交の場で自国を有利に立たせることなど出来はしない。巫女の前では唯の恋する男でしかないディンでは到底無理な話だ。それだけ、彼女に対して本気なのだという事は分かるが。
「彼女が独断で君らを誑かしているよりは、神殿が彼女を利用して王家に近づけた、というのが僕の推理だ」
「それで? 神殿は何を得る?」
「王家に取り入れば得られるものなどいくらでもあるだろう。寄進でも布施でも、政治的介入だって出来るかもしれない。それに、さっき彼女を迎えに来たラズって奴、神官じゃないんだろ? おかしいとは思わないのか? 神官ではない、けれど神殿と通じている男が彼女の傍に張り付いているなんて」
神官達は布教と祈りの日々。世間のことに疎い者も少なくは無い。けれどそうではない人間が神殿の関係者の中にいるとなれば、様々な入れ知恵をして神殿を動かそうとしている事も考えられる。
すると意外な所から声が上がった。
「ラズが……マリアベルを利用してるって言うのか?」
彼女のドレス姿を見て、あんなに嬉しそうに笑っていたラズが?
普段は見せないダンが怒りを顕にした姿。それを見たフェイロンは初めて驚きで目を見開いた。ダンは王子という立場にありながら社交場だろうとプライベートだろうと、どこか一歩引いた態度で他人と関わろうとしなかったのに。
「……驚いた。お前がそんな表情するなんてな」
「何の根拠があってそんな!!」
ディンとダン。二人の王子から怒りの視線を浴びせられてもフェイロンに焦りはない。それ所かシィシィーレの二人がこれ程までに王族の心を掴んでいたのかと分析していた。もしもフェイロンの推測通りだったとしたら、神殿から来たあの男はかなりのやり手だ。
「まぁまぁ、落ち着けよ。俺はあくまで同盟国として君らを心配いているだけだ。そこに根拠も証拠も有りはしないさ」
「結局の所、君が知りたいのは我が王家が彼女を迎い入れる気があるのかどうかだろう」
フェイロンとマック。二人の目は互いを探るように見つめている。どちらも目線は外さない。
そうだ。まずはそこだ。どれだけフェイロンが心配しようとも、本当に友好を深める為だけに巫女が此処にいるのだとしたらそれは全て水泡と化す。けれどそうでなければ、父王に報告する必要があるだろう。恐らくティナトナの恋心を知っている父も兄も、可愛い妹姫を想い人の所へ嫁がせる心積もりはあるだろうから。
「トゥライアは彼女を妃として迎える意思がある」
「…………」
「これで満足か? フェイロン」
「本気か? 女神の愛し子だと言っても、彼女は唯の一般人だぞ? 貴族連中が黙っちゃいないだろう」
そこで初めてマックの口元が弧を描いた。普段マリアベルには見せる事のない、不敵な笑みを。
「ならば黙らせれば良いだけだ。邪魔はさせない」
その一言で思い知らされる。マックは、トゥライア王家は本気なのだと。フェイロンは静かに両手を上げた。
「まいったな。完敗だよ」
何と言って隣で俯いている可愛い妹を慰めようか。そんな考えがフェイロンの頭を掠めた。
***
バタバタと廊下を走る足音が近付いてくる。その音にラズはグライオを撫でていた手を止めた。
誰が来たのかは大体予想がついている。それが自分よりも遥かに身分が高い人物だという事も。だから入室の許可を得る声がかかる前に、ラズは座っていたソファから腰を上げ、立ち上がって客人を出迎えた。
「入るぞ」
「どうぞ」
両開きのドアが前に立っていた騎士によって開かれる。現れたのは二人。この国の第二王子と第三王子。てっきりマックとディンの二人がくると思っていただけに、ダンの来訪は意外だった。ラズがそう思ったのは、今自分が居るこの部屋は自室ではなくマリアベルの客室だからだ。
「マリアベルは?」
「寝室で休んでます」
「そうか……」
乱れた呼吸を整えながら、寝室のドアの前まで行くディン。ドアノブに手を掛けようとして、けれど直前で動きを止めた。ぐっとその手を拳にして握りこみ、今すぐ抱きしめに行きたいのを我慢する。だがそれで正解だ。どちらにしてもマリアベルの傍には光の精霊ブルネイがいる。恐らく無理に押し入ろうとしても出来ない筈だ。
そんなディンの様子を見ながらソファまで来ると、ダンは言い辛そうに口を開いた。
「ごめん」
「……何がですか?」
「いや……」
それきり、ダンは黙ってしまった。ドアの前から離れたディンがラズの顔を見る。
「……教えてくれないか?」
「私が話せることなら、どんなことでもお答えしましょう」
「マリアベルのことだ。何故、フェイロンの言葉にあれ程動揺した? アイツの言い方が失礼なものだった事は分かってる。でもそれだけであんなに……」
その時の様子を思い出したのか、ディンは悔しげに顔を歪める。
「あんなに……、傷つくとは思えない」
「……どうぞ、座ってください」
向かいのソファに二人の王子が座ったことを確認し、ラズも腰を下ろした。その足元には闇の精霊グライオ。静かに黒豹は金色の目を王子達に向けている。
「もしも目の前の兎を殺せば自分の命は助かると言われたらどうします?」
ラズの口から発せられた何の関係もない質問に、一瞬ディンとダンは視線を交わした。けれど、余計な口は挟まずにディンが答える。
「俺は兎を屠るだろうな」
「私も同じ事をするでしょう。でも、マリアベルはそうではありません」
「…………」
「彼女は、迷わず自分が死ぬ事を選ぶでしょう」
それは自然を愛するフェルノーイの巫女だから? それとも彼女がどんな小さなものの命でも尊い慈しむ、そんな性格だから?
だが、二人の王子の頭の中の疑問を否定するように、ラズは首を横に振った。
「それは彼女の優しさ故ではありません。マリアベルは兎の命の方が尊いものだと思っているからです」
意味を飲み込めないでいる王子達に向かってラズは悲しげな笑みを浮かべる。
「彼女にとって、自分という存在が世界で最も価値の無いものなんですよ」
それは謙遜ではなく自虐に近い思想。普段のマリアベルから想像もつかないような痛々しくて暗い心の内。
だから簡単に自分をいらないものだと判断する。自身に価値があるのかと問われれば無いと答える。自分で自分の存在を肯定出来ないマリアベルは誰かに意思や存在を否定されればそれを受け入れてしまう。先刻のフェイロンのように。
「どうしてそんな……」
思わずダンが漏らした言葉に、ラズは目を伏せた。瞼の裏に浮かぶのは小さくて美しい、幼い少女。
「昔、俺が初めて会った時の彼女の中はからっぽでした」
それは忘れたくても忘れられない、彼女と自分の最初の記憶。
「良かったのか? お前は行かなくて」
城下街への視察は出発時間を一時間遅らせることになった。
マックはディンにマリアベルの部屋に行くように言い渡し、ダンは自分の意思でそれについて行った。ティナトナとヘリオは一時的に自室へと戻っている。サロンに残ったのはマックとフェイロンの二人だけだ。
フェイロンはてっきりマックも巫女の部屋に行くと思っていた。だからディンだけにその役割を任せたのは意外だった。
「それが妥当だろう」
「どういう意味だ?」
「さっきお前が言った事は正しい。どれだけ女神の愛し子として貴重な存在でもマリアベルはあくまで身分の無い平民。政治的な思惑が絡む場には不向きだ」
「王座を継ぐお前よりも、ディンの方が彼女を娶るのにふさわしいって?」
「……彼女は優しすぎる。口がさない連中の中に放り込めば、忽ち傷つき自分の無力を責めるだろう」
「だろうな」
貴族の連中だろうと他国の外交の場だろうと、衆目に晒され、ある事ない事好き勝手に言われる世界だ。夜会では一見堂々としていたが、先程のフェイロンの言葉程度で動揺するようでは政治の場では不利になる。
マリアベルを迎い入れるにあたり、解呪の事を知っている者達なら当然反対はすまい。国王が認めた相手でもあるのだから。しかし反対に事情を知らない多くの者達は彼女を無遠慮に品定めする。相手が自分ではなくディンならば、それも少しはマシな筈だ。
「だからオニーチャンは弟に好きな女を譲ってやるって訳?」
怒らせるのを覚悟でそう言ってみるが、マックは苦笑するだけだ。
「俺は第一王子としての立場を優先する。その上で彼女を自分のものにするのは利がないと判断しただけだ」
政治的な判断で恋愛感情を御する。それは為政者としては正しい姿なのだろう。けれど――
(今自分がどんな顔をしているか、分かってないんだろうな)
恋焦がれ、自分の無力さに打ちひしがれた男の表情は、これ以上フェイロンに軽口を叩く事を許さない。
今頃自国で嫁を追い回して怒られているだろう自分の兄とは大違いだ。
誰も彼もが幸せになんてなれない現実。それは王子だろうと一般人だろうと同じ事。恋愛なんて実に厄介なものだ。




