40.仮面の王子様
「私とも一曲踊っていただけますか? 巫女殿」
差し出された手の先にあるのは星の輝く夜空と評される紺色の髪と飴色の瞳。この夜会の主役の一人、サディア国フェイロン王子にマリアベルは誰もが魅了されるであろう聖母のような微笑を向けた。
「わたくしで宜しければ喜んで」
ここは様々な思惑を持った人間が集う社交の場。美しい巫女の笑みにほんの一瞬思考を奪われたフェイロンだったが、そうとは気づかれない様すぐに仮面をつける。友好的な同盟国の王子としての仮面を。
一方で、もう一人の主役ティナトナ姫に誘いの手を出したのはこの会のホストであるトゥライア国第二王子ディストラードだった。同盟国同士の姫と王子がダンスを踊る。ゲスト達から見れば実に絵になる光景だが、その為には決定的に足りないものがあった。それは笑顔、である。
「一曲オ相手願エマスデショウカ?」
「……えぇ、喜んで」
明らかに棒読みの誘いの言葉にティナトナは頬を引きつらせる。相手がホストとしての義務で嫌々ダンスを申し込んでいることが分かっていても此処は公の場。流石に言い合いする訳にはいかない。仕方なく黙って優雅な仕草で差し出されたディンの手に自分の手を重ねる。そして二人はダンスエリアへと踏み出した。
(あの野郎、何話してやがる……)
笑顔を交わしながら踊るマリアベルとフェイロン。ゆっくりとしたバラードだからダンスに慣れていないマリアベルでも踊りやすいのだろう。相手と話をする余裕があるようだ。それはいいのだが、問題は自分以外の男とあんなに接近して楽しそうにしていることである。ダンスなのだから手を握られるのも腰に手を添えられるのも当たり前。分かっている。分かってはいるのだが。
(……むかつく)
しかも相手は女慣れした“仮面の王子様”。純粋無垢で人を疑うことを知らないマリアベルならあっと言う間に騙され、いいようにされてしまうかもしれない。そつなくダンスをこなしながら、この曲が終わったらさっさとマリアベルを奪還しようと心に誓う。
「余所見とは随分余裕ですわね」
その時、自分のダンス相手ティナトナから機嫌の悪そうな声が漏れた。
「あ?」
「他の女性ばかり見るなんて、ダンスの相手に失礼じゃございません?」
「何言ってんだ。お前なんか見ても楽しくともなんともな……ってぇ!!」
思わずディンの口から大きな声が出る。一瞬の隙を突いてティナトナが足を踏んだのだ。しかも思いっきりヒールの部分で。
「てめっ、何しやがる!」
「あら、ごめんあそばせ。けれど紳士ならレディの失敗くらい広い心で許してくださるものでは?」
「何が失敗だ。ぜってぇワザとだろうが」
「あら、なんのことでしょう?」
端から見れば会話を楽しみながらダンスに興じている男女。結局いつも通り二人は口喧嘩する羽目になり、けれどそれを周囲に気づかれ騒がれないよう、器用に振舞っている。
(やれやれだな)
喧嘩中の二人を見慣れているフェイロンは当然それに気づく。いつまでだっても子供のような二人を呆れた目で見ていた。そして視線を戻せば、彼らを見ているのは自分だけではなかった。ダンス相手であるマリアベルも同様だったのだ。
「……二人が気になりますか?」
「え? えぇ。なんだか、……喧嘩してませんか?」
「あぁ、気づきましたか」
どうやら巫女は感情の機微に敏いらしい。周囲の招待客達が全く気づいていない中で、あの二人の様子を正確に見て取れるとは。
「全く、素直じゃないですよねぇ」
「え?」
「ティナですよ。ああやってディンに突っかかるのは素直になれない愛情の裏返しです」
その一言で巫女の表情が変わる。だが、それには気づかないフリをして、フェイロンは言葉を続けた。
「ティナはね、ずっと昔からディンのことが好きなんです」
とうとう巫女の顔から笑顔が消えた。単純な驚き故か、それとも……
「両国は同盟国です。当然二人が結ばれることは諸手を挙げて歓迎されるでしょう。そろそろそう言う話が出てもおかしくない年頃ですし。その際は是非、フェルノーイ神の祝福を二人にいただきたいものですね」
ゆったりとしたメロディーが終わりに近付く。この距離で巫女の表情を観察できるのもあと少し。
「けれど今日此処を訪れて驚きました。ディンは随分と、……あなたに夢中のようだから」
巫女の白い手がほんの少し震える。当然直接触れているフェイロンにはそれが伝わってしまう。フェイロンは無意識の内に口の端を吊り上げた。海を思わせるコバルトブルーの瞳が自分を見上げる。そこに湛えられた感情は、一言で言えば不安。
「巫女殿には両国の繁栄を願っていただきたいものですね」
そこで曲が終わった。フェイロンはマック達の下へ彼女をエスコートし、そして手を離す。
「それでは。素敵な時間をありがとうございました」
胸に手を当て紳士的に微笑み踵を返す。
「あっ……」
巫女が漏らした小さな声は耳に届いていたが、フェイロンはあえてそれに気づかぬ振りをした。彼女の真っ青な顔色を見れば、答えは知れたようなものだった。
ピィと小さな鳴き声が聞こえたのは自室の窓から。元々両開きの窓を片方開けていたので、黒い小鳥は簡単に部屋の中へと入ってくる。パタパタと小さな羽根を動かし、やがて部屋の主が差し出した手に留まった。
「調子はどうだい?」
戸惑いも無く話しかける男に対し、小鳥は一瞬黄色の目を瞬かせる。するとその小さな体から発せされた魔力が空気を振動し、男に向かって何事かを伝えた。
「へぇ、順調なんだ。そりゃあ良かった」
開けっ放しの窓から入ってきた緩やかな夜風が男の髪を揺らす。月明かりに照らされているのは輝く金髪。それが男の整った容姿を更に引き立てている
「ま、せいぜい頑張ってよ。約束さえ守ってくれれば、俺はそれで構わないんだから」
すると小鳥は再び羽ばたき、窓の外へと消えていった。部屋に残された男は可笑しそうにくつくつと笑う。まるで悪戯を思いついた子供のような無邪気な笑みで。
「落ちてくるのは果たしてどちらか。楽しみだねぇ」
待ちきれない。そう男の目が語っていた。
***
翌日、ネイとの約束通り騎士の宿舎へ来たラズは、自分よりも歳若い騎士に――おもいっきり土下座されていた。
「すいませんすいません!!」
「あ、いや……」
「どうかクビだけはご勘弁を――――!!!」
「…………」
まだ十五・六歳といった所だろう。土下座している彼の前には食器の載ったトレイ。そしてそこから落ちたスープ皿が一枚床に転がっている。その中身は空だ。今日の朝食メニューである野菜とベーコンのコンソメスープがどこに行ってしまったのかと言えば――見事頭からラズが被っていた。
(あ~、もったいないなぁ……)
食堂に向かっていた時に丁度トレイを持って出てきた彼が躓き、スープ皿がラズに向かって飛んできたという訳だ。
気にしないで、と声を掛けようとしてもテンパっている新人騎士の耳には入らないらしい。ただの客人でしかないラズに騎士一人をクビにする権限などないのだが、陛下の客人として城に滞在している以上、詳細を知らない城の者達にはそう気軽に接することが出来る相手ではないのだろう。ラズ自身に力が無くとも、陛下に一言「無礼者がいた」と言えば、地位の無い若い騎士の人事を動かすぐらいは簡単なのだから。
どうしたものか、と突っ立っているしかないラズの栗色の髪からはスープがポタポタと滴っている。それに気づいた新人騎士はガバッと青くなった顔を上げた。
「どどどどうしよう!! はっ! このままじゃ風邪を引きますから風呂に入ってください!! こっちです!」
「え……、風呂?」
「客室のお風呂に比べたらそりゃ見劣りしますけど、このまま帰すわけには行きませんから。ほら早く!!」
「え、ええええ!!!」
強引に手を引かれ、あれよあれよと言う間に押し込まれたのは浴場の脱衣所。「俺は廊下片付けてきますから!」と言って先程の新人騎士はあっと言う間にいなくなってしまった。残されたのはラズ一人。
(は、入れるか~~~~!!!!!)
今度顔を青くするのはラズの番だ。風呂と言っても客室のように一部屋に一つ備え付けられているものではない。ここは大浴場。今は朝だが夜勤を終えた騎士達の多くが現在進行形で利用している。流石にスープを被ったままで城に帰るわけにもいかないが、かと言って裸になれる筈もない。
ちらほらと着替え途中の騎士達の視線を受けて、ラズは慌てて踵を返そうとした。
「あれ? ラズ殿?」
「……あ、どうも」
聞き覚えのある声に振り向けば、髪をタオルで拭きながらこちらを見ているのはオリバだった。丁度風呂上りだったようで髪も鍛えられた体も濡れている。腰にバスタオルを巻いているのが救いだ。
「こんな所でどうしました? ……というか、髪も服も濡れていますが、何かありました?」
「おはようございます!」
若い騎士達が食堂を歩く自分に向かって挨拶をしてくる。それに軽く答えながら、ネイは先程まで居た食堂から一旦出た。
朝食を共に食べようと約束したのは昨夜のこと。食堂でラズが来るのを待っていたら先に現れたのは闇の精霊グライオ。彼からすぐにラズもこちらに着くと伝言を受けたのだが、中々姿を見せないラズに二人は首を傾げて様子を見に来たのだ。
食堂目の前の廊下では何故か一人の騎士が廊下をモップで拭いていた。頬と鼻にそばかすが散っている、まだ若い新人だ。
「あ、おはようございます! ネイザンさん」
彼はネイの姿を見つけると、笑顔で頭を下げた。
「おはよう。ラズを見なかったか?」
「あぁ。ラズ殿なら今お風呂に」
「…………。風呂?」
「はい。宿舎の大浴場にご案内しました」
「!!?」
一瞬で険しい顔つきになり、ネイは急いで大浴場へと向かう。何がどうして風呂なんかに案内される羽目になったのかは知らないが、そんなこと今はどうでもいい。夕方以降よりも少ないとはいえ、今は夜勤明けの騎士達の多くが大浴場を利用している筈だ。まさかそこで服を脱がされたら? あの体を見られてしまったら?頭に浮かぶのは最悪のシナリオばかり。
ラズのことだけに気を取られていたネイは、自分が走り去った廊下で何者かに押されて再びすっころび、モップがけをした後の汚いバケツの水を頭からひっかぶる羽目になった新人騎士のことなど気づきもしなかった。
「ラズ!!?」
「あ、ネイ。」
大浴場にネイが飛び込んだ時、ラズは脱衣場の隅に備え付けられたベンチの一つに座っていた。濡れた髪をタオルで拭き、さっぱりした表情をしている所を見ると、どうやら風呂に入った後らしい。
(まさか……)
大浴場に入ったのか? 一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐにそれを否定する。もしも男だらけの大浴場に入ったりしたら今頃大騒ぎになっているだろう。そんなことをする筈がない。慌てて傍に行けば、ラズの隣にはラフな格好に着替えた先輩騎士オリバが居た。
「やぁ、ネイザン」
「……おはようございます」
「おはよう。ラズ殿のお迎えかい?」
「えぇ……」
ちらりとラズを見下ろせば、気まずそうな顔でへらりを笑みを返される。何がどうなっているんだかさっぱりだ。
「ごめん。髪が汚れちゃってさ。さっき此処で洗面台借りて頭だけ洗わせて貰ったんだ」
「……そうか」
風呂に入ったのではなく、脱衣場に備え付けられた洗面台で髪だけ洗ったから濡れていたのか。
ほっとして周囲を見る余裕が出てくると、半裸同然の同僚達が好奇の目線をこちらに送っているのに気づく。陛下の客人であるラズが此処にいる事も、ネイが慌てて大浴場に飛び込んできた事も興味を引くのには十分だろう。濡れた髪の隙間から覗くラズの首筋に思わず目線が吸い込まれていく。だが、同様に他の騎士達もこの姿を見ているのかと思うと途端に胃の辺りが重くなった。
「……肩の辺りも濡れてるな」
「あぁ〜。ホントだ」
「着替えを貸す。部屋に行くぞ」
「あ、うん」
オリバに頭を下げ、共に脱衣所を出る。そんな二人を見送って、オリバは思わずくすりと小さな笑みを漏した。
「ネイザンでも、あんな顔するんだねぇ」
いつも感情が見えない後輩の焦った表情は新鮮で、不謹慎だと分かっていてもつい頬が緩んでしまうのだった。
新人騎士に天誅を下したのは勿論グライオです(笑)




