39.舞台の裏側で
ホールに流れる曲が変わり、それぞれに歓談や食事を楽しんでいた人々のざわめきがしばし収まる。まず中央スペースに歩を進めたのはサディア国のティナトナ姫とマクシミリアン王子。そしてフェイロン王子、ディストラード王子と、王族達が先に貴族の女性を伴ってダンスを披露した。最初の一曲が終われば次々と他の招待客も加わり、ホールがいっそう華やかになる。
マリアベルが中央に進み出たのは三曲目からだ。挨拶代わりの令嬢とのダンスを終え、真っ先に彼女の手を取ったのはやはりディンだった。誰の目から見ても明らかな程嬉しそうに様相を崩し、彼女の腰に手を添えるとゆっくり体を揺らし始める。いつもの彼とは違い紳士的で優しい仕草はこういった場に慣れていることを示しているが、それでもパートナーを見つめる熱い眼差しはマリアベルにしか注がれないものだ。正に絵になる二人のダンスを遠目に見ながら、ラズは満足げに微笑んだ。
『嬉しそうだな』
「うん。満足。綺麗なマリアベルが見れたからね」
ラズがいるのはホールのガラスドアから続くバルコニー。ホールは一階にある為、ここから夜に見ても見事な美しさを誇る庭へと降りることが出来る。当然この舞踏会の招待客ではないラズは中に入ることが出来ないので、こうして闇の精霊グライオを伴ってガラス越しに舞踏会の様子を眺めていた。そもそも各所に騎士が立っている為おいそれと近付くことは出来ないのだが、そこは第三王子ダリオンが口添えしてくれたのだ。せっかくだから本番用のドレスを着たマリアベルが見たいだろう。俺が警備に話を通してやるよ、と。
しばらくそうして中を眺めていると、ホール側からガラスドアが開いた。けれど慌てて逃げることはしない。バルコニーに出てきたのは礼服に身を包んだダンだったからだ。
「よう」
「こんばんは。今宵はお招きいただきありがとうございます」
「苦しゅうない。表を上げよ、ってか?」
ラズがおどけて腰を折れば、屈託のない笑顔でダンが笑う。
「ダンスが上手いんだね。意外だった」
「あんなもん、義務で練習させられてるだけだ。お前もここに居るならマリアベルと踊ってやればいいのに。衣装なら貸してやるぞ」
「冗談止めてよ。生まれてこの方ダンスなんてやった事ないんだから」
「そうなのか?」
「一般人には縁のないものだからね。踊ったのなんて子供の頃のお祭ぐらいじゃないか?」
「へぇ、どんなのだ」
「豊穣祭で子供が輪になってぐるぐる踊るやつ」
「それは楽しそうだな」
お酒が入っているのだろうか。それとも舞踏会の華やかな雰囲気のせいだろうか。今日はやけにダンの機嫌がいい。
「ダンはマリアベルと踊らないの?」
「止めとく。兄上達に睨まれたくない。ティナトナとは一回踊ったし、今日はもう十分だろ」
「もうって……、まさかもう帰るつもり?」
「あと一時間もすれば抜けても問題ないさ。それまではここで時間つぶし」
「……もしかして、時間つぶしに付き合わせる為に俺をここに?」
じとっと胡乱な目で見るが、当のダンはどこ吹く風だ。
「あ、なんか食いたいもんあれば持ってきてやるよ。酒もいるよな。いいシャンパン出てたぞ」
「ちょっとダン……」
そう言い残し、さっさと中に入ってしまった。やはりラズの予想は当たっていたらしい。人間不信気味だった彼からすれば、こういった場が苦手なのだろうが。まさかマリアベルを見たいだろうと誘いをかけたのも、此処へ誘導する為だったのか。
「はぁ、全く……」
溜息を吐いてホールを見れば、入れ替わりに現れた者がいた。閉まったままのドアをすり抜けてバルコニーに出てきたのは白い豹。今ラズの隣にいるグライオの片割れ、光の精霊ブルネイだ。彼が姿を隠してマリアベルの傍にずっと着いていたことは分かっていたが、離れて此処へ来るとは予想外だった。グライオに会いに来たのだろうか。
「こんばんは」
『……。臭くない』
「はい?」
挨拶の返事もせずに訳の分からない事を言うと、ブルネイはラズには目もくれず黒豹の下へ行く。そして彼らは頬と頬を軽くすり合わせた。彼らなりの挨拶なのかもしれない。ブルネイの態度は決して良いとは言えないが、この仕草だけ見れば実に微笑ましい光景だ。
ブルネイはグライオの隣に座り込んだ。グライオは月のような金色の目でラズを見上げる。
『どうやら香水の匂いに参ってしまったらしい。おまけに今は巫女に構ってもらえぬからな』
「あぁ、なるほど」
臭くない、とはそう言う意味か。マリアベルもラズも神殿で長年暮らしてきたので香水をつける習慣がない。けれど貴族達が着飾るこの場では誰もが香水をつけているものなのだろう。動物は鼻が良い、という特徴が果たして精霊にも当てはまるのかは分からないが、ブルネイは強い香りが苦手なようだ。
おまけにホールを見れば今マリアベルはヘリオと踊っている真っ最中。しばらくは王子達とダンスに興じるとなればブルネイの出番はない。
「ねぇ、ブルネイ」
『……なんだ』
「君から見てマリアベルはどう? 最近楽しそう?」
ヘリオと踊っている彼女から目を離さないままラズが呟く。仕事をしている自分よりも四六時中マリアベルと共に居るブルネイの方がここでの彼女の事をよく知っているだろう。そう思って問いかけたのだが、欲した通りの答えは返ってこなかった。
『会いに行けばいいだろう』
「え?」
『そんな顔をするくらいならばな』
「……どんな顔してる?」
だが、じっとホールに目を向けているブルネイは答えてくれない。代わりにグライオが顔を上げる。人と違って表情の変化は分かりにくいが、黒豹はどことなく苦笑しているように見えた。
『置いていかれた子供のような顔をしている』
「……そっか」
そんなつもりはないのだけれど。自分の願いはマリアベルが此処で幸せになることだから。それでも幼い頃から一緒に育った彼女が離れていくのはやはり寂しくて、無意識の内に表情に出てしまったのだろうか。
『我らは傍にいるぞ』
「……ありがとう」
〈風〉達もそしてグライオも、確かに自分が呼べばすぐに傍に来てくれるだろう。けれどいつまでもそれではダメなのだ。いつまでも誰かの存在に縋るようでは。
一方、自分の言葉に礼を言ったラズの頭の中をグライオは正確に読んでいた。恐らく彼女は“我ら”の内訳を間違えているだろう、と。グライオが言った“我ら”とは自分とそして己の契約者ネイザンのことなのだが。
(やれやれ、世話の焼ける……)
こう言う時、咄嗟に彼女の頭に思い浮かぶくらいの存在感がネイにはまだ無いという事だ。ネイ自身が彼女を得たいと思っていることは当然知っている。けれど同時にそれは叶わないと諦めていることもまた契約者である闇の精霊には分かっていた。それでもこのまま二人を放って置くことは出来ない。ラズがマリアベルの幸せを望んでいるように、自分はネイの幸せを願ってやまないのだから。
『ラズ』
「ん?」
『しばし離れる。ブルネイと共にいてくれ』
「? うん、分かった」
音も無くすっと庭へ消えていく黒豹。まるで夜の闇に解けてしまったかのようだ。そのままバルコニーの手すりに寄りかかって月光に照らされている庭を眺める。すると隣のバルコニーから庭に下りる人影が見えた。
(やばっ!)
明らかに普段着の、招待客ではない人間が此処にいる所を知られるのは不味い。下手をしたら不審者扱いで捕まってしまう。慌ててしゃがみこんだラズは横で臥せっていたブルネイの傍に寄り、小声で話しかけた。
「ブルネイ…人が……」
『……。仕方の無い』
呆れたような溜息を吐き、音も無くブルネイは姿を消す。共にラズの姿も消えた。物が目に見えるのは全て光の反射によるもの。光の反射と屈折を利用し、ブルネイがラズの姿も端から見えぬようにしてくれたのだ。
(た、助かった……)
そっと庭を窺えば、そこに立っていたのは男性一人。てっきり女性と二人で抜け出してきたのだと思っていただけに意外だった。息抜きに庭でも眺めに来たのだろうか。
彼はしばらく庭を歩いていたが、噴水の前で足を止めた。
(……小鳥?)
小さな小鳥が一羽、彼の手のひらの上に降りてくる。そしてしばらくすると再び鳥は夜空へと舞い上がった。手のひらにエサでも載せていたのだろうか。
(……いや、そもそも鳥なのがおかしい)
夜盲のことを鳥目と称されるくらい鳥類は夜目が利かない。蝙蝠や梟ならともかく、彼の手に留まった鳥は明らかに夜行性の鳥の姿ではなかった。ならばあれは、
(精霊……?)
男は再び隣のバルコニーからホールへと戻っていく。距離があって顔は見えないが、暗い色の髪の背の高い中年男性。
(気にしすぎかな……)
『何をしているのだ?』
その声に顔を上げれば、グライオが戻って来ていた。姿を消していても此処にブルネイとラズがいる事が彼には分かるらしい。パッと二人がその場に姿を現すと、驚いたのはグライオの後ろに居る男性だった。
「あれ、ネイ? どうしたの?」
「……それはこっちの台詞だ」
急に姿が現れたと思ったらバルコニーに座り込んでいるのだからネイの疑問は当然に思えた。とりあえずハハハッと笑ってラズは立ち上がる。
「いや、ちょっと見つかりそうになったから隠れてた」
「ダリオン殿下は?」
「そういや、料理とってくるとか言って中々戻って来ないな」
この場が苦手といっても一国の王子。貴族やサディアの殿下達に捕まっているのかもしれない。嫌だろうかなんだろうが、彼らの相手をするのがホストであるこの国の王子達の仕事だ。
「ネイは? グライオに捕まったの?」
「元々ホールの出入口に待機してたんだ。ダリオン殿下を送る為に」
「送るって……、まだ終わりの時間まで随分あるのに?」
「あと小一時間で抜け出すと仰っていたからな」
「何それ。最初からそのつもりだったの?」
「そのようだ」
呆れた、というラズの呟きが聞こえたが、ネイはそれ以上何も言わなかった。ダンの計画ではそのままラズの部屋に逃げ込む予定になっている。けれど今の様子から察するに当の本人はまだそれを知らないらしい。
「ネイ……」
「なんだ?」
「ネイは、明日もダリオン殿下の所?」
「いや。フェイロン殿下達の視察について行く」
「そっか。……忙しいねぇ」
不意に胸を過ぎる感情。この気持ちをなんて言い表せばいいのだろう。ラズは戸惑っていた。やっぱり寂しいのだろうか。こうして彼が近衛として仕事をするのを以前は望んでいたくせに。
「ラズ」
「ん?」
「……暇が出来たら部屋に行ってもいいか?」
「暇なんて、あるの?」
「いや、多分メシ時ぐらい」
「うん。じゃあ、騎士の宿舎に顔出すよ。一緒に食べよう」
「あぁ」
ネイの口元が僅かに緩む。あぁ、なんだ。ラズが心配していたよりもネイとの距離は以前と左程変わっていないのかもしれない。
ほっと息を吐いた所で正面のガラスドアが開いて、ダンが戻ってきた。けれど料理と酒を取りに行くと言っていたのに、その手には何も持っていない。
「なんだ、ネイザンも居たのか。丁度いい」
「なんです?」
「一通り挨拶が済んだし俺は抜ける」
「承知しました」
ネイが胸に手を当て軽く頭を下げる。その前を横切り、ダンはバルコニーから庭園へと降りた。ホールの正面出入り口からではなく、ここから外を回って部屋に戻るつもりなのだろう。それを見送っていると、ネイを伴ったダンが一度振り向いた。
「あ、ラズはどうする? まだ見ていくか?」
「あぁ、そうですね……」
目線をホールに戻す。そこには笑顔のマリアベルが居る。もう十分だろう。彼女が此処で笑っていられると分かったのだから。
「俺もお暇しますよ」
「ならさっさと行くぞ。招待客に見つかると都合が悪い」
見つかって声でも掛けられたら面倒なことになる。そう言わんばかりにダンは早足で歩を進める。しかし一旦城内に入り、彼が進む方向に気づいてラズはダンを呼んだ。
「殿下」
「なんだ」
「どこに向かっているのです? こちらは殿下の私室と方向が違いますが」
するとダンは正面を向いたまま、足を止めずに口を開く。
「お前の部屋だ」
「……は?」
「だからお前の部屋だって」
「え……、ちょっ、ちょっと聞いてませんよ、そんなの」
「今言っただろ」
「……。それも最初から計画済みですか」
後ろからラズが睨みを効かせた所でダンは軽く肩をすくめるだけだ。
「俺の部屋に戻ったら侍従に見つかるだろう。頭を使ったと言ってくれ」
「ハァ……、もう分かりましたよ」
ラズが諦めと共に息を吐く。その結果にダンは満足げに笑った。
夜会解散予定まで後三時間。ホールからワインボトルの一本でもくすねてくるんだった、と後悔するラズなのだった。




