38.夜会
(あ、ネイだ)
散歩からの帰り道。自室へ戻ろうと使用人が使う裏口から廊下へと歩いていたら、移動する殿下達の後ろについているネイの姿が見えた。前を歩いているのはダン。その後ろに騎士が三人。どうやら彼は今ダリオン殿下の護衛についているらしい。
(……本当なら、あれが正しい姿だよな)
ネイはただの騎士ではない。選び抜かれた実力者。王族の傍を守るよう期待されている近衛の一人。本来は自分のような身分の無い客人ではなく、陛下や殿下達の傍に仕えるのが普通。近衛に選ばれるのは騎士達にとって大変名誉な事なのだ。
「…………」
以前、戯れに口にした言葉がある。
――俺の横で本を片付けてるなんて宝の持ち腐れだろ。
あの時は本気でそう思っていた。自分に護衛なんて必要ないと思っていたし、護衛がついたとしてもわざわざ近衛の優秀な人材を遊ばせておく必要は無いと。でも、今はどうだろう。同じ言葉をネイの前で口に出来るだろうか。
(……多分、無理)
自分達は仕事上の関係しかない。もしも上官が自分の護衛を他の騎士に任せると決めたらそれに従うしかないけれど、そうなったらこの何百人もの人間が働く王城の中で会う機会など殆ど無くなるに違いない。
(せっかく仲良くなったのに、それは嫌だなぁ)
ネイは友人じゃない。だから仕事上の繋がりがなくなっても連絡を取り合うような仲ではない。それが寂しいなんて子供の様な我侭だ。仕事は仕事。公私の区別はつけなくては。
思わず足を止め、考えにふけっていたラズを下からグライオが覗き込む。
『ラズ。どうした?』
「……ううん。なんでもない」
どうせいつかは此処から去って行く身。あまり執着するのは止めよう。別れが辛くなるだけだ。
ラズは足元の黒豹に微笑み返すと再び歩き始めた。いつの間にか傍にいることが当たり前になっている存在が居なくなる日を恐れながら。
「ネイザン」
「なんですか?」
「俺の代わりに夜会に出てくれ」
「その命には従うことが出来ません」
「…………」
自室に戻ったダンは共に部屋に居るネイを恨めしそうな目で見た。元々騎士達と無駄口を叩くことなどなかったが、ラズとの縁もあってこうしてネイには愚痴を言うことが出来ている。けれど当のネイは硬い態度でダンの願いをつっぱねた。
(ラズと一緒の時はもうちょっと表情があるのにな)
彼を観察していてそう思う。共にラズの部屋で食事をしたこともあるが、あの時はもう少し普通の若者らしく話をしていた気がする。自分もネイも社交的な性格ではないが、身分の差はあれ、それ程気負いはなかった筈だ。ラズ一人が居ないだけでこうも違うのか。
ダンはソファの背に乱暴に体重を預け、溜息をついた。一方ネイは壁際に控えて立っている。移動の際共にいた他の騎士達はドアの外に立って見張りをしている為、部屋の中は二人だけだ。
「いいよな。お前はホールの前まで来たらさよならだもんな」
「夜会はお嫌いですか?」
「嫌だ。メシもロクに食えないし。香水くさいし。挨拶やらダンスやら面倒だし。式服は重いし。……考えるだけで嫌になってきた」
「…………」
顔をしかめるダンを宥める気があるのかないのか、ネイは行けとも行くなとも言わない。そもそも騎士が王子に対して意見などすることは許されないが、それでも宥めすかして行かせようとするものではないのだろうか。無理に義務を全うしろと言わない所が、ネイの良い所なのかもしれないが。
「途中でフケてラズんトコに行って来ようかな」
ふと呟いた思いつき。だが、それを聞いたネイの表情が変わった。表情が不自然に硬くなり、けれど肩が揺れて落ち着きをなくしている。
「…………」
「…………」
「……ぷっ」
「殿下?」
くくくっと声を押し殺してダンが笑う。どうして笑われるのか分かっていないのだろう。ネイは怪訝な顔をするだけだ。
「いや、ネイザンって意外と顔に出るのな」
「そうでしょうか?」
そんなことあまり言われないらしい。ネイは本気で不思議そうな顔をしている。
「よし、決めた」
「?」
「このまま夜会に行くのはつまらないからラズを釣る」
「釣る?」
悪戯を思いついた子供のようにダンが笑う。
つまらないと思っていた夜会もラズを巻き込むと面白く思えるから不思議だ。やはり、家族以外に心を開ける存在と言うのは特別なものなのだ。
ダンは手招きしてネイを傍に立たせる。そして実に楽しそうに、今夜の計画を練るのだった。
***
煌々とした灯りを反射して光る巨大なシャンデリア。その下で華やかな衣装に身を包んだ人々。初めて見る豪奢な光景にも気後れせず、マリアベルは穏やかな笑みを浮かべてホールを進んだ。そのすぐ後ろに姿を隠したブルネイが続く。
先程まで歓談していた人々が口を止め、マリアベルに注目している。無理も無い。それ程今宵の彼女は美しかった。
淡金の髪は高い位置で結いあがられ、緩いウェーブを描くよう巻かれて左耳から下に垂らされている。その反対側は白い大きな花で飾られ、ちらりと見える項の美しさを引き立たせていた。決して華美ではないAラインのドレスは瑠璃色。フリルはなく、薄い青の生地を何枚も重ねてグラデーションを作っている繊細なデザイン。ゴテゴテした装飾がないからこそ、彼女の持つ魅力が引き立つ衣装だ。化粧はほとんどせずとも会場に居る誰よりも美しい。
ホール中央へ進み、まず国王陛下に礼をする。彼女は招かれた客人だが、地位は平民と同じ。いくら王子達と懇意にしていても、すぐ彼らの傍に行くことは許されない。
挨拶が済むとホールの端に寄って壁の花となる。次に国内外の貴族達が名前を呼ばれ、最後にサディアの両殿下が呼ばれて全員の招待客がホールに集う。そして国王陛下が挨拶を述べ、宴の開幕となった。
招待客達は皆まず王族の下へそれぞれ向かう。自分達よりも地位が上の者のところへ向かうのは常識。けれど誰も彼もがマリアベルの存在を無視できないようで、多くの視線が常に注がれていた。流石に貴族ともなればいきなり彼女に声をかける無作法者はいないが、それでも興味本位の視線は居心地が悪い。
『大丈夫か? マリアベル』
「えぇ。平気よ。こういうのは慣れてるから」
心配して声をかけてくれたブルネイに、マリアベルは微笑を返した。
マリアベルは幼い頃から容姿のせいでどこに居ても目立つ子供だった。それは神殿の中でも同じ。神官達にだけ囲まれている時は気にならないものの、神殿には多くの信者、参拝客達が訪れる。神殿ではどんな場合でも特別扱いは許されない。巫女達の中でマリアベルだけが隠れているわけには行かず、当然衆目に晒されればこんなことはしょっちゅうだった。
マリアベルは自分の容姿が人目を惹く事を理解している。けれどそれは決して良い経験だけを与えるものではなかった。だから容姿が優れているとは決して思っていない。
「マリアベルさん。御機嫌よう」
「ユーリィさん!!」
やっと知人を見つけてマリアベルは顔を輝かせた。今までダンスやマナーのレッスンを面倒見てくれていたユーリィは一人の男性を伴っている。恐らく彼女の夫だろう。茶の髪を後ろに撫で付けた、四十歳程の男性だった。
「マリアベルさん。夫のガウディーです。あなた、こちらがシィシィーレのマリアベルさん」
「はじめまして、マリアベルです」
「はじめまして。ガウディー=ハーゲンと申します。いつも妻がお世話になっているそうで」
「いえ、ご教授いただいているのは私の方です。いつも奥様には大変お世話になっております」
「妻がお役に立っているのならば嬉しい限りです。これからもよろしくお願い致します」
「えぇ。こちらこそ、是非」
ガウディーは周囲の貴族とは違い、マリアベルを値踏みするような視線はよこさない。ハーゲン夫妻のお陰でやっと一息つけた気がする。ガウディーが取ってくれたグラスに一度口をつけた所で、無邪気な声が名前を呼んだ。
「マリアベル!」
「ヘリオスティン殿下」
王族としての教育を受けているだけあって走ったりはしないが、それでも早足でヘリオはマリアベルの下へ来た。顎のラインまで伸ばされた金髪に同色の刺繍が施された臙脂色のジャケットが映える。王族の式服は彼を少し大人に見せていた。
王族への礼は先に済ませている為、ハーゲン夫妻は場所を譲る。するとヘリオは嬉しそうにマリアベルの手を取った。
「綺麗だね、マリアベル」
「ありがとうございます。殿下も素敵ですよ」
「へへ。ありがとう。さっきからディン兄上がそわそわして落ち着かないんだ。きっとマリアベルの所に行きたくても自分からは行けないから待ちくたびれてる筈だよ」
「あら。しばらくは皆さんとのご挨拶で忙しいのではないのですか?」
「そんなこと言ってたら夜会は終わっちゃうよ! ホラこっちこっち!」
ヘリオにエスコートされてマリアベルはホールを横切る。王太子殿下直々にエスコートされるという事がどれだけ親密な関係かを物語っている。様々な憶測を囁かれるだろうが、マリアベルはこれまでと同様堂々としていればいい。そう自分に言い聞かせて足を進めた。
程なくしてトゥライアの王子達が貴族に囲まれている前方に着いた。マリアベルの姿を見つけた途端、ディンの顔が綻ぶ。
「マリアベル!!」
「ディストラード殿下」
いくら格好や場所が違ってもディンの態度は変わらない。見守るような穏やかな視線をくれるマックも同じ。それがマリアベルの心を宥めてくれた。いつの間に、彼らの傍がこんなにも自分を安心させてくれる場所になっていたのだろう。
「本日は素敵な宴にお招きいただき、ありがとうございます」
マリアベルが淑女の礼を取れば、嬉しそうにディンがマリアベルに手を差し伸べた。
「こちらこそ、巫女殿のお美しい姿を見ることができて光栄です。今宵は私にエスコート役をお譲りいただいても?」
「喜んで」
ヘリオからディンにエスコート役が移り、マリアベルはマックとディンの間に立つ。すると傍にいたダンがおかしそうに笑った。
「さっきまで不貞腐れていたくせに、マリアベルが来た途端これだよ」
「お前さっきから煩い。ちょっと黙ってろ」
「はいはい。ヘリオ、ご苦労さん」
「うん。やっぱりマリアベルを迎えに行って良かったでしょう?」
「あぁ。今日の功労賞はヘリオだな」
交わされる会話に目を丸くしていると、右隣のマックが笑いを零した。
「ディンは君の所に邪魔な虫が寄ってくるんじゃないかと気が気でなかったようだよ」
「え?」
「兄上!!」
ぐっと手を引かれ、ディンを見れば真っ赤な顔をしている。こんな風に余裕のない彼は珍しい。
「心配してくれたの?」
「……ん、まぁな」
「ふふっ。ありがとう」
心配してくれること、当たり前に傍にいてくれること。色々なことが嬉しくてくすぐったい。先程まで一人でいた時の心細さなんてもうどこにも無い。いつの間にか此処がマリアベルの当たり前の場所になっている。
「おいおい。兄弟仲が良いのは分かったから、そろそろ僕らを紹介してくれないかな?」
そう言って一歩前に出たのは癖のある紺色の髪に飴色の瞳の青年。隣には同色の髪を持つドレス姿の少女が控えていた。
(あ……)
視線を感じてマリアベルは自分の心が沈んでいくのを自覚した。そんな彼女の様子に気が付かないまま、マックが二人にマリアベルを紹介する。
「待たせてすまなかったな。こちらはシィシィーレ島、女神フェルノーイの神殿で巫女を務めているマリアベル殿」
「はじめまして。マリアベルと申します」
「そしてこちらがサディア国のフェイロン殿下とティナトナ殿下」
するとまずフェイロンが手袋をしたマリアベルの手を取り、口付けを落とした。飴色の目がまっすぐに注がれる。
「お目にかかれて嬉しいですよ。マリアベルさん。噂はかねがね聞いておりましたが、実際お会いするとこれほどまでにお美しいとは。正直驚きました」
「そのようなお言葉をかけていただけるなんて光栄です。生涯の自慢になりますわ」
「おや、貴方の様にお美しい方になら賞賛の言葉などいくらでも出てきますよ。自慢の種が欲しい時にはいつでも僕を呼んでいただきたいですね」
「まぁ」
スラスラと出てくるフェイロンの褒め言葉に謙遜するべきか、素直に受け取るべきか流石に迷う。困っているとディンが一度離れたマリアベルの手を取った。
「まともに相手にしなくていいぞ、マリアベル。こいつは誰にでもこう言う奴だから」
「おいおい。何もこんな場でそんなこと言わなくてもいいだろう」
肩をすくめるフェイロンの横から、今度はティナトナが一歩前に出る。
「私はサディアの第一王女、ティナトナと申します。このような場で巫女様にお会いできるなんて嬉しい限りですわ」
「ありがとうございます。今は陛下のご好意で王城の教会で祈りを捧げている身です。普段はこのような場にいる人間ではございませんので、陛下や殿下方には感謝してもしきれません」
長いまつげに縁取られた空色の目が一挙一動を見逃すまいとするかのようにマリアベルを見ている。
(彼女だわ)
先程の視線の主を見つけてそう思った。
マリアベルは人の感情に敏感だ。目立つ容姿は視線と同時に人の欲を集めるものだと知っている。それは金だったり性だったり征服欲だったりする。一体自分に向けられる視線の意味は何なのか。善意なのか悪意なのか。興味なのか嫉妬なのか。嘲りなのか欲なのか。それを見極めることが幼い頃から自分を守る最大の術だった。
そして今目の前の美少女ティナトナから受ける視線の意味。それは妬みだ。フェイロンからは強い興味、そして彼女からは嫉妬の感情が注がれている。
先程までの安心感が途端に薄れ、マリアベルに残ったのは諦めに似た薄ら寒さ。思わずディンの腕に縋りたくなるが、ティナトナの目を感じてそれは叶わなかった。




