36.変人
「そう拗ねるな」
『……拗ねてなどおらぬ』
色味の薄い唇が弧を描く。相変わらずこの知人は年齢不詳だ。一見すると男性か女性か分からない整った顔立ち。真っ直ぐで艶のあるアイボリーの髪にトパーズのような薄い黄色の瞳。儚げな容姿をしているが、実の所中身はいたずら好きの子供だ。
旧知の魔術師を前に光の精霊ブルネイは不機嫌に喉を鳴らした。
『まさかそれだけを言いに来たのではあるまいな、レギ』
「うん。それだけ言いに来たんだよ」
『帰れ』
「いやだなぁ。そんなに怒らなくてもいいじゃないか。久しぶりに会ったんだから」
マリアベルに与えられた客室。その居間でブルネイが寝そべっているソファの向かいに座り、お茶を飲んでいるのはこの国最高位の魔術師レギ=フレキオン。だが魔術師長が来ているのにも関わらず、部屋には給仕をする侍従の姿はない。お茶もレギが手ずから淹れたもので、お茶うけの菓子などは用意されていなかった。
レギは三代前の国王の時から魔術師長を任されている男だ。それまでの王が短命だった訳でも、彼が魔術を駆使して寿命を延ばしている訳でもない。故あって彼は常人よりも長命なのだ。百歳はとうの昔に越えているが、見目だけならば三十代と勘違いされてもおかしくはない。だが、明らかに俗世から浮いた彼が人々の噂になることも、畏怖されることもない。それは彼の特技のお陰だった。
顔なしの魔術師。それが彼の二つ名だ。旧知の精霊の前では本当の顔を見せている彼も、普段人前でそれを晒すことはない。それは部下である塔の魔術師達の前でも同様だ。魔術により姿かたちを別の容姿に見せることが得意で、普段は町人達に埋もれてしまいそうな地味な装いをしている。ある時は腰の曲がった不気味な年寄りだったり、ある時は日焼けした少年だったり、ある時は腹の出た中年の男性だったりと仮の姿は多種多様。共通点と言えば、会った人達が彼の容姿をいくら思い出そうとしても出来ないくらい印象が薄い事だろう。
人間とは違い容姿で相手を判別しない精霊相手には無駄なあがきなので、こうして素の姿で顔を合わせている。
「君の巫女殿は礼拝かい? 一緒に行かなくて良かったの?」
『昨夜から王子どもが張り付いている。必要ないだろう』
「やっぱり拗ねてるんじゃないか」
『…………』
フンッと鼻を鳴らし、ブルネイは前足に顎を載せて目を閉じた。不貞寝かい?とレギが言うが、これ以上意地の悪い魔術師にからかわれるのはごめんだ。
「もう少し私のお茶に付き合ってくれてもいいじゃないか。仕方ない。グライオに会いに行くとするよ」
『さっさと行け』
「うん。じゃあまたね」
また来る気かと呆れるが、そう思った時にはもう目の前に魔術師はいない。明日のサディア王族訪問に合わせて既にこの部屋の結界が強化されているが、そんなもの彼には関係ないのだろう。ローテーブルの上にティーカップがない所を見ると、どうやら片付けていったらしい。どこまでも痕跡を残さない男だ。
ブルネイは再び目を閉じ、愛しい少女の気配を探った。もし彼女が部屋に戻ってきた時まだ二人の王子が張り付いているようだったら、何か報復をしてやろうと思いながら。
「やぁ、シィシィーレの〈風〉。初めまして、かな?」
『恐らくは。お主がレギか』
「うん。よろしくね」
『あらあら。こんな所で油を売ってていいの? あなた魔術師長なんでしょう?』
王城の一角。東棟と呼ばれる建物の屋根の上にレギは立っていた。そこに居たのは二人の〈風〉。真っ直ぐブルネイの片割れである闇の精霊の所へ移動しようと思っていたのだが、上位精霊の気配を感じたので寄り道したのだ。流石情報収集を得意とする〈風〉だけあって、レギのことも知っているらしい。
「塔には優秀な魔術師達が沢山いるからね。私まで仕事は回ってこないのさ。師長と言っても暇なものだよ」
そう言ってレギが笑えば、二人の〈風〉は顔を見合わせた。
『下位の〈風〉が最近放たれているのは知っているか?』
「うん。そうみたいだねぇ」
『どこからか、検討はついているの?』
「大体は。意味がないから放置しているけど」
『意味がない、とは?』
「だって本人が直接知れることを事前に探ろうとしているだけなんだもの。明日になればそんなことする意味が無くなるよ」
『……そういうことなのね』
レギの言葉に納得がいったようで〈風〉達が頷きあう。
「君らが片っ端から契約を切っているようだけど、逆に何かあるのではと怪しまれることにもなりかねないよ。今日ぐらいはほっといたら?」
『考慮しよう』
「うん。ありがとう」
それだけ言って今度こそはと移動しかけた時、それを〈風〉の一人が止めた。
『あ、グライオの所に行くの?』
「うん」
『ならうちの子にも会うと思うけど、あんまりいじめないであげてね』
「うちの子?」
『我らの娘だ』
二人の〈風〉は子持ちだったのか。ある意味勘違いしているが、レギは素直に頷いた。
「うん。分かった。じゃあね」
にっこりと笑ってレギの姿が消える。実にあっさりとした人物だ。だが、彼の姿が見えなくなってから〈風〉の一人が呟いた。
『……娘はヒトだと言うのを忘れていたな』
『あら、そうね』
けれどまぁ、あの男が相手なら悪いようにはならないだろう。そう結論付け、二人は再び顔を見合わせ頷いた。
ラズは深呼吸を数回繰り返した。頬からは汗が流れ、体は心地の良い疲れを残している。
ここは野外に作られた騎士の演習場。鍛錬の為に剣を振っていたが、一段落したので日陰に移動している。最初はいつも通りネイとだけ剣をあわせるつもりだったのだけれど、居合わせた他の騎士や挙句の果てに近衛騎士隊長のシークにまで手合わせを頼まれ、約二時間それをこなしていたのだ。流石にシークは一筋縄ではいかず、ラズが押されることとなった。体格や力では敵わないのも当然だが、経験によって培われる一瞬の判断が大きな差となった。シークには礼を言われたが、勉強させてもらったのはラズの方だと思っている。
「飲むか?」
「あぁ。ありがとう」
演習場から離れた木陰にラズは腰を下ろした。隣に座ったネイから水の入った大きな杯を受け取り、一気に喉へ流し込む。冷たい水が火照った体に心地良い。
『ラズは剣の鍛錬までしているのか』
そう言って同じ木陰に身を横たえた姿を見せたのは闇の精霊グライオだった。どうやら先程までの演習を見ていたらしい。
「うん。護衛の為に身につけただけだから、どうしても後手に回るけど。丁度いい運動にもなるし、剣を振るのは好きなんだ」
『うむ。気晴らしもいいが怪我はするなよ。煩いのがいるからな』
「あははっ。ありがとう」
胡坐をかいたラズの太ももの上に顎を載せてきたので、自然と黒豹の頭を撫でる。するとネイの前にある尻尾がユラユラと揺れた。どうやら今日はご機嫌のようだ。天気がいいからだろうか。
「明日からサディアの殿下達が訪問するからね。滞在中騎士は皆城内外の警備に当たるから、こんな風に鍛錬に混ぜてもらえるのも今日までなんだ」
『ネイザンはどうするのだ?』
「……俺も警備に加わる」
そう言ってネイは黒豹と目を合わせる。彼の意図を正確に読み取ったグライオは小さく頷いた。サディア滞在中はラズの護衛を外れる為、暗にその間の守りを頼むと言っているのだ。
『承知』
礼をするようにネイは無言でその背を撫でる。益々機嫌を良くしたグライオにラズは思わず笑ってしまった。
「楽しそうだねぇ」
のんびりとした声にラズとネイはハッと顔を上げた。気配もなく目の前に現れたのは鼠色のローブを頭から被った壮年の男性。どこにでもいる土色の髪に同色の瞳。二人を見下ろすと口元に寄った皺が更に深くなった。
どこかで見たことがある、と思ったが思い出せない。ローブを羽織っているならば魔術師で間違い無い筈だけれど、以前塔で見かけただろうか。
するとグライオがラズの太ももから顔を持ち上げた。
『お主か。随分我の片割れがへそを曲げているが何をした?』
「嫌だなぁ。ちょっと挨拶しただけなのに」
『おぬしのことだ。どうせ余計なことを言ったのだろう』
「余計か余計じゃないかを決めるのはブルネイだもの。それを私のせいにされても困るなぁ」
『減らず口だけは達者だな』
「おや、久しぶりに会ったのに冷たいね」
年齢の割には軽いしゃべり口調をする人だ。一体誰何だろうと首を傾げるラズの前で、彼も木陰に入り腰を下ろした。
「シィシィーレ島のラズさんと、近衛騎士のネイザンさんだね。こんにちは」
「……こんにちは」
控えめに挨拶を返すラズに対して、ネイザンは無言で頭を下げる。どう対応していいのか分からずにいると、彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「あぁ。私の事は気にしなくて良いよ。ちょっとグライオに挨拶しに来ただけだから」
するとニョキと地面から何かが生えてきて、彼の膝の上に乗った。何だろうと見ていると、更にニョキニョキとつくしの様に顔を出してくる。全部で七匹。地面から出てきた土人形のようなそれらは魔術師の体をよじ登り始めた。隣を見ればネイも目を丸くしている。
「……土の精霊?」
「あぁ。君らには見えるんだね。私は普段あまりここに来ないから、珍しくて見に来たんだろう」
膝の上に乗ったり、肩を叩いてみたりと〈土〉達は興味深げに魔術師の体をあちこち触っている。くすぐったいのか彼はくすくすと笑った。随分と精霊達と仲の良い人のようだ。
「ブルネイとグライオをご存知なんですね」
「うん。昔からの知り合いだよ。あの頃は喧嘩ばかりしていたけど、二人とも随分丸くなったよね」
『喧嘩の原因のほとんどはお主の下らぬ悪戯だろうが』
「悪戯って言っても可愛いもんだったろ?」
『どこがだ。落とし穴と称して地面に大穴を開けたくせに』
「穴はちゃんと埋めたからいいじゃないか」
『我らごとな』
「そうだったっけ?」
なんともダイナミックな悪戯ばかりしていたようだ。上位精霊と魔術師が喧嘩したら周囲はいい迷惑だろう。見た目は落ち着いた容姿をしているのに、中身はとんだやんちゃ坊主だ。
彼は再びラズの太ももに顎を載せたグラオイを見て呟いた。
「いいなぁ」
「え?」
「私も膝枕してもらいたいよ」
「はぁ……」
冗談なんだか本気なんだか、いまいち掴めない人だ。ネイは彼のことを怪しんでいるのか、魔術師を見る目が鋭くなる。
その時、ひらひらと一匹の蝶が魔術師の手の上に止まった。鮮やかなオレンジ色をした手のひらの半分ほどの大きさの蝶。
「バレたか」
ちっと小さく舌打ちして彼は立ちあがった。いつの間に手にしていたのか、そこには随分と使い古された杖が握られている。足元では先程の〈土〉達が名残惜しげに彼を見上げていた。
「そろそろ仕事に戻るとするよ。じゃ、またね」
にこりと微笑むのと同時にその姿がかき消える。彼の足元にはフレアレクが使っているような陣はどこにもない。唖然と先程まで魔術師がいた場所を見つめているラズに、グライオは呟きを漏らした。
『相変わらず規格外だな』
「……グライオ」
『なんだ』
「今の、誰?」
すると意外そうな表情でグライオがラズを見上げた。そんな顔されても知らないものは知らないのだ。次いで首を曲げてネイを見るが、彼も首を横に振った。どうやらネイも知らないらしい。
『ヒトの間では有名だと思っていたが』
「誰なの?」
『レギ=フレキオンだ』
「レギ? ……待って、あのレギ? 魔術師長のレギ=フレキオン?」
『そうだ。やはり知っておるのではないか』
ちょっと待て。確かにレギ魔術師長にラズは二度会っている。一度目は初日の謁見の間で。二度目はマリアベルが失踪した際、客室で。だが、あんな人だっただろうか。そう思って記憶を探るが思い出そうしても顔が思い浮かばない。髪の色は? 目の色は? 年齢は? 声は?
混乱しているラズに、グライオは溜息をついた。
『落ち着け。それがアレのやり方なのだ』
「やり方って?」
『誰の印象にも残らない。それがアレの術だ。ヒトでは奴を判別するのは難しいのかもしれん』
「そうなんだ……」
年齢不詳だとか未来予知が出来るとか、レギ=フレキオンの情報は多いがどれも噂の域を出ないものばかり。どうやらこの国のトップに君臨している魔術師レギは一癖も二癖もある人物らしい。
「じゃあ、さっきの姿も本物とは違うの?」
『違うな。恐らく人前でその姿になることはないだろうよ』
「変わった人だねぇ」
『確かに変わってはいるな。何でもかんでも面白がる変人だ。あれは』
「……魔術師長は変人ですか」
さわやかな風が吹く昼前の木陰。何とも言えない出会いを果たしたラズとネイなのだった。




