34.小さな変化
昼のピークを過ぎたこの時間、それでも騎士団の宿舎に併設された食堂の半分以上の席が埋まっている。元々百五十席程が用意されていることを考えれば、どれだけ沢山の騎士達がこの城で働いているのかが知れるというものだ。そして、その人数の食事を毎日作っている料理人達の苦労も。それでも一人一人の顔を覚えているらしい配膳の女性に声をかけられ、ラズは頬を緩めた。
「あら、久しぶりじゃないか!」
「すいません。ここの所立て込んでいて」
カウンター越しに会釈して、ラズは並べられたブレッドとスープの皿を取った。自分の母と言ってもおかしくない歳のこの女性は、しばらく来なかったラズの顔をまだ覚えていてくれたらしい。
「城のお役人達はサディアの殿下達が来るってんで忙しそうだけど、アンタもかい?」
「俺は直接関係がないので、そっちは大丈夫ですよ」
「そうかい。最近アンタが顔を見せないからさ。デザートが余っちゃって困ってたんだよ。ここの連中は甘いモンなんて食べないってヤツが多くてねぇ」
確かに男性ばかりの騎士団で甘味の需要はそれ程多くないだろう。ならば早速ご相伴に預かろうと、ラズはカウンターの上に並べられた料理を見回した。
「今日のデザートはなんですか?」
「桃のタルトがあるよ」
「桃!!」
「おや、桃は好きかい?」
「はい! 大好きです!」
素直に答えればおばちゃんが、ははははっ! と大きな声で笑う。
食事を取るために並んでいる騎士達がいるのであまり長いおしゃべりは出来なかったけれど、美味しそうなタルトをトレイに載せ、ほくほくとした顔をしているラズ。そんな客人に顔をほころばせながら、おばちゃんはちらりと隣に立っている騎士に目を向けた。
(おやまぁ、穏やかな顔しちゃって)
一人の時はいくら声をかけても無表情な彼が、目元を緩めてラズを見ている。やはり先日彼を連れて来るよう声をかけたのは正解だったようだ。彼女が自分の成果に満足していると、ネイのトレイを見たラズがサラダの乗った皿に手を伸ばした。そしてその手は自身のトレイではなく、隣へと動く。つまりネイのトレイへ。
「ダメだよ。野菜も食べないと」
「…………」
食堂の料理はバランスを考えて作られてはいるが、自分の食べたい物だけをチョイスしてトレイに載せて行く者は多い。男所帯であるせいかやはり人気なのは肉料理で、サラダや漬物は二の次にされてしまう。体を酷使する騎士達はどうしても腹に溜まるものに目が行きがちなのだろう。それはネイも例外ではなかった。
一方でラズは神殿で育ったせいか、どちらかといえば野菜中心の食事を好む。だからたんぱく質や炭水化物のみで済ませようとするのは、どうにも気になって仕方がない。
自分の意思とは関係のない所から無理やり載せられたサラダの皿。それを前にネイは何も言えずに受け取るしかなかった。そんな二人を見て思わず、と言った仕草で配膳の女性がぷっと吹き出す。気づいたラズはきょとんとした顔で首を傾げる。何が可笑しいのか分っていないのだ。
「あの……?」
「ごめんごめん。席がなくなっちまうから早く行きな」
「あぁ、はい」
そうしてカウンターから離れる二人を見送ったおばちゃんの顔はどこか満足げだ。
(こりゃ、夜のデザートも考えておかなきゃねぇ)
嬉々として彼女は次の料理を頭に思い浮かべるのだった。
***
コンコンッ
「フレアレクさん? いないんですか?」
何度ノックしても返事が無いドアに向かってノイメイは首を傾げた。元々引きこもりとして有名なフレアレクが外出しているとは考えにくい。そもそも外出したく無いが為に、部屋の中で出来る仕事しか引き受けないような人物だ。
(まだ寝てるのかな……)
出直すかと踵を返そうとした時、同時にカチャと小さな金属音がなった。試しにドアを押せば鍵が開いている。
「フレアレクさん?」
そっと開いて中を覗いてみる。するとドアの前に立っていたのはフレアレクではなく、昨日彼が契約を交わした〈水〉。鍵を開けたのはこの精霊だったようだ。
「フレアレクさんはいる?」
『アレクは寝てるよ』
もう昼過ぎだというのに珍しい。フレアレクは引きこもりだが仕事はきっちりとこなすし、怠け者という訳ではない。
起こしてあげようと中に入れば、確かに彼は散らかった部屋の隅に置かれたベッドの上につっぷしていた。昨日の契約で大分魔力を消費してしまったのだろうか。それにしても枕に顔を埋めている姿は寝苦しそうだ。
しかしよくよく観察すれば、パタパタとフレアレクの共へ走っていくセシュールは昨日より随分と元気そうに見える。うっすら青色に輝く髪は色艶も良く、体内の魔力の殆どがフレアレクの色に染まっていた。
(昨日の今日で、ここまで?)
魔石の魔力に侵された〈水〉の体内をフレアレクの魔力に全て置き換える為に少なくとも半月は必要だろうと思っていた。けれど今のセシュールはすでに半分以上が彼の魔力で満たされている。そこで思い出されるのは昨日のセシュールの様子。フレアレクに飛びつき、随分と彼に懐いていた。
(まさか……、搾り取られた?)
セシュールから求められ、昨晩中魔力を与え続けたならば今の状態も不可能ではない。彼がいまだにベッドの上でダウンしているのもそれならば説明がつく。セシュールに迫られ、断りきれずに落とされるフレアレクが容易に想像出来て、ノイメイは思わず寝ている彼に向かって両手を合わせていた。
「……ご愁傷様」
『え? なぁに?』
「いや、なんでもないよ」
こちらを振り返って首を傾げたセシュールにノイメイは苦笑いを返した。セシュールはいつの間にか横になっているフレアレクの上に重なり、猫のようにごろごろと甘えている。余程彼を気に入ったらしい。まあ、仲良くやってくれればそれに越したことは無い。
「俺は出直すよ。いいかい、セシュール。フレアレクさんは大分お疲れのようだから、今は魔力をもらっちゃいけないよ。後、起きたらちゃんと食事をとるように言ってね」
『ハーイ』
素直に返事をしたセシュールに一度頷き、ノイメイは部屋を後にした。このまま彼の魔力が枯渇しない事を祈りながら。
***
「今日はここまでにしましょうか?」
ユーリィの一言でマリアベルはステップを踏んでいた足を止めた。
ここはちょっとした催しに使用される小さなパーティーホール。メインホールと比べれば四分の一にも満たない広さだが、それでも五十名ほどが会食するには十分な程だ。使用されていない今はテーブルや椅子もなく、広々としたフロアはダンスの練習をするには丁度良い。
ユーリィを紹介されてからほぼ毎日、ドレスの仮縫いなどの準備と平行してマリアベルは晩餐会で行われるダンスの練習に励んでいる。勿論指導はダンスに幼い頃から親しんでいる貴族の娘ユーリィ=ササラだ。しかし彼女は当然相手役を務めることが出来ない為、マリアベルの練習相手はもっぱら年老いた侍従のボルトーである。実はダンスの練習をすると聞いてディンがその役をやりたがっていたのだが執務に追われて時間が取れず、けれど他の若い男が彼女と踊るのは絶対嫌だと言い張るのでボルトーの名前が挙がったのである。
「お疲れですかな? マリアベル様」
「いえ、大丈夫です。でも、ダンスはやっぱり難しいです」
自分を気遣ってくれるボルトーにマリアベルは苦笑した。
幼い頃から巫女として過ごしてきたマリアベルは当然ここに来るまで社交ダンスに興じたことなどない。何度も練習に付き合ってもらっているのに、いまだ動きがぎこちなくなってしまうことに申し訳なさが募る。けれどそれを聞いていたユーリィは優しく微笑んでくれた。
「いえ、マリアベルさんのダンスは最初とは見違える程上達なさってますよ」
「本当ですか……?」
「えぇ。後はあまり足元ばかりを気にされない方がよろしいでしょう。ダンスは基本的に男性がリードしてくださいます。力を抜いて、相手の動きに身を任せるのが一番ですわ」
「……。気をつけます」
褒めて貰えるのは嬉しいが、実の所マリアベルはそれ程器用な性格ではない。きっと同時に始めればラズの方が上手くなるだろう。故郷からの親友は昔から体を動かすことが得意だった。
マリアベルは二人にお礼を言い、その日の練習を切り上げた。そして三人共にマリアベルの客室へと向かう。小ホールは東棟に位置しているので、客室がある南棟までは二十分ほど歩くことになる。
中庭の端を横切るように作られた渡り廊下を移動している時、ふと人影が見えてマリアベルはそちらに目を向けた。中庭を挟んで反対側。自分達がいる場所とは違い、陽の当たらないその廊下を壮年の男性が一人歩いていた。背は高く肩幅が大きい。腰元の剣が無くとも騎士だろうと推測が出来る体格の良さと精悍な顔つき。後ろに撫で付けられた髪はあまり見かけないボルドー。マリアベルも一度挨拶をしたことがある、この王国騎士団のトップ、ベック=ワイズだ。
ふと隣を歩いているユーリィを見れば、彼女の視線もベック団長の方を向いていた。けれどそこには何故かいつも優しげな笑顔を見せている彼女らしくない、苦痛の色が見える。
「……お知り合いですか?」
不躾だろうかと思いつつも、マリアベルはそう声を掛けていた。
「え?」
「あの方、確か騎士団の団長さんでしたよね?」
するとほんの少し、彼女は視線を落とした。まるでマリアベルの顔も誰の顔も見たくない、と言うように。
「えぇ。私がまだ殿下達の妃候補だった時、何度かご挨拶をしたことがありますわ」
「そうですか……」
本当にそれだけならば、ユーリィがいつもの笑顔を崩すことなど無いだろう。それが分かっていてもマリアベルにはどうすることも出来なかった。他人と自分との距離を測ることは難しい。マリアベルは勿論彼女と仲良くなりたいと思っている。でもそれだけで本人が話そうとしない事を追求して良いのか、判断はつかない。
いつの間にか足が止まっていたことに気づいて、ユーリィは控えめに微笑んだ。
「そろそろ昼食の時間になりますわ。行きましょう、マリアベルさん」
「はい」
一度だけ振り向くが、そこにはもうベック団長の姿は無い。そっとユーリィの横顔を盗み見てもそこには何の感情も見つからなくて、マリアベルは黙って足を進めるしかなかった。
『どういう事だ……』
マリアベル達が去った廊下の上空。そこで発せられたのは感情などこもっていないような無機質な声。けれどその表情はいぶかしげに歪んでいる。ラズの親代わりである風の精霊の一人は己の手の中でもがいている灰色の小鳥を見下ろしていた。その隣ではもう一人の〈風〉が小鳥に手をかざし、その魔力を読んでいる。
『契約精霊ね』
そう。一見地味な色合いのこの小鳥はただの鳥ではない。下位の〈風〉だ。上位である二人にかかれば捉えることなど容易いが、問題は何故人と契約を交わした精霊が此処にいるか、である。
『主は塔の魔術師か?』
『違うと思うわ。トゥライアの魔術師なら私達の存在を知っている。こんな事をしても無意味だと分かる筈よ』
『……。これで三匹目、か』
〈風〉の呟きはこのトゥライアで生活する人々の誰にも聞こえない。その言葉に不穏な空気を感じ取っているのは隣にいる精霊だけだ。
精霊にはそれぞれ得手不得手がある。人間が〈風〉の特性を生かして使役するのはその殆どが情報収集の為。言葉を悪くすれば密偵代わりに使うのだ。そしてここ最近、トゥライアの王城周辺で〈風〉達は密偵として放たれた下位の同胞を既に三回捕らえていた。それも全てマリアベルの近くで。彼の巫女は自分達の娘の大事な親友。〈風〉達にとっても見過ごせない事態である。
捕らえた同胞達はどれも力の小さな下位ばかりで、与えられている命はマリアベルの周囲に張り付き、彼女の情報を集めることだけ。決して危害を加えるようなことはない。それ故トゥライアの魔術師達が彼女を保護する為に監視しているとも考えられるが、自分達は何度か彼らの前に姿を見せている。上位の風の精霊のテリトリーに密偵など放てば、簡単に邪魔されることぐらいは承知の筈だ。
ならばそれを知らない者の仕業。一体誰が?
『マリアベルの傍にはブルネイもいる。そう簡単には何も起こるまいが……』
ただでさえ王城は多くの人間の思惑が絡む場所。精霊である二人には欲深い人間の考えなど理解できない。故に何が起こるか予想は難しく、油断ならないのだ。
『ラズにこの事は?』
『……今の所害は無い。いたずらに怯えさせるより、我らが事前に防げば良いだけのこと』
その言葉に女性らしい〈風〉からはくすくすと笑い声が漏れた。
『なんだ?』
『だから過保護だって言われるのよ』
『……言わせておけば良い。娘を大事にせず、親など名乗れるものか』
『そうね』
男性らしい〈風〉が手の中の小鳥にそっと息を吹きかけると、たちまち拘束から逃れようともがいていた動きが止まる。そして、人の目には映らない魔力の糸を指先で断ち切った。
『もうお前に主は存在しない。どこへなりとも行くが良い』
小さな羽根を必死に動かし、灰色の小鳥が青い空へと羽ばたいていく。それを見送り、二人の〈風〉も空気に溶けた。




