33.力
妙な感覚にフレアレクは眉根を寄せた。それでも中々瞼を開こうとしないのは、昼間〈水〉との契約のために魔力を使ってしまったせいだろう。眠気に負けて僅かな違和感では起きる気になれない。けれど次の瞬間背筋に走ったぞくぞくしたものに、完全に意識が覚醒した。
「うわっ!!」
目を開けばそこは自分が眠っていた自室ではない。今は夜中だというのに、何故か太陽のような光が遠くに見える。けれどそれはユラユラと揺らめいていて、まるで水の中から空を見上げているような光景だ。自分を取り囲む空間は暖かく、ぼんやりと青い。見たことのない場所に呆気にとられていたフレアレクだったが、次の瞬間ぎょっと息を呑んだ。
「セ……セシュール?」
今日つけてもらったばかりの名を呼ばれ、水の精霊セシュールは間近で嬉しそうに微笑んだ。だがその体勢がおかしい。セシュールは横になっているフレアレクの腰の上に跨っているのだ。しかも、何故かフレアレクは裸である。本人は同様のあまり気づいていないが、愛用の眼鏡もない。
「……。ここはどこ?」
『ここはねぇ、亜空間なの』
「亜空間? 精霊の?」
『そうだよぉ~』
「っ!!」
そう言いながらフレアレクの顔を覗き込むようにセシュールが前のめりになると、同時にまたもや言いようのない感覚が襲った。
「セ、セシュール…。何やって……」
『うーんとね、フレアレクとくっついてるー』
「!!!???」
セシュールが嬉しそうに腰を揺らせば、フレアレクの股間に刺激が与えられた。感じるのは紛れもない快感。
「な、ななななんで……」
逃げ腰になるフレアレクを逃すまいとセシュールが抱きつく。そしてぽかんと開いたままの唇を塞いだ。自分よりも体温の低い滑らかな感触の舌が完全に油断していた魔術師の舌に絡みつき、咥内を思う存分舐め上げる。耳に届く卑猥な水音が益々彼を混乱させた。
「ん、ふぅ…んん!」
当然ながら人嫌いで引きこもりの魔術師にはキスの経験もない。どうしたら良いのか分からず怖気づく契約者を、セシュールは追いかけるように攻め立てた。顔を真っ赤にした彼から色っぽい声が漏れる。
「うあっ……!」
フレアレクは困惑している。けれど嫌悪はしてない。それは契約者であるセシュールには聞かずとも分かることだ。
一方フレアレクは生まれて始めて味わう感覚に翻弄されつつあった。自身に押し付けられる柔らかいセシュールの体。人間とは違い温かくはないが、冷たさも感じない。
『んっ、アレクぅ……』
「セシュール……」
眉根を寄せて懸命に自分を求める精霊。例えこれが自分から魔力を搾り取るための行為だとしても、自分に対する好意を示してくれている相手を拒める筈もない。彼女の動きと共に揺れる透き通った髪が綺麗だ、と思った。
自分の胸の上に置かれた手を取り、フレアレクは初めて自分からそこに唇を落とす。
『アレク……?』
「セシュール。……私のこと、好き?」
『うん。スキぃ』
問えば、そう言ってセシュールは顔を綻ばせる。その表情が愛しくて、彼女の両腕を引き、抱きしめた。そして驚いている彼女の髪をゆっくりと撫でる。
魔石と無理矢理離され、供給されなくなった魔力による飢餓感を埋める為にこのような行動に走ったのだろう。契約を結べばフレアレクの魔力を与えることが出来るがそれだけでは足りず、こうして直接的に繋がることでより多くの魔力を得ようとしているのだ。
人間の男女が交わす愛とは違えど相手は自分が契約した精霊。大事にしたい、力になってやりたいという想いはある。
『アレク? どうしたの? セシュール嫌だった?』
「違うよ」
『っ!!』
そのままくるりと体勢を入れ替える。今度は彼がセシュールを押し倒す形だ。勢いで腰を押し付けてしまい、互いの体にぞくぞくした感覚が走ってフレアレクは息を詰まらせた。
「っ……。セシュール」
『なぁに?』
「……ありがとう」
人間が嫌いとセシュールが言った時、フレアレクの中に共感する部分があった。そして同時に自分はどうしようもなく人間だから、拒絶されるかもしれないとも思った。だからあの時、魔力で釣るような、そんな言葉しか出てこなかったのだ。けれどこんな卑怯な契約者をセシュールは好きと言ってくれた。それが契約云々を抜きにして単純に嬉しかった。
両手でセシュールの頬を包み、ぎこちない動作で口付けを交わす。初めて自分から唇を舐め、咥内で舌を絡めあう。口を離せばどちらのものか分からない唾液がセシュールの顎を伝い、フレアレクを興奮させた。
『ん…、アレクぅ……』
「何?」
『いっぱい頂戴』
その台詞に顔がカーッと熱くなる。ここは精霊の住む亜空間。触れあっているのは体を模した互いの精神で、セシュールが欲しがっているのはフレアレクの魔力。だが、この状況でその言葉は誤解を生んでも仕方ないと思う。そうは分かっていても興奮してしまうのは、悲しい男の性だろうか。
『んんっ!』
セシュールの口から甘い息が漏れる。彼に触れられる度、大好きな人の魔力が自分の体を満たしていく。それが何より心地良い。
『アレク、スキ。スキぃ……』
ねだるように彼の背中に腕を回し、セシュールはぎゅっと瞼を閉じた。
***
目をキラキラとさせているのはトゥライア国第四王子ヘリオスティンだ。彼は十一歳という歳相応の無邪気さで絨毯の上に横たわっている黒豹、もとい闇の精霊グライオの背を撫でている。どうやら先に城に現れた光の精霊は気位が高く、いくら頼んでも触らせてもらえなかったそうで、今まで我慢していた分を発散するかのようなはしゃぎっぷりである。
グライオは元々面倒見が良いのか、まとわり付く少年を嫌がる素振りも見せず、時折しっぽを揺らす以外は大人しくされるがままだ。
そんなヘリオとグライオを大人達は生暖かい目で眺めていた。
「いやぁ、平和な光景ですねぇ」
「えぇ。そうですね」
ここはヘリオの私室と続きの間になっている応接室。彼の希望とあってラズはネイとグライオを連れて仕事の合間に訪れていた。けれどそこには先客、左の魔術師サグホーン=ベレーが居て、何故かお茶を飲んでいた。話を聞けばどうやら彼もグライオを一目見たいとヘリオに頼み込んだそうだ。
ラズは彼と二人でお茶を振舞われ、護衛のネイは窓際に控えて立っている。
「それで、サグホーンさんは何故グライオに?」
そう問われ、サグホーンはにっこりと笑った。
ラズとサグホーンは今日が初対面である。ラズ自身は王城の謁見の間で彼を目にしているが、こうして言葉を交わすのは初めてだった。
艶のある黒檀の髪を短く刈り、こちらを見る穏やかな目は深い森のような緑色。目元の笑い皺がなんとも彼の印象を柔らかく見せていて、長いローブを羽織っていなければ魔術師とは分からないだろう。彼が王城を守る結界の責任者だと紹介された時は、失礼ながら一瞬本当かと疑ってしまった程だ。やはり先日塔を訪れた際の態度の悪い魔術師達の印象が強いせいか、高位の魔術師ともなると気難しそうな、いつも眉間に皺を寄せて無知な人を見下しているような人物を連想してしまう。
「実は彼が出ていたサーカスを私も観に行っていましてね。今はこちらに移住したと聞いたので、是非お目にかかりたいと思ったのですよ」
「グライオが上位の精霊と知って、ですか?」
「最初に彼を観た時に上位であることは分かっていました。左に席を置く者と言えど、魔術師にとって精霊は興味深い存在ですからね」
理由としては差しさわりがない、特に口を挟む余地のないものだ。けれどどことなくラズはそれだけではない気がした。一番気がかりなのはサグホーンがグライオと契約を結びたがっているのでは、という心配だ。上位の精霊が人前に姿を現すのは珍しい。しかもグライオのように常時姿を見せ、人の傍にいる者は。そんな事を考えていると、人の良さそうなこの魔術師の笑顔も真意を隠すための仮面ではないかと思えてくる。ただの杞憂ならそれで良いのだが。
そんなラズの思いをよそに、サグホーンはまるで世間話をするような気軽さでグライオに声をかける。
「ねぇ、グライオ君」
『なんだ』
「近々サディア国の殿下達がここを訪れることは知っているかい?」
『知らぬ。それが我と関係あるのか?』
金色の目がほんの少しの鋭さを持って魔術師の姿を映す。けれど流石は高位の魔術師。それに臆した様子はない。
「実はその訪問に合わせて結界の見直しをしていてね。特に王城内の王家と賓客の間は結界を強化するんだ。君らが自由に行き来できなくなる場所も出てくるかもしれないから、予め伝えておこうと思ってね」
『マリアベルとラズの部屋もか?』
「今の所ラズ君はそのままの予定だけれど、マリアベル殿の部屋は強化されるはずだよ」
『人間の結界がブルネイを止められるとは思えぬが』
正直なグライオの反応にサグホーンは苦笑した。責任者に向かって、魔術師達の結界など意味はないと言われてしまってはそんな顔にもなるだろう。彼は持っていたティーカップを置いて、腕を組んだ。
「うーん、そこなんだよね。僕も魔術師の結界で彼を完璧に遮断できるとは思っていないんだ。むしろ心配なのは彼が結界を壊してしまうことなんだよ」
『成る程。伝えておこう』
「助かるよ。いくらお願いしてもブルネイ君の方は話をさせてくれなくてね」
『アレは巫女以外興味がない』
「そのようだね」
彼の用件はこれだったのか、とラズは内心胸を撫で下ろした。それにしても魔術師の結界をものともしないとは、ブルネイとグライオの魔力は相当のものらしい。
「ねぇ! サグホーン。フェイ達にブルネイとグライオを紹介しちゃ駄目かな?」
フェイとはサディア国のフェイロン王子のことだろう。魔術師でも押さえられぬ上位の精霊も、ヘリオにとっては見事にペット扱いだ。無邪気にそんなお願いをする第四王子にサグホーンは少し困った顔で首を横に振った。
「それは止めておいた方が賢明でしょう」
「どうして?」
「彼らは自分の意思でトウライアの王城にいるようですが、上位の精霊というのはそれだけで巨大な力を有しています。サディアが我が国の同盟国と言っても、今回はあくまで外交の場です。自国の持つ力を他国に見せる行為は何らかの含みを持たせていると思われても仕方がありません」
「……そっかぁ」
流石は王家の子息と言うべきか。普通の十一歳には難しい話でも、ヘリオは正しく理解を示している。ただ非常に残念そうではあるが。
『我ら精霊には国など関係ない。故にこの国のために力を振るう事などないが、あの魔術師の言うことは一理ある。無駄な火種は避けるが良かろう』
「うん。分かった」
気落ちしたヘリオを慰めるように長いしっぽで頬を撫でてやれば、見る見るうちに表情が綻んだ。やはりこの黒豹は面倒見が良いらしい。
けれど最後の一言はヘリオだけでなく、魔術師サグホーン=ベレーに向けた言葉のようにラズには聞こえた。
***
「もーやだー!!!」
「こら! ディン!書類を投げるな!!」
黙々と書斎机で書類と向き合っていたかと思うと、突然癇癪を起こした弟に長兄マックは叱責を飛ばした。ここの所サディア王家訪問の為に忙しく、働き詰めなのはお互い様だが、どうやらディンの方が先に限界を迎えてしまったらしい。
「だって兄上!! 俺もう三日もマリアベルに会ってない!」
「……それは俺も同じだ」
弟の基準がマリアベルなことに呆れるが、会いたいのは自分だって一緒だ。会えない時が長いほど彼女の事ばかりが頭を占める。書類に目を通しながらも、ふと集中力が切れた頭を掠めるのは様々なドレスを着て顔を綻ばせる彼女の姿だった。
「兄上……」
「なんだ」
弟の恨めしそうな目線を無視して手を動かす。とにかく今は大詰めの時で、後継者として自分達の評価が問われる仕事だ。手を抜くつもりは毛頭ない。
そもそも通常ならばお互いの執務室で仕事をする二人がこうしてマックの部屋で共に顔を突き合わせているのも、しょっちゅう抜け出しては仕事をサボる弟のせいなのだ。目の前の仕事を早く終わらせてくれ、と願うがどうやら駄目らしい。それを察してマックは深い溜息を吐いた。
「ディン」
「……はーい」
「今一時間抜けるのと、仕事が終わってから夜マリアベルの部屋に行くの、どちらがいい?」
途端にパッと顔を輝かせるディン。はいっ、とまるで学校の生徒のように手を上げて背筋を伸ばす。
「夜がいいです!」
「なら今は手を動かせ」
「イエッサー!!」
先程までのふてくされた顔はどこへやら。急にバリバリと書類を処理し始める弟に現金な者だ、と呆れた顔を向ける。けれど、
(一人で行かせるなんて言ってないからな)
胸の内でそう呟き、マックはほんの少し口の端を上げるのだった。




