32.契約
伏せられていた金色の瞳が間近にある碧眼を捉える。ラズが一つ頷くと、グライオは言葉を続けた。
『我にヒトの歳は判りにくいが、恐らくアレはまだ十にも満たなかったと思う』
黒髪の少年は傷を負い、覆い茂る草花に守られるように臥せっていた大きな黒豹を見て恐れもせずに近づいて来た。そして意外にも彼の傍に座り込み声をかけてきたのだ。
『我の意識も大分薄れていてな、何を言っていたのかまでは覚えておらぬ。けれどアレの魂が傍にあることが酷く心地良かった』
だからグライオも彼の行動を止めなかった。やがてグライオが怪我をしていることに気づいたネイが立ち上がった。恐らく誰か人を呼ぼうとしたのだろう。それにグライオが反応した。
『我が愚かだったのだ』
過去の行動を悔いるようにグライオの眉間に皺が寄る。ラズは彼の前足にそっと触れ、黙って耳を傾けた。
『名を問うてしまった。心地よい存在が傍から離れるのが惜しくて。いくら弱っていたとはいえ、浅はかであった』
少年は何の疑いもなく答えた。ネイザン=ヴィフィア、と。その名を知り、グライオは願ってしまったのだ。自分の傍にいて欲しいと。グライオは上位の精霊。対してネイザンは魔力を持たない、小さな子供。その結果、朦朧とした精神状態だったとは言え、何の抵抗力もない彼との間にグライオは一方的に契約を交わしてしまった。
『契約を交わした瞬間は良かった。我は心繋がる存在に満たされ、背の傷さえも軽減した。だが、同時にネイザンは気を失った』
〈風〉の魔力によってついたものは肉体だけが傷つく普通の傷ではない、精神をも侵す魔傷。契約によって精神が繋がったネイにグライオの魔傷の半分を負わせる事となってしまった。
(あの背の魔傷は、それで……)
一度ラズも目にした背を二つに割るような深く大きな魔傷。古傷だと思っていたが、この時に負った物だったのだ。
『ネイザンのおかげで我の回復は早かった。負担が半分減ったのだからな。しかし何の力もないヒトの子はそうはいかぬ。我は慌てて周囲の精霊に力を借りた。子の傷を治すために』
そして完治迄に一月かかってしまった。その間、気を失ったままのネイはグライオと共に森で養生する事となった。けれど精霊にとっての一月と人にとっての一月は違う。傷が癒えて意識が戻り、村へと帰されたネイに周囲の反応は冷たかった。神隠しかと騒がれ、背中に残った魔傷を見つけられて益々人々はネイを遠ざけた。力のない一般人にとって強い魔術師や精霊によって負う魔傷は不穏の種だ。何か恐ろしいものに目をつけられたのではないかと噂され、彼は村に身の置き場が無くなった。そうしてネイは幼い身で故郷を追いたてられるように王都へ向かう事となったのだ。
『我は本能に負けてアレを深く傷つけた』
「グライオ……」
『体の傷だけではない。村人達に無為に差別され、心を閉ざしてしまった』
自分を責めるグライオにかける言葉など見つからない。あくまでラズは部外者だ。だからそっと彼の背を撫でてやることしか出来ない。
『故に我は傍から離れた。アレがこれ以上ヒトの世から外れてしまわぬように』
「なら、どうして此処へ? ブルネイが言っていた“印を持つ人間”っていうのはネイのことなんでしょう?」
印とはネイの背中に会った魔傷のことに違いない。すると先程までとは違い、グライオはふっと表情から力を抜いた。
『あぁ。そうだ。我はアレに会いに来た。アレが変わったからだ』
「変わった?」
きょとんとするラズを見て、黒豹が人間のように口の端を上げる。
『アレは随分と心を開き、感情が動くようになった。お主のおかげだ』
「……私?」
『あぁ』
そうは言われても心当たりはない。何しろ自分はネイと知り合ってまだ二月ほどしか経っていないのだ。
『王都に来て、騎士団に入ってからヒトへの拒絶は薄れた様だったが、それでも心を動かすには至らなかった。最近アレの感情がコロコロと動くのはお主が傍にいるからだろう』
「はぁ……。そう、なのかな?」
そう言えば、セフィルドのことで怒らせたり心配させたりと色々迷惑をかけている。でも普段共に食事をする時なんかは穏やかだけれど、声を上げて笑ったりする所は見ていない。それでもグライオにとっては嬉しい変化なのだろうか。
「そう言われてしまうと、なんだかネイが腹を抱えて大笑いする所を見たくなってきた」
するとその言葉に黒豹は目を丸くした。そして喉を鳴らして笑う。
『アレが大笑いか。確かに我も見てみたい』
「でしょ? うーん、どうしたら笑うかなぁ」
不意を付いてくすぐってみようか。そんなことを考えていたらベロリと頬を舐められた。
「わわっ!」
『お主は面白い』
「ちょ、びっくりさせないで!!」
慌てて舐められた頬に手を当てるラズにブルネイはぐりぐりと額を寄せる。なんだか甘えているように見えて、ラズはその額を優しく撫でた。
『アレの傍に居てくれたこと、感謝する。リジィターナ』
「え……。なんで名前……」
『お主の〈風〉に聞いたのだ』
「あぁ。そっか」
けれどネイの傍にいたのはたまたま彼が自分の護衛についたから。そこにラズの意思もネイの意思も介入してはいない筈だ。
「でも私は何も……」
『リジィターナ』
「何?」
『いつかアレにもお主の名を教えてやってはもらえないだろうか』
「え? でも……」
『お主にも譲れぬものがあるのは分かっている。今でなくて良い。いつかで良いのだ』
いつか。もしラズが本名を教えることが出来るとすれば、全てが解決してシィシィーレへ帰る時だろう。この城の人達と一切関りが無くなる時だ。
「……うん。分かった」
寂しげに微笑んだ彼女の頬にグライオは自分の頬を摺り寄せた。
自分が彼女の名前を知ったことで繋がったネイザンの心は気づかぬ内に慰められていることだろう。けれど本当の意味で彼の心を満たすには、彼女の口からその名を告げられなくては意味がないのだ。
いつか来るその時を、グライオは一人願うのだった。
***
今、フレアレクの自室には客が一人居る。専門は異なるが同じ塔に所属している右の魔術師ノイメイ。身なりを気にしないボサボサのグレーの髪、その間から時折覗く黄緑色の瞳は凪いでいて、年下だというのにフレアレクよりもよっぽど落ち着きのある人物だ。植物を専門としている彼はよく城内の木々の世話をして一日を過ごしていることや、他の魔術師のようにローブを着用しない事から、彼を魔術師だと正しく認識している者は実は少ない。自分の好きなことをして過ごせれば、出世も外聞も関係ないと思っている彼はフレアレクにとって数少ない安全な同僚でもあった。
緊張と共に身を硬くしているフレアレクに、ノイメイはマイペースな性格を現したようなのんびりとした低音で声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい! この子の精神も今は安定しているようですし。予定通り内から語りかけて契約を結びます」
そう言ったフレアレクの手は自室の噴水の水槽の中で横になっている〈水〉の額に置かれている。端から見れば三十歳前後の男二人が並んで噴水を覗き込んでいるようにしか映らないだろうが、実際はこれから狂ってしまった精霊を正気に戻すための大仕事が待っている。フレアレクが緊張するのも仕方がないだろう。
(……精霊を狂わず魔石)
ノイメイはそもそも人の噂話に興味はないので、巫女と共に滞在しているシィシィーレからの客人がどこで何をしているかなど、フレアレクの話を聞くまで知らなかった。けれどこの国の人口の偏りをもたらした原因となるのが本当にその魔石なら大事だ。
(水の汚染。なら植物、動物にも影響が出る)
静かに横を見れば、水の精霊を見つめているフレアレクの目は苦しげに揺れている。その気持ちは自分もよく分かる。自分達にとって精霊はとても近しい隣人なのだ。
「……行きます」
宣言するように呟くと、フレアレクは目を閉じた。左手は〈水〉の額に、右手は自身の杖を握っている。
人と精霊の契約に特別な呪文や陣は必要ない。心から相手を求め、名を交わせばそれだけで完了する。けれど複雑な手順が必要ない分、そう簡単に成功するものではない。特に今回は失敗すればこの〈水〉だけではなくフレアレク自身にも害が及ぶ危険がある。ノイメイは彼の邪魔をしないよう黙ってその様子を見守った。
フレアレクは慎重に自身の魔力を持った杖に集中した。魔術師の杖には魔力を制御する役割がある。体調や感情に影響されやすい魔力を一定の威力を保って外へ放出するためのコントローラーなのだ。
フレアレクは魔力を一旦杖に集め、極僅かな量に調節してから左手を通して〈水〉に流し込んだ。一度に多くの魔力を注ぎ込まないのは拒否反応が出ないか確かめ、更には眠り続けたままの〈水〉をいたずらに起こさない為だ。紅茶の中に一滴ずつミルクを垂らす様に、静かに魔力を滴下する。じわりじわりと〈水〉の身の内にある魔力をフレアレクのものと馴染ませていく。
最初は順調だったが、十五分程経つと時折〈水〉の体が水槽の中で痙攣し始めた。そろそろフレアレクの魔力の量が多くなり、魔石の魔力とぶつかり合っているのかもしれない。
今、この〈水〉は魔石依存症のような状態だ。体に馴染み過ぎた魔石の魔力のせいで、それが体に供給されなくなる恐怖感からラズ達を攻撃した。だから今度はフレアレクの魔力と入れ替えて、魔石からリハビリさせようとしているのだ。
(大丈夫、大丈夫。私は怖いことなんてしないよ。大丈夫)
心のうちでそう語りかけながらフレアレクは魔力を注ぎ続けた。澱んだ魔力の向こうに〈水〉の心が眠っている。その澱みを掻き分けるように慎重に進んでいく。
(私の魔力を気に入ってもらえれば良いのだけれど。ねぇ、そこから出ておいでよ)
魔力と共に〈水〉の内に意識を沈ませる。すると次第に声が届き始めた。
『……ライ、キライ。人間はキライ。木も花も魚も動物もキライ』
(……どうして?)
声を頼りに澱みを浄化しながら進む。段々と声が大きくなっていく。
『ミンナミンナ、ワタシを独りぼっちにする。だからキライ』
(私のことも嫌いかい?)
『……。アナタだぁれ?』
まるで霧が晴れるように目の前の澱みが澄んだ魔力に変わっていく。そして目の前に現れたのは現実の姿と同じ、けれどそれよりも小さな水の精霊だった。
(あぁ、やっと会えたね)
フレアレクは表情を緩ませた。自分に返ってくる〈水〉からの言葉も感情も魔石に侵された狂気は見当たらない。正真正銘、本物のこの〈水〉の意識だ。
(人間だよ。魔術師をやっている)
『人間……』
そう繰り返す〈水〉から僅かに嫌悪の感情が読み取れる。先程キライだと言っていたものに該当するからだろう。けれど本当にこの精霊自身が人や動植物を嫌っているのだろうか。
(……人間は嫌い?)
『キライ』
(なら、私の魔力も嫌い?)
『……魔力?』
〈水〉はふと自分の中の魔力を探った。体内に満たされる静かな魔力が自分に語りかけている人間のものだとようやく気づいたようだ。そして再度フレアレクに意識を向ける。そこには明らかな高揚感があった。
『コレ、温かくてきれー。キライじゃない』
(良かった……)
『コレあなたの?』
(うん。私の魔力だよ)
『スキ』
(え?)
『コレ、スキ。だからあなたもスキ』
(そうか……)
自分の魔力を気に入ってくれたらしい〈水〉にフレアレクは胸を撫で下ろした。だが、契約はまだこれからだ。握った杖に力を込める。
(なら、私と契約を結ぶ?)
『契約……?』
(そう。契約を結べば私の魔力を君に供給してあげられる)
『コレ、もっとくれるの?』
(うん。勿論量に限界はあるし、契約を結べば君も呼びかけに応じなければならない制約が付くけど。それでも良ければ)
内心緊張しながら相手の反応を待つ。だが、意外にもその答えはすぐに返ってきた。
『する!』
(……へ?)
『する! 契約する!! だからもっと頂戴?』
(わ…分かった)
あまりにもあっさりOKされ、たじろぎながらもフレアレクは胸を撫で下ろした。ゆっくりと息を吐き、言葉に魔力を織り交ぜる。
(私の名前はフレアレク。フレアレク=シュゼン。君の名前は?)
フレアレクの名を聞き、〈水〉はしばしその音を噛みしめる。そして言葉を返した。
『ワタシ、名前ないよ』
(ないの?)
『うん。だからアナタがつけて』
精霊が名を持っていないことは珍しくない。神々に近い上位の精霊は別として、それ以下の若い精霊は名を得る機会があまりないからだ。
(なら、セシュールはどうだろう?)
『セシュール……』
フレアレクの名と同じように自らに与えられた音を反芻する。そして〈水〉は心を高揚させた。
『ステキ! セシュール! ワタシ、セシュール!!』
(ならばセシュール、約束して。私以外から魔力を貰わないこと。私の呼びかけに答え、私の意志の反する所で力を使わないこと)
『うん! 約束する。フレアレク=シュゼンのものになる』
(ありがとう、セシュール)
交わした言葉と同時に胸のうちが熱くなる。その熱にフレアレクははっと意識を浮上させた。僅かに額からは汗が滴り落ち、若干のけだるさを感じる。魔力を使い過ぎただろうか。
「フレアレクさん?」
気遣うような声に右を見れば、心配そうな顔をしたノイメイが自分の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
フレアレクは頷いて、未だ水槽の中の精霊に目を移した。そして手を離し、今度は両手で杖を握って〈水〉の額に眠りの陣の反術を施す。フレアレクと契約を交わした水の精霊セシュールの中にはまだ魔石の魔力が残っているが、もう暴走することはない筈だ。例え暴走しても今はフレアレクが完全に抑えることが出来る。
反術が完了し二人の魔術師が見守る中、水槽の中のセシュールが静かに目を開いた。最初にその青い瞳が捉えたのは自分を覗き込んでいる黒。
『……フレアレク?』
「あぁ。そうだよ、セシュール」
『フレアレク!!』
ザバッと水槽から飛び出たかと思うと、セシュールはフレアレクに飛びついた。完全に不意を突かれたフレアレクはその勢いを受け止めきれずに床にしりもちをつく。それにも構わず、セシュールは彼の頬に自分の頬を摺り寄せた。
『フレアレク――!!』
「ちょ、ちょっと……ま、待って! 頼むから落ち着いてくれ!!」
透明で光を反射して光る長い髪、精霊は当然服など必要としないので、彼に抱きつくその体は当然裸だ。精霊独特の左右対称の美しい顔、見目は人間で言えば十六歳ぐらいの年齢だろうか。
(……犯罪っぽい)
フレアレクが精霊の名前を呼んだ時点で契約が無事成功したことは分かっていたノイメイは暢気にそんなことを思う。精霊はやけに嬉しそうだし、もう自分が此処にいる必要もないだろう。
「良かったですね、フレアレクさん。じゃあ、僕は仕事に戻ります」
契約した自分の精霊にあわあわしているフレアレクにはその挨拶が聞こえていないようだ。まぁいいか、とノイメイは黙って彼の部屋を後にした。




