31.ネイとグライオ
ラズは一人で自室へと向かっていた。コライムからようやく城に帰還し、正午前に馬を返して来た所だ。自室まで同伴しようとしていたネイには騎士団の寮へ直接戻るように促した。馬に乗るのも技術と体力がいる。引きこもりの魔術師とは違い疲れた顔を見せなかったネイだったが、早く休息させてあげたかった。それに何よりラズは早く一人になりたかった。あまりにネイを意識してしまい、共に馬に乗っている間は気が気じゃなかったのだ。
凝った肩を解す様に腕を回しながら城の廊下を歩く。中では文官達が忙しそうに右往左往していた。もうじき隣国サディアの王家が来訪する。城を上げてその準備に追われているのだ。そんな風景を眺めながら、ようやく辿り着いた自室のドアの前でラズはほっと息をついた。
持っていた荷物の中から鍵を取り出し、鍵穴にさしこむ。だが、ひねった所で違和感があった。鍵を回しても解錠した手ごたえが伝わってこないのだ。
(あれ? 開いてる?)
前回と違ってダンに鍵を貸していない。それに今はサディアを迎える準備の為に外部の人間も多く城に出入りしていることから、簡単に合鍵の貸し出しも行わないはずだ。旅に出る前にしっかりと施錠は確認している。となれば、考えられるのは非常事態が起こっているか、不法侵入かの二つに一つ。
一度ドアに耳を当てて様子を伺うも、中から物音はしない。ラズは腰元の剣の柄に手をかけたままゆっくりとドアを開けた。
「お帰りなさい!!」
途端に耳に飛び込んでいたのは明るい少女の声。結い上げられた淡金の髪、楽しそうに細められているのはコバルトブルーの瞳。そして彼女は鮮やかな碧色のドレスを身に纏っていた。ラズを出迎えたのは紛れもなく幼馴染の美しい少女。けれど初めて目にするドレス姿にラズは言葉を失っていた。
「ラズ?」
「え、あぁ……。ただいま」
「ふふっ。お帰り。びっくりした?」
「……した」
ようやく息を吐き、ラズは自室へと足を踏み入れた。肩に担いだままの荷物を床に置き、目の前の少女に向き直る。
「綺麗だよ。すごく似合ってる」
「……本当はこんな格好恥ずかしいのだけど」
「そんなことないさ。これ、今度の夜会で着るドレス?」
「ううん。実は違うの」
「?」
首を傾げるラズに、マリアベルは楽しそうに口を開いた。
「当日は違う色を着る予定なの。でも、ダンがせっかくだからラズに見せたらどうかって」
横を向いたマリアベルの視線を追って、ようやく居間のソファに座っていたダンに気づく。驚いたラズが目を丸くすると、意地の悪い顔でダンが「よぅ」と手を上げた。
「二人してなにやってんの。っていうかどうやって部屋に入った?」
「さぁ。どうやってだっけな」
「ダン……」
「怒るなよ。せっかくマリアベルがドレスアップしてるんだから」
「…………」
それとこれとは別問題だろう。そう言おうとしたラズを遮ってマリアベルがドレスの裾を摘んだ。
「このドレス、ラズの瞳の色と一緒でしょう?」
「え?」
「だから、これを着てラズに見せたかったの」
嬉しそうにマリアベルが微笑む。確かに彼女が着ているのはラズの瞳と同じ碧色のAラインドレス。いわずもがな、彼女にはとても似合っていて、このドレスを作った職人が涙を流して喜ぶだろう。
けれどラズは溜息をついた。マリアベルに他意がない事は誰より自分がよく分かっているが、彼女の常識のなさがまた発揮されてしまったわけだ。
「……マリアベル。このドレスのこと、殿下達の前では言ってないよな?」
「うん。ダンにしか話ていないわ」
「頼むから他の誰にも言わないでくれよ」
「え? どうして?」
あぁ。やっぱり分かってない。
きょとんと自分を見返してくるコバルトブルーをラズは仕方がないな、と生ぬるい目線で見返した。
「相手の瞳の色と同じ装飾品を身につけるのは『あなたの色に染まりたい』っていう古典的な女性からのアピール方法だよ。そんなこと殿下達に言ってみろ。俺はこの城から追い出される」
マックならともかく嫉妬深いディンなら必ずやるだろう。まだ目的を果たしていないのに、男の嫉妬で此処を追い出されたりしたらたまったもんじゃない。
ラズの忠告に案の定彼女は目を丸くした。
「……知らなかったわ」
「だろうね」
それでも彼女が自分に見せるためにわざわざ此処まで来てくれた事は何より嬉しい。どうやったかは知らないが、部屋に忍び込むという方法は抜きにしてもだ。
「また別のドレスを着るなら夜会の時が楽しみだな」
「本当? 嬉しい!」
子供のように抱きつくマリアベルをラズは自然と受け止める。すると何かに気づいたマリアベルがラズの肩越しに首を傾げた。
「あら?」
ラズとダンがその目線の先を追えば、そこにいたのは真っ黒い豹。その姿を確認したマリアベルは顔を綻ばせる。
「もしかして、あなたがグライオ?」
『いかにも』
いつの間に此処に来ていたのだろう。部屋の扉はしっかりと閉じられていて、けれど精霊にそんな物理的なことは関係ないと遅れて思いつく。そんなラズが呆気に取られている内にグライオは長い尻尾をユラユラ揺らしながらマリアベルの前に座った。
『お主がフェルノーイの巫女だな』
「えぇ。マリアベルと申します」
『我の片割れが張り付いているようだ』
ちらりと金色の目がリビング中央のソファに走る。するとそこにはだらんとソファに寝そべる白豹の姿があった。突然目の前に現れたその姿にダンがぎょっとした顔をしている。恐らくずっとマリアベルと共に居たが、姿は隠していたのだろう。
(不法侵入者ばっかりか!!)
思わず突っ込みそうになった口を閉じて光の精霊を見れば、彼は愉快そうに目を細めた。
『張り付いているとは言葉が悪い』
『だが間違ってはおるまい』
『お前も、その様子では見つけたようだな』
『あぁ』
精霊だと分かっていても、二匹の豹が言葉を交わすのは不思議な光景だ。それにしても見つけた、とはやはりネイのことだろうか。
「そう言えば、グライオはネイと一緒に宿舎に行ったんじゃなかったのか?」
厩で分かれた時には確かにネイの後ろについて行った筈だ。すると金色の目がラズを見上げた。
『男ばかりの場所よりも此処の方が居心地が良さそうなのでな』
「はぁ……」
まぁ、確かに騎士団の宿舎は男ばかりでムサいだろう。けれどそんなこと精霊であるグライオが気にすることなのだろうか。
「え、ちょっと待て。ってことはこの部屋に居座るってこと?」
『何か不都合でもあるのか?』
「いや、別にないけど……」
とっくに女であることは知られているのだし、〈風〉達と共に暮らしてきたラズにとってグライオと一緒にいることは苦ではない。けれどてっきりネイと一緒にいるか、ブルネイと行動を共にするのだと思っていた。
微妙な顔をしたラズの考えが読めたのだろう、グライオはブルネイのように目を細めた。
『此処にいればネイザンが来るのだろう? 問題はない』
「あぁ、そっか。そうですね……」
ラズは諦めと共に肩の力を抜いた。どうやら闇の上位精霊と同居するのは決定事項のようだ。
***
フレアレクは悩みに悩んでいた。
彼が今居るのは最も落ち着く場所、自室兼仕事場である。ごちゃごちゃと物が詰まれたデスクの横には直径二メートルほどの小ぶりの噴水。此処の水は王城北東の山から湧き出る清廉な水が通っており、その中に一人の精霊が封じられていた。コライムの泉でフレアレク自身が保護してきた水の精霊だ。魔石によって侵された泉から離れ、今はこの湧き水の中に身を置くことで少しは体内の魔力が癒されているだろう。けれどまだ彼が施した眠りの術を解くことは出来なかった。風の上位精霊達が言っていた“濁った魔力”はこの〈水〉の身の内に馴染み過ぎている。術を解いた所で正気に戻っているとは考えにくい。
(やはり契約しかない)
幸いこの〈水〉なら力でフレアレクが遅れを取ることはない。契約によって精神を繋ぎ、自身の魔力を注いで浄化してやることが出来れば、狂った〈水〉を元に戻せる筈だ。
(しかし問題は……)
心を繋ぐというのは簡単な事ではない。心は魔術で防御できない場所だ。万が一のことがあった時の為に、フレアレクを助けてくれる魔術師に傍に居てもらわなくてはならない。けれどフレアレクは自他共に認める人間嫌いで引きこもりである。そんな根暗な魔術師が一体誰に声をかけることが出来るだろう。
最も良いのは同じく水を専門とする魔術師だ。けれど国内最高峰の“塔”に集まる者達だけあって皆プライドが高い。専門が同じ魔術師同士は互いをライバル視し、ギスギスした関係なのである。実際部屋にある噴水の応用で、より清潔な水を王城に循環させる技術をフレアレクが開発した際、同僚たちには酷く嫉妬の目を向けられたものだ。そんな魔術師達の関係もフレアレクが引きこもる原因だったりする。
(そうだ! グライオさんに頼めば!!)
人間とは違い社会的地位などに縛られない精霊はフレアレクにとって安心な存在だ。グライオなら頼もしい上位だし、馬にも一緒に乗ってくれた。きっと頼めば協力してくれるだろう。しかし、同時に彼の傍に居る存在も思い出してフレアレクは顔を青くした。
(ネ、ネイザンさんという壁が……)
ラズもネイも引きこもり魔術師にとっては恐ろしい存在だった。それでも何度か言葉を交わすうちにラズには慣れつつあったが、何故かネイは逆に自分に対する当たりが酷くなっている気がする。実際コライムからの帰還時も、無表情に自分を見る彼はフレアレクを凍りつかせる程の冷気を纏っていた。
(む、無理だ…。ネイザンさんに会うのは無理だ……)
思い出すだけで体が震える。けれど後は誰に頼めばよいのか。同期のオレゴン兄弟ならばどうだろう。
(ケビィーノなら協力してくれるかもしれない。いや、待て待て。もしもセフィルドに知られたら面白半分に邪魔されるかも。駄目だ。あの男は危険だ)
それにやはり自分と同じく右の魔術師の方がいいだろう。となると、水より優位性を持つ属性の魔術師が良い。
例えば、水は火を消すことが出来る。火は植物を燃やすことが出来る。一方の属性に対して優位である性質を魔術師は“優位性”と呼ぶ。その度合いも様々だが、〈水〉を抑えることが出来る方が良いなら、水に対して優位性を持つ属性を専門とする魔術師の協力が必要だ。大地や植物は水を吸収する。よって水に対して優位性がある。
(木か地……。そうだ!!)
それまで机に突っ伏して悶々と悩んでいたフレアレクはガバッと体を起こした。
丁度良い人がいるじゃないか。あの人ならきっと頼みを聞いてくれるだろう。何よりフレアレクに対して睨みを利かせるようなことも、脅すようなことも絶対ない。
希望の光を見つけ、フレアレクは天に祈るような気持ちで立ち上がった。落ち込んだり浮上したりとやけに忙しい部屋の主を、塔に居付いている〈水〉達が今日も気ままに眺めている。
***
マリアベルとダンが自室に戻り(当然のようにブルネイもついて行き)、部屋はラズとグライオの二人だけとなっていた。やっと一息つける、とラズはお茶を淹れた。するといつの間にか先程まで彼の片割れが横たわっていたソファに黒い姿がある。まるで数分前の再現のようで思わずラズは笑ってしまった。それに気づいたグライオがちらりと金色の目を向けてくる。
『なんだ?』
「いや、ごめん。その位置……」
笑ってしまったことへの弁解を口にしようとして、けれど言葉が途中で止まってしまった。部屋のあちこちからワラワラと黒い小人、もとい闇の精霊達が出てきたからだ。今まで一体どこに隠れていたんだ、という程の量がグライオを中心に集まっている。
「な…、それ……」
『あぁ。我の気が心地良いのだろう』
自分と同じ属性の上位精霊の傍に下位精霊は寄り添いたがる。それは同じ属性の魔力に安心するからだ。自分よりも強い魔力であればある程安心感があるのだという。親に寄り添う子供のようなものだろうか。
「にしたって、こんなに……」
まだ昼間だというのに、ざっと三十人程だろうか。こんもりと山が出来てしまいそうな数だ。
『先程まで巫女とブルネイが居たからな。出るに出られなかったのであろうよ』
「こんなに沢山、初めて見た」
『目にしたことはあるのか』
「うん。ネイが寝ている時に」
その答えに何を感じたのか、グライオの瞳が優しげに揺れた。落ち着きを取り戻したラズはのんびりと部屋を歩いている小人たちを踏まないように気をつけながら、茶器を持ってグライオの向かいのソファに腰を下ろした。
『訊かぬのか』
「え?」
『ネイザンのことだ。気になっているのだろう?』
「……聞いてもいいの?」
『お主なら問題ないだろうよ。しばし長くなるが良いか?』
ティーカップをテーブルに置いて、ラズは真剣な表情で頷く。それを確認し、背中から落ちそうになっている小人を器用に尻尾で掬い上げながら、グライオは口を開いた。
『そうだな。あれは春が終わる頃だった。我は姿を消した友を探していたのだ』
「友?」
『あぁ。お主の知らぬ風の精霊だ。まだ生まれて五十年も経っていないような若造だった』
その〈風〉はよくグライオに話をねだりに来ていたのだと言う。当時ブルネイとは別行動で山の奥にいたグライオは今まで目にした出来事を話して聞かせていた。彼は特に人間の話に興味を示していたのだという。
所が突然その〈風〉が姿を消した。精霊は気まぐれだ。増してや風の精霊は常に移動し、一つの場所に留まることはない。それでも上位の精霊であるグライオが感知できぬ程完璧に姿を消すのはおかしな話だった。その〈風〉には北の森に咲く花々の花粉を運ぶ仕事をまだやり終えていなかったのだ。
姿を消してから一月が経ち、彼を待っていた花々は全て散ってしまった。いくらなんでもおかしいと思ったグライオは森の周辺を捜索した。そして岩の切り立つ崖にたどり着いた。
『普段ヒトの立ち入らぬ森の深い深い場所だ。そこに陣があった』
「……それって魔術の?」
『あぁ。そうだ。明らかにヒトの痕跡だった』
精霊達が生まれ持っている魔力による作用を“魔法”、人工的に魔力を加工する技術を“魔術”と呼ぶ。魔術の代表的なものが陣だ。魔力をエネルギー源として陣に組み込んだ技術で様々な作用を起こす。塔に施された移動陣もその一つである。
『岩に施された陣は魔法を無効化する効力を持っていた』
その言葉にラズははっと息を呑む。
「まさか……」
『そうだ。ヒトが故意に風の精霊を岩の中に封じたのだ』
風の精霊は自由の象徴だ。それは常に一所に留まらず、自由に空気中を駆け抜け、世界を循環しているから。それが強制的に閉じ込められ、動きを封じられたのならば――
『我が岩ごと破壊し、中に駆け込んだ時にはもう遅かった。友は狂っていたよ』
これがもし他の精霊だったならば、閉じ込められたぐらいでは狂わなかっただろう。けれど最も本能的な行動を奪われた未熟な〈風〉は耐えられず、正気を失ってしまった。
『狂った友に我の言葉は届かず、友は身の内の力を全て解放するかのように暴れた。周囲の木々は風の刃で切り倒され、大地はえぐられ、動物達は傷つけられた』
これ以上彼に話をさせてはいけないのではないか、とラズは思った。けれどここまで来たならば聞かなければならないだろう。その後にどれほど辛い結末が待っていたとしても。
ラズは静かに立ち上がり、グライオが横になっているソファの前に膝を付いた。それを察したグライオがふっと息を吐く。鼻先を寄せると、ラズの手が黒豹の頭を静かに撫でた。
『我は友を倒した。そうするしか、もう手はなかった。だが決心が甘かったのであろう。我も深い傷を負うこととなった』
背中を割るような大きく深い傷。朦朧とした意識の中で、それでも友を失った悲しみの方が強く、グライオは〈風〉の友人達に彼の死を伝えるべく森を駆けた。だが力及ばず、途中で力尽き倒れてしまった。
『そこに現れたのがネイザンだった』




