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29.黒豹

 湖に近づけんと暴れる水蛇。その動きがわずか数秒止まった。何故、と考えている暇など無い。その隙を突こうとネイが前に出る。だがそれは第三者によって阻まれた。


『下がっていろ、小僧』


 突然耳に飛び込んできた低く静謐な声。同時に現れたのは夜の闇を具現化したような、何者にも侵されぬ黒を纏った獣。二メートルは越そうかという巨体はしなやかに跳躍し、湖面の上に浮いていた水の精霊の首元に喰らいついた。


「!!?」


 何もかもが突然の出来事でラズとネイは言葉を失う。二人の目の前で苦しげに表情を歪めた〈水〉に噛み付いたまま、獣は湖に向かって落ちていく。だがその寸前、〈風〉達が起こした風でその体を受け止めた。揉み合う様に獣と〈水〉は地面に転がる。それでも獣は獲物を離さない。

 体を地面に押さえつけられた〈水〉が獣の下から抜け出そうと必死に体をよじった時、トンッと軽く額に杖の先が当てられた。持ち主の身長を越す飾り気の無い長い木の杖。魔術師の杖だ。


「“止まりなさい”」


 言葉と共に〈水〉の額に何か模様のようなものが描かれる。するとそれまで暴れていた〈水〉がピタリと動きを止めた。まるで凍ってしまったかのように瞬き一つしなくなる。

 ラズはそれを成し得た魔術師を驚きの表情で見つめた。


「……フレアレクさん?」


 黒い獣と共に表れたのは真っ黒な長髪に真っ黒なローブを着た、右の魔術師フレアレク。〈水〉から杖を除けると、彼は何故かびくびくとした表情でラズとネイの二人を見返した。


「あ…あの、え…とその……」


 相変わらず人嫌いらしい。狂った精霊の動きを止めた姿は実に頼もしい魔術師そのものだったが、ラズ達を前にするとこの怯え様。口がうまく回らないのか、口元で何事かを呟いているようだがちっとも言葉になっていない。なんだか可哀想になって、ラズは極力彼を怖がらせないよう離れた距離のまま話しかけた。


「助かりました、フレアレクさん。でもどうして此処へ?」


 彼は引きこもりだと同期のケヴィーノに聞いている。私用でこんな所まで来るとは考えにくい。するとその答えを返したのは動揺しまくりの魔術師ではなく、彼と共に精霊の暴走を止めた黒豹の方だった。


『我が連れてきたのだ。此処に来るにはこやつの魔術を使った方が遥かに速いのでな』


 黒豹はするりと覆いかぶさっていた〈水〉の上から退き、ラズとネイの前に移動する。ネイの視線が黒豹を追っているから、彼にもこの獣の姿が見えているらしい。それを確認して、ラズは言葉を返した。


「はじめまして。あなたは闇の精霊ですね」

『いかにも』


 混じりけのない黒の毛並み。二つの瞳はまるで夜空に浮かぶ月のような金色をしている。魔力を持たない者には分からないだろうが、目の前の黒豹は闇の精霊だった。それもかなり上位の。その姿を見て思い出すのは王城に現れたもう一匹の豹。


「光の精霊ブルネイとよく似ていらっしゃいますが、お知り合いですか?」

『あぁ。あれは同時に世界に生れ落ちた、我の兄弟のような存在だ』


 それだけ言うと黒豹はラズからネイへと視線を移した。上から下まで眺め、そして何かを確かめるように一度頷く。


『久しいな。ネイザン=ヴィフィア』

「……俺?」

『我を忘れたとは言わせぬぞ』


 そう言って黒豹は金色の瞳を細めた。そこにはどこか彼の反応を楽しむような愉悦が含まれている。だが当の本人に心当たりはないらしく、ネイは困惑の色を隠せない。


「すまない。どこかで会った事が?」

『なんと。覚えておらぬのか。まぁ、あの時お主は幼い身であった故、仕方のないことかも知れぬが』

「俺が、幼い時?」

『左様。我はお主に命を救われた』

「……そんな覚えはない」


 思い出せないというネイの言葉にも黒豹は落胆した様子を見せない。どうやらこの〈闇〉にはそこまで予想出来ていたらしい、と端から見ていたラズは思う。恐らく困っているネイを見て彼は楽しんでいる。その証拠に背に隠された尻尾がユラユラと機嫌良さげに揺れていた。


『再会の挨拶はそれくらいで良いだろう』


 声をかけたのは〈風〉の一人だ。彼の目線は横を向いている。その先に居るのは倒れたままの〈水〉と、脇で膝を着いているフレアレクだ。


『あれはどうする?』

「フレアレクさん」


 ラズが近づくと彼は顔を上げた。そこには既にビクついた様子はなく、どこか苦しげに眉根を寄せている。


「その〈水〉はどうですか?」

「……今は魔術で拘束し、動きを止めています。でも……」

「何か?」

「こちらから“語り”かけても反応が返ってこないのです。この子の思考に一瞬触れたのですが、頭の中はただ何かを守ろうとする意思で一杯で……」


 その何か、が恐らく魔石なのだろう。〈水〉自身の意思をも希薄にするほど、魔石の力がこの精霊を支配しているのだ。


「元に戻してあげることは出来ないのですか?」

「……。可能性があるとすれば、契約でしょう」

「この精霊と契約を? でもそれは……」


 光の精霊ブルネイがマリアベルに迫った人と精霊の契約。結べばお互いの精神的絆が深くなり、どれほど遠くにいても意思疎通ができる。効力に個人差はあるが、人は契約した精霊の力を行使することが可能となり、反対に精霊は人の魔力をエネルギー源として得ることが出来る。通常契約は人と精霊の力が同等の場合に行われる。どちらか一方の力が強過ぎれば、弱者が搾取されるだけとなってしまうからだ。


『良いのか? その〈水〉と契約すれば狂った心と繋がるのだぞ』


 二人の会話を聞いていた黒豹の忠告にラズははっと息を呑んだ。

 恐らくフレアレクはこの〈水〉と契約することで一瞬しか触れられなかった精霊の精神との繋がりを深くし、互いの心が剥き出しになった状態で直接“語り”かけようとしてるのだ。この精霊を救う方法として契約を考えていた時から、誰に任せるでもなく自分自身で行うと決めていたに違いない。


「フレアレクさん、危険です」

「しかし、それ以外に方法はありません」

「でも……」


 ぼさぼさの髪の隙間から覗くいつも合わなかった彼の黒檀の瞳とぶつかる。自身の人嫌いを忘れるほど彼が真剣なのだとそれだけで分かる。魔術師としての実力を疑うわけではないが、それでも彼が危険にさらされる可能性があるのならば避けるべきだ。


「なら、せめて城に戻ってからにしませんか? ここでは万が一のことがあった時あなたを助けられる者がいません。塔なら力になってくれる魔術師の方がいるでしょう?」

「……そうですね。分かりました」


 彼は心配そうに〈水〉の額に当てていた手を外して立ち上がった。そして再び精霊の額に杖の先を当てる。


「“座標一九三四四七、六六五八八九、四五零三五九”」


 言葉と共に大きな模様が地面に描かれる。ネイは以前見たことのある移動の陣だ。外側を囲む円の端と端が繋がると、同時に〈水〉の姿が消えた。


「…フレアレクさん」

「あの子は僕の部屋の噴水の中に移動させました。睡眠状態のまま移動したので、僕が部屋に戻るまでは逃げることはない筈です」

「そうですか」


 何故、と単純にラズは疑問に思った。何故彼は己の危険を顧みずに〈水〉と契約を交わそうとしていたのか。右の魔術師は自然の中に存在する魔力を専門とする者達だ。つまり自然エネルギーの塊である精霊達の力を研究する者達なのである。そうなれば当然水を専門としている彼は〈水〉達と懇意にしていることだろう。だがそれだけで、初めて会った精霊の為に己を危険に晒せるものなのだろうか。もしかすると己の研究に対してそれ程までに情熱や執着を持ち得なければ、魔術師のトップが集まる塔に入ることは出来ないのかもしれない。


「ラズ、魔石だ」

「え?」


 背後からのネイの声に振り返る。彼が指差したその先にあるのは湖の中心。透明度の高い水の底から赤黒いぼんやりとした光が見えていた。最初に湖を見た時には全く気づかなかったのに。


「本当だ。でも何故?」

『恐らく、あの〈水〉が隠していたのだろう』


 イーシャの魔石は発光していなかった。まさか、あの光はあれよりも強い魔力が漏れている証拠なのだろうか。


「取りに行くんだろう?」

「うん。でも……、以前のように直接取りに行くのは危険かもしれない」


 〈水〉と同様魔力の影響を強く受ける可能性がある〈風〉達には頼めない。かといって、前回同様ネイが魔石の傍に行っても安全だとは言い切れない。


『アレが欲しいのか?』


 そう言って湖に向かっていく黒豹。まるでその辺の木の実を取りに行くような軽い様子に慌ててラズはその背を追いかけた。


「ちょっ、ちょっと待ってください! あれは危険です!」

『あぁ。不味そうな魔力が漏れているからな。それくらい言われなくても分かっている』


(ま、まずそうって……)


 それこそ木の実じゃないんだから。そう突っ込みそうになるのを堪えれば、黒豹は器用に口の端を上げ、ニヒルな笑みを見せた。


『触れずに取り出すくらい容易い事。お前達がその後どうするかは知らんが』

「そんなこと出来るんですか!」

『出来ると言っている。あまり疑うと手伝ってやらんぞ』


 喉の奥で小さく笑っているのが分かる。やはりこの黒豹はこの状況を楽しんでいるようだ。先程の表情といい、他の精霊よりもどこか人間くさい。


「あ、すいません。じゃあ、布を敷きますのでそこに置いてもらえますか?」

『それだけで良いのか?』

「はい。あの魔石は水を介して魔力を広めることが分かっています。十分に乾かしてからなら人が触れても問題ありません」

『承知した』


 黒豹が湖の一歩手前で足を止める。彼の後ろに立ったラズは、その横に用意していた厚手の布を敷いて彼の動向を見守る。

 すると黒豹の影が動いた。音もなくスーッと泉に向かって伸びていき、それは湖中央に沈んだ魔石にまで達する。そして発光する魔石を包んだ。闇の力が働く影に包まれた石は光を遮断され、唯の黒い塊となって影の手に掴まれる。今度は黒豹の影が縮み、意思を持った生き物のように湖の中から上がると魔石を布の上にそっと下した。影が引き、黒豹の足元に戻る。


「……すごい」


 闇の力で包まれたままの魔石は黒く、ラズが近づいても何の魔力も感じない。魔石に宿った力は完璧に闇によって遮断されているようだ。


「ありがとうございます」

『礼を言われるほどの事ではない。何故お主らがこんなものを手にしたいのかは知らぬが、あまり良い趣味とは言えんな』

「流石に趣味ではないですが、助かりました」


 黒豹の言い様に苦笑しつつも再度お礼を言えば、満更でもないのか再び満足そうに長い尻尾が揺れる。なんだか面白い精霊だ。


「申し遅れましたが、俺はラズと言います」

『うむ。そなたはネイザンのヨメ「わ――――――――――!!!!」


 明らかに“嫁”と言おうとした闇の精霊の言葉を慌てて打ち消した。

 ラズは勿論今日も男装している。けれど精霊は外見や服装など見目で人を判断しない。あくまでその者の本質、生物ならば魂を見る。それ故、精霊の前で変装など役に立たず、ラズのことは最初から女と分かっていたのだろう。嫁というのは勿論誤解だが、何より女であるとネイやフレアレクの前でバラされるのは困る。

 その時ふわっと風が舞い起きた。ピクピクと黒豹の耳が動いたと思ったら神妙な顔で頷いたので、恐らくこっそり〈風〉達が事情を知らせてくれたのだろう。続いてラズのことを上から下まで眺めたと思ったら、黒豹は面白そうに金の目を細めた。その表情はマリアベルにべったりな光の精霊ブルネイによく似ている。


「……俺は、ネイザンに世話になっている城の客人です」

『ふむ。ネイザンは忘れているようだが、我はグライオと言う』


 ちらりと目線を投げかけられ、ネイは僅かに眉を潜ませた。恐らく名前を聞いても思い出せなかったに違いない。ネイとはどこで? と喉から出かかったが、それをラズの口から訊いても良いのか分からず、その話題に触れるのは止めた。


「マリアベルからウェイバーンのサーカスに出ていると聞きましたが」

『あぁ。王都まで馬車に乗せて貰う代わりに手伝うと約束したのだ。気の良い人間ばかりでな。中々面白い体験だった』


 彼もブルネイ同様上位の精霊だろうに、人間の中で生活することを面白いと評するとは変わっている。自然と共存する精霊は上位であればある程、独特の社会を作っている人間を厭う傾向がある。神に近いとされる彼らは滅多に人の前には姿を現さず、契約などの縛りや利益関係がなければ人とは関わらないものだ。それなのに自分から近づくどころかサーカスの猛獣として芸までするなんて……。


「それにしてもどうして此処へ?」

『サーカスが最終日を迎えたのでな。ネイザンの顔を見に来たのだ。せっかく王都に着いたと思ったら姿がないので驚いたが』


 まるで久しぶりに孫の顔を見に来た祖父のような話しぶりだ。本当にネイとはどんな関係なのだろう。


「ネイがここにいるって良く分かりましたね」

『同胞に聞いた。〈水〉と何やら揉めていることもな。そこにあの男がおったのだ』

「あのって、フレアレクさんですか?」

『左様』


 彼は同属の〈闇〉からネイがコライムへ出発したことを聞いたらしい。王城にも当然ネイを慕う〈闇〉がいるから情報を得るのは簡単だったろう。一方フレアレクも自分と懇意にしている〈水〉達からこの湖に狂ってしまった精霊がいると聞かされていた。ラズ達によって姿を現し、暴れている彼女を助けて欲しいと訴えられていたのだ。〈闇〉達からその一部始終と、彼が水辺なら移動魔術が使えることを知ったグライオは半場無理やり彼に協力を申し入れ、共に此処に来たのだと言う。

 黒豹に凄まれ怯えるフレアレクが容易に想像出来て、ラズは心の中だけで彼に同情した。


 その後、〈風〉達に手伝ってもらい完全に魔石を乾かすとラズ達は撤収を始めた。そこでハタと思い立つ。


「俺達は宿に戻りますが、フレアレクさん達はどうします?」


 フレアレクは魔術を使って城に帰還することも出来るだろうと思っていたのだが、返答に困っている所を見るとどうやらそうもいかないらしい。


「それが、〈水〉の協力がなければ移動魔術は使用できません。来る時は王城の〈水〉がいましたが、ここに精霊はいないので…その……」


 自分自身が移動する魔術と先程〈水〉を移動させた魔術とは根本的に術のレベルが違う。つまりはラズ達と共に馬で帰るしかないのだ。それを理解してラズは一つ頷いた。


「じゃあ俺たちと一緒に行きましょう。宿はそんなに混んでいませんでしたから、まだ部屋はあると思います。それで、グライオはどうしますか?」

『我も共に行こう』


 こうして、三人と一匹(?)は共に村へ戻る事となった。〈風〉達はいつの間にか姿を消していたが、グライオはそのままネイの横を歩いている。その不思議なツーショットに、彼らの後ろを歩くラズは自然と頬が緩むのを抑えられないのだった。

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