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28.水

 

 空は快晴。頬を撫でるのは涼やかなそよ風。旅路も良好で絶好の旅日和だというのに馬に揺られているラズの表情は冴えない。


(納得いかない……)


 内心そう呟くラズの頭の中には城を出発した時の光景が浮かんでいた。



 今朝、早くからラズとネイはコライムへ旅立つ為馬舎へと向かっていた。その途中でマリアベルとダンに会った。マリアベルは毎朝の礼拝の帰り、ダンは朝食の前にわざわざ見送りに来てくれたのだと言う。勿論それはとても嬉しいことだったが、問題はその時の二人の表情だ。


「いってらっしゃい。ラズ、ネイザンさん」

「二人とも気をつけて」


 笑っている。二人ともキラキラしたもっそい良い笑顔で手を振っている。

 正直、もう少し寂しがってくれると思っていた。そりゃあ、お互いもうそんな子供じゃないけれど、前回の時はもう少し寂しそうな顔をしてくれたではないか。あれから一ヶ月しか経っていない筈なのにこの変わりようはなんだ。あの頃より二人とも随分仲良くなったようだから、もう自分は必要ないって事なのか。


「……あ、あぁ。行ってきます」


 顔を若干引きつらせながら、ラズは二人に背を向けた。そのまま馬舎へ向かい、鞍をつけて待ってくれていた世話係りから手綱を受け取って城門を出たのだった。


「腹でも痛いのか?」


 併走している馬上からかけられたズレた言葉にラズは苦笑した。余程自分は難しい顔をしていたらしい。横を見れば本気で心配しているネイの顔がある。


(ま、いつまでも不貞腐れている場合じゃないよね)


 王都を出て三時間、そろそろ馬を休ませてやらなくてはならない時間だ。


「いや、体調に問題はないよ。ちょっと考え事してただけ」

「そうか。もうすぐリッスンに着くそこで休憩にしよう」

「うん」


 前方に目を向ければ遠くに赤い屋根の多い町が見える。リッスンは小さいが王都からの商人が多く通る為、流通がよく、商業の発展している町だ。今の二人のペースなら後三十分って所だろう。

 ラズは馬を労わる様にその鬣を撫でながら、一度だけ王都の方向を振り返った。





 ***


「やはり瞳に合わせて青が良いんじゃないか?」

「いや、ドレスはやっぱり赤だろう」

「僕は薄いピンクがいいと思います」


 王子達の口から次々と違う色を勧められ、マリアベルは困ったように笑った。彼女の隣では今日も招かれたユーリィが口に手を当てて楽しそうに「あらあら」と微笑んでいる。


 先日、夜会の準備の為にユーリィを紹介されたマリアベルは、早速ドレス選びに着手していた。亡き王妃が使用していた衣裳部屋の使用を許可してもらい、昼食を終えた後、様々な色やデザインのドレスの見本を見ている最中だ。ユーリィと二人で相談するものだと思っていたのだが、いつの間にか現れた王子達もそれに加わっていた。因みに青はマック、赤はディン、ピンクはヘリオのオススメである。


「ダリオン殿下はどのお色が良いと思います?」


 黙って(半ば呆れた様子で)兄弟達の様子を見ていたダンにユーリィが声をかける。全く口を挟む気のなかったダンは、慌てて衣装部屋に並べられたドレスを眺めた。


「そうだな……。俺は緑かな? シィシィーレの巫女衣装は白地に緑の刺繍が入っていたけど、あれは良く似合っていた」


 マリアベルが初めて登城した日のことを思い出しながらそう零すと、ユーリィも納得したように頷いた。


「そうですわね。マリアベル様の髪や目の色を考慮すれば青や緑がお似合いだと思います。薄い桃色も素敵ですが、お年を考えると少し子供っぽいかもしれませんわ」

「じゃあ、赤は?」


 やはり自分の選んだ色を着てもらいたいのだろう。ディンが念を押すと、彼女は苦笑した。


「赤は女性である事を強く意識させる色ですから。マリアベル様は神殿の巫女としてご紹介されるのでしょう? それを考えれば赤はイメージと違うのではないかと」

「成る程。衣装一つとっても色々あるのですね」

「えぇ。夜会には多くのご令嬢・ご夫人が参加されますが、自分よりも目上の方とドレスのデザインが同じになってはいけない、など暗黙のルールもございます。ですので上の方ほどドレスを先に作るものなのですよ」

「へぇ……」


 貴族の女性達のマナーなど今まで触れる事のなかったマリアベルにとって何もかも初めて聞く話ばかり。やはりユーリィに手助けを求めたマックとディンの判断は正しかった。目を白黒させているマリアベルに、さっそくユーリィは青のドレスを手渡した。


「皆様のアドバイスは勿論ですが、マリアベル様のご希望に沿うのが一番です。ドレスは少しでも気になったら色々試してみるのが最善ですわ。さ、こちらを鏡の前で当てて見ましょう」

「あ、はい!」


 一口に青と言っても薄い水色から濃紺までバリエーションは豊富にある。緑も同様濃淡に加え、黄緑から青緑まで様々だ。そこにドレスのデザインが加われば、それこそ数え切れない程。神殿にいた頃は毎日同じ巫女装束だったマリアベルからすれば目が回るような量だった。


「あぁ、やっぱり青が似合うね」


 鮮やかなマリンブルーのドレスを胸に合わせたマリアベルの横にマックが立つ。自分の選んだ色を試してくれているのが嬉しいのだろう。その頬がいつも以上に緩んでいた。


「もう少し濃い色も似合うと思うけど、紺までいってしまうと年齢が高めかな?」

「えぇ。そうですわね。紺色は四十代ほどのご婦人が好まれる色ですから。マリアベル様ならこれくらいの明るいお色がよろしいと思いますわ」

「ならこっちはどうだ?」


 そう言ってディンが持ってきたのは春朝の空の色のような薄いスカイブルー。柔らかい印象のその色は、マリアベルの白い肌に映えて柔らかい印象を与えている。


「あぁ、これもいいね」

「だろう?」


 残念ながら赤を却下されてしまったディンは、次の提案が好評で満足気な顔を見せた。すると負けじとばかりにヘリオも加わってくる。いつの何か自分以上に張り切る王子達から次々ドレスを手渡され、マリアベルは忙しく立ち回る。更には形や装飾の話も加わって、ユーリィの助言を受けながら、結局ドレスのデザインが決まったのはそれから二時間後の事だった。





 ***


 深い森に覆われた湖。陽の光は僅かに木々の間から零れるものだけで、朝だというのに全体的な印象は暗い。それでも目の前の光景が美しく見えるのは、湖の水に僅かな濁りも澱みもないからだろう。澄んだ水には魚どころか水草さえ生えてはおらず、ラズは一月ほど前に見た泉を思い出していた。


「同じだな」

「あぁ。なら、ここにも魔石が?」

「その可能性は高い」


 イーシャに存在した魔石の魔力によって侵された泉。それより遥かに大きなこの湖からも僅かな魔力を感じる。決して魔術に長けている訳ではないから、ラズにはそれがどんな種類の力かまでは判別つかないが。

 湖へと近づきその湖面を眺めていたラズは、しばらくすると顔を上げて何もない空を見た。


「どう思う?〈風〉」


 すると二人の周りで一陣の風が吹いた。肌に触れると柔らかく感じるその優しい風は瞬く間に人の形をとる。そして美しい男女が現れた。


『確かに感じる魔力は同じだ。だが……』

「どうしたの?」


 整った眉を潜めたのは男性的な見目をした風の精霊。彼は湖面を厳しい目で見つめている。そこに女性的な見目の〈風〉が言葉を継いだ。


『イーシャの時とはちょっと違うの』

「違う?」

『えぇ。多分、ここには水の精霊がいるわ』


 水辺に精霊が居るとしてもおかしな事ではない。猛る炎からは火の精霊が、土から芽が出れば木の精霊が、風が吹く場所には風の精霊が自然と生まれるものなのだ。川や湖など水辺には水の精霊が生まれ、集まるのは自然の摂理。だが――


「この湖にも〈水〉が……?」


 気がかりなのはここが唯の湖ではない、という事だ。今は魔術師達によって解析が続けられているあの魔石がもたらす効果。あくまで推測だが、それは生命の繁殖力を奪うことだとラズは見当をつけている。その為に魔力に侵された水には生物が住み着かず、不自然なほど美しい水を湛えているのだと。そしてその水がこの国、トゥライアの呪いの原因であると。

 自然から生まれ、自然と共に生きていく定めの精霊がもしこの湖にいるのだとしたら、精霊自身に一体どんな影響があるか分かったものではない。魔石の魔力に侵されぬほど強い力の持ち主ならば問題はないが、もしそうでないとしたら?


「すぐに魔石を見つけないとマズイな」

『我が様子を見に行こう』

『私も行くわ』


 状況をすばやく悟った二人の〈風〉はすぐに行動を開始した。その名の通り自由に空気中を飛び回ることができる彼らは湖面の上を滑る様に移動し、澄んだ水の中を覗いて魔石を探す。

 それまで口を挟まずにいたネイがラズの隣に立った。魔術や精霊に縁のないネイは彼らの会話だけで今の状況が理解するのは難しい。せめて邪魔をしないようにと控えていたのだった。


「ラズ。ここが『竜神の湖』というのは本当のようだな」

「あぁ。魔石を獲って帰ったら村の人々には恨まれるかもしれないね」


 ラズが王城の図書館から見つけた民話の本。そこにあったのはこの辺りに伝わる御伽噺。人々の愚かな行いに荒れる竜神を慰めた娘。そして最後に残された宝玉。その題材となった湖がこの場所だ。昨晩泊まった宿の主からもここがそうだと教えられて来たのだが、その時の表情はどこか誇らしげだった。きっとこの湖が村の人々の自慢でもあるに違いない。

 湖から魔石が無くなれば生き物達が戻るだろう。草や苔が生え、微生物が増え、それを餌にする魚や鳥たちが集まる。そうなれば水は濁り、美しい湖はどこにでもある湖へと姿を変える。けれどそれが本来の自然の姿なのだ。それをどう捉えるかはこの村の人達次第。

 責められてもきっとラズは本当のことを彼らに話さず、甘んじてその責めを受けるだろう。そうネイは思った。この国で生活している人達を悪戯に不安にさせない為でもあるが、ネイから見たラズはどこか自分を犠牲にして物事を収めようする所がある。そのせいでラズが傷つくような事が無いよう自分が守らなければ、とも思うのだ。

 真剣な表情で湖の上を移動する〈風〉達を見ているラズの横顔を盗み見ていたその時、ネイはざっと鳥肌が立つのを感じて息を飲んだ。反射的にその手が剣の柄を握り、背にラズをかばう。


「あれは……」

「…〈水〉だ」


 睨む様に前を見たネイの背後で、ラズが掠れた声を零した。

 二人の目の前に現れたのは半透明の体を持った水の精霊。細い腰に丸みを帯びた体つき、足の長さまである長い髪も体同様透き通っている。その顔は人にはありえない完璧な左右対称で、腕の良い彫刻家の手によって作られた像のように美しい。ラズの友人である〈風〉達に似ているが、その体は湖面のように澄んだ水の塊で構成されており、その瞳は色を持たない〈風〉と違って深い海の底のように青い。

 現れた〈水〉は無表情。けれど明らかな敵意を彼らに向けていた。その証拠に魔力による重いプレッシャーが今も二人を襲っている。

 ネイは奥歯をギリッと噛み締めた。今彼の手は騎士の証である剣を握ってる。それを鞘から抜かないのは相手の出方を窺っているからではない。抜けないのだ。人や獣を相手に戦ってきたのとは明らかに違う何かが、ネイの動きを強制的に止めている。


(これが精霊の力か……)


 ならばなんと強力な。ラズを背に庇う事が出来ただけで僥倖だったのかもしれない。


『無理に動くなネイザン。腕が駄目になるぞ』


 いつの間にかラズ達の前に二人の〈風〉が移動していた。精霊の魔力に対抗しようとしていたネイの腕に、〈風〉の一人がそっと触れる。


『今はじっとしていて。あの子、私達の話が通じそうに無いの』

『恐らく、あれは狂っておる』


(狂う?)


 精霊が狂うなんてことがあるのだろうか。怪訝な顔をするネイに、言葉を返したのはラズだ。


「人と違って精霊には肉体がないだろう? 精霊は言わば魔力の塊なんだ。その分人や動物よりも魔力は強いが、逆に外部からの魔力の影響を受けやすい」

「この湖に精霊がいるとマズイというのはそういう意味か」

「あぁ。魔石の魔力に侵された水と共に暮らす精霊が居れば、確実に影響を受けている筈だ。自然の摂理から離れてしまった精霊が無事である可能性は低い」


 それ故に、目の前の精霊は狂ってしまった。同胞の言葉が届かぬほどに。

 自然と共存し、女神の恩恵を受けているシィシィーレ島で育ってきたラズは当然狂った精霊に会ったことがない。冷静に状況を分析しているように見えてもその実焦っていた。確実にこの精霊は魔石を持ち去ることを許さないだろう。どうやって目の前の〈水〉を抑えるか、対処法など自分は知らない。


『来るぞ』


 すっと〈水〉の長い指が何かを指すように持ち上がる。すると同時に操られた湖面の水が四人に向かって襲い掛かってきた。三メートルは越そうかという水の塊。直撃すれば人間であるネイもラズも無事ではすまない。


『させないわ』


 二人の〈風〉が同時に腕を振る。すると強力な突風が吹き、水柱の方向を曲げた。狙いは反れるが、〈水〉の攻撃はこの一回では終わらない。次々に巨大な蛇のように動く水柱が湖面から伸びてくる。


「まずいな……」

「ラズ?」

「水と風では相性が悪い」


 〈風〉達は懸命に突風を起こして水柱を押し返し、方向を変えて避けている。けれど決定打にはならない。あくまで防戦一方だ。風そのものでは水を消滅させることも動きを止めることも出来ないだろう。

 襲い掛かる水蛇の数が増え、〈風〉達だけでは避け切れなかった一匹がネイに向かって鎌首をもたげた。


『ネイザン!!』

『ラズ!』


 だが操る水蛇が多い程〈水〉の集中力も散漫になる。その隙を突いてネイは剣を抜いた。自分に向かって振り下ろされる水蛇を頭から一刀両断にする。けれどほっとしたのもつかの間、二つに裂けた水蛇はすぐに一つに戻って体を横薙ぎに振るう。ラズの腕を引きながらネイが再び斬り裂くが、相手は水の塊。勢いは殺せても剣ではダメージを与えられない。


「キリが無いな……」


 自身も愛用の細身の剣を抜きながらラズが呟いた。湖面の上にその身を浮かべた〈水〉は一歩も動かずに水蛇を操り続けている。このままでは防戦一方どころか、体力がなくなった所を襲われるのは目に見えている。


(退くしかないのか)


 荒れ狂う水蛇とは対照的な意思の見えない静かな瞳がこちらに向けられる。〈水〉と目があった。そう思った時、ラズの耳に獣の唸りが聞こえた。

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