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26.独占欲

 

「ん…、ぅん……」


 肌の上を何か生暖かいものが這い回っている。マリアベルはその感覚に身をよじった。だがその何かは自分から離れようとしない。緩慢な動きで眠りから目を覚まそうと瞼を開けると、そこは普段使用している客室のベッドの上ではなく、どこまでも真っ白な何もない空間だった。


「え……?」


 驚き目を瞬く。しかし再びざらりと何かが太ももを触れる感触に、無防備だったマリアベルは思わず声を上げてしまった。


「あっ!! …あなた……」


 目を下に向ければ、そこには白豹の姿。今日知り合ったばかりの光の精霊、ブルネイだ。彼は真っ白な夜着からはみ出たマリアベルの太ももに猫科特有のざらつく舌を這わせていた。


「ブルネイ? 何して……」


 ちらりと銀の瞳が自分の名を呼んだ彼女を見る。だが行為そのものを止めるつもりはないらしい。膝から脛、そして指の先まで丹念に舐め上げる。その感触にマリアベルは身震いした。


「やっ……、止めて。ブルネイ……」


 後ろに後ずさり逃げようとした瞬間、ブルネイが素早い動きで覆い被さる。上半身を起していたマリアベルは両肩を前足で押さえつけられ、そのまま倒されてしまった。けれど真っ白な空間の床は固い感触を伝えてこない。痛みも冷たさも感じない不思議な場所だ。

 間近に迫った白豹の顔が驚く少女を目の前にして楽しそうに目を細める。


『我から逃れられると?』

「……ブルネイ?」

『マリアベル。我はお主が欲しい』

「どういうこと?」


 ペロリ、と軽く豹の舌が桃色の唇を舐める。


『契約をするか、我と交わるか、好きな方を選ぶがいい』


 銀色の瞳が、揺れるコバルトブルーを映した。


「でも、契約は……」


 精霊と契約をすれば互いの魂が繋がる。ブルネイはマリアベルの呼び声に応えて召還され、その代償としてマリアベルは体内の力をブルネイに与える。そして彼女の命が尽きるまで、ブルネイは契約に縛られる事になる。


『ならば交わるか?』

「っあ!」


 不意に耳を舐められ、ぞくぞくとした感覚が走る。“交わる”の意味が分かって、マリアベルは顔を赤くした。


『我は人間の男のようにお主に痛みや苦しみを与える事はない。快楽のみでお主を包み、極上の時間を与えよう』

「…そ、んな……」


 何もかも突然過ぎて頭がついていけない。どうしてブルネイはこんなことを言い出しのだろう。

 マリアベルは幼い頃から沢山の精霊達と接してきたが契約を結んだことはない。彼らは友人のような存在であって、従属させるべきものではないからだ。それに神官や魔術師の中には精霊と契約を交わして力を得る者はいるが、そもそも巫女であるマリアベルに強力な力など必要ない。

 また、彼の言っている“交わり”は人間の男女が行う愛の営みそのものの事だ。この行為には繁殖以外にも意味があることをマリアベルも知っている。けれどそこには互いを思いやる気持ちがなくては。何より、愛を交わす以外での使用方法など考えた事もない。


『王子達に操を立てているのか? 気にする事はない。ここは精霊のみが存在する亜空間。交わるのは精神だけで現実の肉体に触れる訳ではないのだから』

「ひぁっ」


 夜着の上からブルネイの鼻先が胸の辺りをつつく。鼓動が落ち着かない音を立て、マリアベルは羞恥で自分の顔が熱くなるのを自覚した。この生々しい感触が現実ではないなんて信じられない。けれど精霊は決して嘘をつかないと彼女はよく知っている。

 混乱している間にブルネイの顔が下がっていく。その先を意識してしまい、マリベルの顔が一気に赤くなる。余りの恥ずかしさにコバルトブルーの瞳に涙が滲んだ。


「や……、やだ…。ブルネイ……」


 震える声に白豹は顔を上げる。怯えた巫女の姿を目の前にして、ブルネイは宥めるように彼女の首筋に頬を摺り寄せた。


『すまぬ。気が急いてしまったようだ』


 これ以上は何もしない、というアピールだろう。マリアベル上から体を避け、擦り寄るように隣に身を横たえて両前足の上に顎を乗せた。


『だが、我はお主が欲しい。それは諦めぬ』

「どうしてなの、ブルネイ」

『お主を我のものにしたいのだ。それだけでは不満か?』

「……分からないわ」


 ポロリ、と雫が一つマリアベルの白い肌を伝う。ブルネイは上半身を起し、涙の後を辿るように頬を舐めた。


『泣かせるつもりも怖がらせるつもりもなかった。ただお主と会ったあの瞬間の喜びが大き過ぎて暴走した。すまぬ』


 マリアベルは首を横に振った。彼が自分の事を大切に思っているのだと伝わったからだろう。嘘のない彼のストレートな言葉は、何より信頼に値するものだ。


「もう大丈夫。でも、その……、交わるって言うのは……」

『契約と同等までとはいかぬが、我と交わればお主の力が高められる。お主の体を我の力で満たし、我は……お主を護りたい』

「護りたいって思ってくれるのはとっても嬉しい。私だって、ブルネイに何かあれば力になりたいって思うもの。でも……」

『交わりには抵抗があるか?』


 マリアベルはおずおずと首を縦に振った。ブルネイはしゅんとしてその耳が垂れ下がるが、仕方がないと息を吐く。


『お主もいずれ婿を迎えてその身で経験するだろう。それまでは待つ。だが、現世の肉体を他の男にやるのなら、この亜空間では誰にも渡さぬ。遠慮もせぬからそのつもりでいるがいい』

「そんな……」

『それに、これは女神も望んでいる事』

「フェルノーイ様が?」

『左様。我と交われば腹の子にもその力を与えることが出来る。“予言の子”を護る為にも必要な事だ』

「……。そ、そうなの?」


 その言葉に思案し始めるマリアベルを見てブルネイはふっと小さく笑う。自分以外の人間の為となるとこの娘は自分の希望や要望を避けて考えを改める。どこまでも真面目で、他人想いなのだ。女神から聞いていた通り無垢な魂を持つ心優しい娘。彼女を護る為に、ブルネイは助力を惜しまないだろう。まぁ、彼女を可愛がる為に多少の事象は利用させてもらうが。

 精霊にも人と同じように愛しいものに対しての独占欲はある。現実でどれだけの男が彼女に群がろうと、夢と現世の狭間のこの世界においてマリアベルは自分だけのものだ。


『もう眠るがいい。目が覚めればいつのも朝が訪れる』

「……うん」


 ブルネイの言葉に導かれるようにマリアベルはゆっくりと瞼を閉じた。白豹は彼女にその身を摺り寄せ、自分もまた目を閉じるのだった。





 ***


「おや。また一人かい?」


 食堂で朝食の載ったプレートを受け取ろうした時、赤いエプロンをつけた女性にそう声をかけられた。騎士団の寮に併設されているこの食堂で三十年以上も働くベテランの料理人、いわゆる食堂のおばちゃんである。ネイは持っていたトレイを差し出したまま頷いた。


「はい」

「なんだい。ここんとこあの子顔を見せないじゃないか。体調でも悪いのかい?」

「いえ、仕事が忙しいようです」

「あぁ、そういや、騎士じゃないんだっけ」


 思い出したように彼女は持っていたお玉を振る。そしてつまらないねぇ、と不満を漏らした。

 彼女が言っているあの子、とは国王陛下の客人ラズの事だ。今までは護衛のネイと共に毎日この食堂で食事をとっていたからすっかり顔を覚えられていた。彼女いわく、筋肉隆々の騎士達を毎日見ていると、ラズのように見目の良い小柄な少年は目の保養になるのだという。どうやらそれは同僚の騎士達にとっても同じのようで、彼らにも時折ラズはどうしたのかと声をかけられることがあった。

 だが、彼女が「つまらない」と漏らしたのはラズの外見を気に入っているだけが理由ではない。ラズは食事を終えると必ず食堂で働く人達に声をかけていく。ご馳走様という言葉だけではなく、今日はあれが美味しかったとか、これを食べたいと思っていから嬉しかったとか。食堂での食事が当たり前で機械的になっている騎士達では気にも留めないような気遣いを当たり前のようにラズはやってのけるのだ。自分達が作った料理を美味しいと褒められれば当然彼らの士気も上がる。ラズは他の騎士達に比べて多くの量を食べないが、甘いものが好きだと分かると、食堂の料理人達はラズにだけ特別に作ったデザートをサービスしたりもしていた。

 城に来てから数ヶ月にも満たないというのに、こうして簡単に人間関係を作ってしまえるラズはすごいと本気でネイは思う。他人に対する壁が低いのは、そのまま懐の深さを示している。けれどその分無防備だ、とも思う。ラズが女性であると知ってからは特に。


「ちょっと何ぼさっとしてんだい」

「……すいません」


 カチャンと軽く食器同士がぶつかる音がして、ネイは深みにはまっていた思考から抜け出た。怪訝な表情でおばちゃんがプレートを載せる。


「これ食べたら仕事だろ? シャキッとしなよ」

「……はい」

「まぁ、暇が出来たらあの子をまた連れてきておくれよ。また何かおまけ考えとくからさ」

「伝えておきます」


 ラズが聞いたら喜ぶだろうな。その時の反応が目に浮かんで思わず頬が緩む。一方それを目の当たりにした食堂の女性は目を丸くした。この食堂を利用する騎士はゴマンといるが、毎日働いていればそれなりに顔を覚える。愛想のない騎士など珍しくもないが、その中でもネイは目立って表情の動かない男だった。何を話しかけてみても気のない返事しかしないつまらない奴だと思っていたのだが、こんな風に笑うこともあるんだと感心する。


(これもあの子のお陰かねぇ)


 本人は気付いていないだろうが、一人で食堂に来る時とラズを伴っている時では明らかに表情が違う。お節介だと分かっていても自分にもネイと同い年くらいの息子がいて、ついつい気にかけてしまうのだ。騎士団という厳しい環境にいるからこそ、気の抜ける相手の一人や二人は傍に居て欲しい。


(ま、仲良くやってくれりゃあ良いさ)


 これが他の誰も知らない、食堂のおばちゃんがラズを気に入っているもう一つの理由であった。






 適当に空いた席を見つけて腰を下ろすと、すぐに隣の席が埋まった。顔を上げればそこにいたのは近衛騎士団長のシーク。騎士達全てを統括する団長のベックとは違い、彼はこの食堂をよく利用している。


「よぉ。ネイ」

「おはようございます」

「今日もラズ殿の所か?」

「はい」

「お前、ここの所休み取ってねぇだろ?」


 シークの指摘にネイの表情が硬くなった。

 騎士は五日に一日の休みを取るよう義務付けられている。適度に休息を取り体を休めて、自分達がつく任務に支障をきたさない為の配慮だ。肉体の疲れは集中力も鈍らせる。ただガムシャラに働くだけが優秀なのではない。


「もう十日は働き通しだって聞いているぞ」

「……それは、気付きませんでした」


 苦しい言い訳だったが、そう言うしかなかった。

 ネイが休みを取っていないのは護衛対象であるラズに強要されているからではない。むしろ逆だ。ラズの傍から離れたくないが為に、ネイ自身の意思で休みを取らずにいるのである。

 休みを取らないのも、ラズが最近食堂に来ないのも全てネイの我侭なのだ。当然この食堂を利用する騎士達は男ばかり。その中に男装しているとは言え、女性のラズを連れて来るのが嫌になった。けれどラズが女性である事は誰にも知られてはいけない秘密。シークにそんなこと言える筈もない。

 そんなネイの表情を値踏みするようにシークは眺める。この部下は嘘をつくのが下手で、口が固い。どうやら意図的に休みを取らなかったようだが、その理由を言うつもりはないらしい。仕方がないな、と心の中だけで溜息をついた。


「いいか、ネイ。上の人間だってちゃんとお前らの勤怠を管理してるんだ。決められた通りに休みは取れ。いいな」

「はい。すいませんでした」


 そこでこの会話は終わり。二人はやっと朝食に取り掛かる。するとあっと言う間に周囲の席も埋まっていき、シークは賑やかに周りの騎士達と雑談を始めた。

 シークは近衛騎士団長という地位にありながら誰からも好かれる気安い性格をしている。平民出の彼を一部疎む連中はいるようだが、トップであるベック自身が彼を右腕と認めているのだから表立って何か言う事もない。シークにとっては雑音程度のものだろう。

 ネイは手早く食事を終えると席を立った。


「あぁ、ネイ」

「はい」


 最後に座ったままのシークに名前を呼ばれ、彼を見下ろす形になる。


「ラズ殿によろしく言っておいてくれ。その内俺とも手合わせ願いたいと」

「……承知しました」


 ネイは軽く頭を下げてその場を後にした。食堂の料理人達といい、シークを初めとした騎士達といい、ラズはその魅力で持って人目を惹く。ならば人との付き合いが乏しい自分がラズに惹かれるのだってそうおかしな事ではない筈だ。だからきっと胸の内にくずぶっているこの独占欲だって、特別な事ではないのだろう。

 朝起きて一刻も早くラズの顔が見たいと思うのも、きっと特別な感情ではないのだ。

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