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22.ご機嫌

 朝の清廉な空気の中にクスクスと小さな笑い声が溢れている。


「ふふっ。どうしたの? 皆ご機嫌ね」


 礼拝堂での祈りが終わった後、城へ戻るついでに庭園を散歩しているとマリアベルの耳に囁きあう精霊達の声が聞こえてきた。快晴続きの天気が心地良いのか、それともノイメイに紹介してもらったせいか、最近特に〈木〉達が姿を見せてくれる。そうすれば嬉しくなってマリアベルの表情も緩んだ。


「嬉しそうですな、マリアベル様」

「はい! 最近精霊達がよく話しかけてくれるんです。皆楽しそうだから、私まで嬉しくなります」


 振り向いたマリアベルの笑顔に、後ろを歩いていた侍従ボルトーは「そうでしたか」と目尻の皺を深くして笑い返した。


 マリアベルの下には多くの精霊達が集まる。〈木〉、〈水〉、〈土〉そして〈光〉。姿を消してこっそりと傍に寄る者から、姿を現し積極的に話かけてくる者まで様々だ。主には王城に元々いる者達だが、ラズが忙しい時には懇意にしている二人の〈風〉が様子を見に来てくれる事もある。幼い頃から精霊達と馴染みのあるマリアベルにとって彼らの囁きは心地よく、安心させてくれるものだ。

 彼女が日頃精霊達と言葉を交わすのは珍しい光景ではないので、姿の見えない者達に笑いかけてもボルトーは驚かない。むしろ楽しそうに精霊達と過ごす彼女をまるで自分の孫のように微笑ましく見守っている。

 今まで様々な客人の世話を任されてきたボルトーだが、マリアベルのように自分の心を包み隠さず相手に見せる人は初めてだった。それを世間知らず、無防備だと評価する者もいるだろう。けれどボルトーはそうは思わない。自分の心を見せる事が出来るのは勇気がある、相手を受け入れる覚悟がある証拠だ。

 六十半ばという老いた身だからこそ彼女の侍従に選ばれたが、いざとなったら彼女の為にこの身を投げ出す覚悟はある。巫女である彼女はいつも誰かの為に祈り、誰かの幸せを喜ぶ。そんな彼女が幸せである為にこの老侍従に出来る事があるならばなんだってしようと思う。

 特に王子達との仲睦まじい姿はボルトーを喜ばせた。彼らが生まれる前から王家に仕え、その成長をずっと見守ってきたのだ。王子達もマリアベルも、彼らは皆自分には恵まれなかった孫のような存在だった。


「おや、アールハマト殿。ご無沙汰しておりますな」

『よう、爺さん』


 いつの間にか横に並んでいた少年姿の木の精霊アールハマトにボルトーは正式な礼をとる。彼はその意味を正確に理解していないだろうが、第四王子ヘリオスティンと巫女マリアベルの友人であることを知っているボルトーはいつも彼を客人同様持て成している。だからだろう。知人以外に姿を見せないアールハマトが、ボルトーには当然のように姿を見せてくれるのだ。

 ボルトーの挨拶を聞きとめたマリアベルが後ろを振り返った。


「アル?」

『おう。マリアベル』

「アル! おはよう」


 パッと笑顔を輝かせるマリアベルを見てアルも笑顔を見せる。


『なんか良い事あったのか?』

「え? どうして?」

『最近お前の機嫌が良いって皆言っているぜ』


 精霊達の機嫌が良いと思っていたのだが、逆にマリアベルの機嫌が良いから精霊達も喜んで彼女の傍に寄ってきていたらしい。意外な事実に驚きつつ、「そういえば」と思い立つ。


「実はね、今度サーカスを観に行く事になったの」

『あぁ? サーカス? 美味いのか?』

「ふふ、食べ物ではないのよ」


 首を傾げるアールハマトに楽しそうにサーカスの話を始めるマリアベル。そんな二人にボルトーは提案を持ちかけた。


「朝食前ですがテラスでお茶をお淹れしましょう。お話の続きはそちらでゆっくりされたらいかがです?」

「そうします! ありがとう、ボルトーさん」

『茶菓子はたっぷり用意してくれよ!』


 楽しそうに城へ戻っていく二人の後に今日も静かに老侍従は従う。マリアベルがこの城に来てから浮かれているのは王子達だけではないな、と心の中だけで呟いた。





 ***


「いやぁ、サーカスかぁ。いいねぇ、楽しみだねぇ」

「はい。ホーン様」

「あぁ、きっとテントの周りには屋台が出るよね。私は串焼きが好きだなぁ」

「ボクはリンゴが飴いいです!」

「いい! それも捨てがたいねぇ」


 ゴホンッとわざとらしい咳払いが室内に響く。実に楽しそうにサーカスについて話をしていた魔術師二人はそこでやっと口を閉じた。


「サグホーン様、いい加減にしてください」

「あっはっはっはっ。ごめんごめん。つい年甲斐もなくはしゃいでしまったよ。でも君も楽しみだろう、サーカスは」

「……仕事です。楽しみな訳が無いでしょう」


 切れ長の目でジロリと上司であるサグホーンを睨みつけたのは錫色の髪をオールバックにした左の魔術師テグラル。二十四歳という若さながら高位の者達にも一目置かれる優秀な魔術師で、城内の護りの要である結界の構築・維持の責任者サグホーンの弟子でもある。彼の生真面目で神経質な所は結界という精密な術式にはもってこいだが、子供のように何にでも興味を示す師匠とは正反対の性格で、小言が多いのが玉に傷であるとよくサグホーン自身が口にしている。

 サグホーンは高位に数えられるベテランの魔術師だ。黒檀のような艶のある短髪に印象的な深緑色の瞳。黙っていれば威厳のある容姿だが、残念なことに本人にその気は全く無い。弟子に諌められてもどこ吹く風で、彼はのほほんと笑うだけだ。


「人生楽しまないと損だよ、テグラル」

「サグホーン様は楽しみ過ぎです。少しは遠慮してください」


 弟子からの嫌味にサグホーンは懲りる事もなく笑うだけだ。そんな魔術師達の様子をオリバはお茶を飲みながら眺めていた。

 彼らが今居るのは王城に設けられた会議室の一室。数日後にサーカスを観覧に行く殿下達の警備の打合せをする為に集まっている。王族の警備には騎士団と塔の魔術師両方で行う事になっている為、騎士団からはオリバと騎士が二人、塔からは結界専門の左の魔術師サグホーンとその弟子であるテグラル、トマスが同行していた。


「話を続けてもよろしいですか?」

「えぇ。どうぞ」


 オリバに応えたのはこのメンバーの中で最も上位に当たるサグホーンではなくテグラルだ。それに文句を言うことなく、当の本人はもう一人の弟子である少年の隣でニコニコしている。


「騎士団側の警備体制は先程お話した通りです。後日折を見てサーカス団へ訪問します。そちらはいかがなさいますか?」

「テント自体に結界を施せれば良いのですが、動物の中には魔力を感知して落ち着きを無くすものもいますからそれはしません。当日殿下達に護りの結界を施しますから、こちらとしては事前にサーカス団を訪問する必要はありません」

「分かりました。当日は殿下達に同行されますか?」

「えぇ。私が同行します」


 するとそれまで黙って話を聞いていたサグホーンが不服そうに口を尖らせた。


「テグ~、私達は~?」

「その呼び方は止めて下さい。結界の維持は私一人で十分です。第一責任者であるサグホーン様がいなくては城内の結界に何かあった時どうするのです」

「えぇ~~~。テグーばっかりずるいじゃないか」

「遊びに行くのではないと何度言ったら分かるのです」

「テグーこそ、様々な物事の中に新たな発見があると何度言ったら分かるんだい。これは遊びじゃないよ。魔術探求の手段じゃないか」

「都合の良い言い訳にしか聞こえませんので却下します」

「……ケチ。陰険インテリ眼鏡」

「聞こえていますよ、サグホーン様」


 絶対零度の視線がサグホーンに突き刺さる。彼はもう一人の弟子である若い少年に慰められながら口を閉じた。

 オリバと同席していた騎士達はそんなやり取りに唖然として口が出せないようだ。それもそうだろう。陛下の前では実力と威厳に溢れた人物に見えていた高位の魔術師サグホーン=ベレーがこんな自由人だったとは。オリバも初めて知った事実である。

 とにもかくにも、話は終わったようなのでこの場を締めくくる。


「では塔からはテグラル殿が同行されるということで。前日迄に一度、訪問したサーカス会場の様子を伝えに伺います。その際警備の最終確認をしますので」

「分かりました」


 よろしく、の一言も言わずにテグラルは席を立つ。そうして今だ不満そうな顔をしている上司の首根っこを掴んで退出した。サグホーンはともかく、彼は今回の仕事に関してあまり協力的ではないようだ。事務的にこなそうとするのは生来の性格からなのか、それとも騎士団を嫌っている為か。


(やれやれ……)


 なにやら面倒な相手だが、面と向かって敵意を向けられる事も嫌味を言われる事もなかったのは僥倖だろう。オリバも仲間の騎士達と共に部屋を後にした。






「やはり怒られちゃいましたね、ホーン様」

「そうだねぇ。テグーはホント頭固いんだから」


 先に塔へ戻ったテグラルとは中庭で別れ、サグホーンは弟子のトマスと共にのんびりと散歩がてら帰路についていた。トマスは砂色の髪に大きめの黒縁眼鏡をしたまだ十三歳の少年だ。義務教育を終え、塔へ入ったばかりの彼はサグホーンに才能を見出されて弟子となった。


「諦めるのですか?」

「まさか。この機会を逃す気は無いよ。サーカスも“兆候”もね」

「ですが、あれは……」

「トマス」


 自信なさげに頭を下げたトマスにサグホーンは力強く名前を呼ぶ。顔を上げれば、そこには優しげな瞳で自分を見ている師匠がいた。


「私は君の“先見”を信じている。君はもっと自分を誇りなさい」

「……はい。ホーン様」


 一瞬泣きそうな顔になり、それでもぐっと堪えて返事をした愛弟子の頭をサグホーンは柔らかく撫でた。そして考えを巡らせる。口煩いテグラルの目を掻い潜り、トマスと共にサーカスを観に行くにはどうしたらよいか、と。





 ***


「ディ……、ディン。私、仕事の邪魔じゃないかしら?」


 書類の上を走るペン先を見ながら、マリアベルはずっと思っていたことを口に出した。仕事を中断させるのは悪いと思って我慢していたのだが、どうにもこうにも耐えられなくなったのだ。


「いや。まったく邪魔じゃない。むしろ居てくれないと仕事が進まない」


 そういうものなのだろうか? とマリアベルは首を傾げた。

 彼女は今、ディンの執務室にいる。それも彼の膝の上に。何故こんな事になっているのかと言えば、朝食後にマリアベルの部屋に来たディンに連れられてここを訪れた。そしてなんやかんやと言いくるめられ、気付けばあっという間にこの状態だったのだ。

 ディンの左手は逃すまいとしているかのようにがっちりマリベルの腰を抱えている。そして彼女の肩越しに書類を覗き込み一つ一つ処理しながら、時折思い出したようにマリアベルに頬ずりしたり、髪にキスを落とすのだ。いつ人がここを訪れ、この状態の二人をみられるかとハラハラしていたマリアベルだが、午前中は誰も入ってくるなと命令されていることなど知る由もない。

 右端に置いてあった書類の最後の一枚を確認すると、ディンはペンを置いた。


「午前のノルマはこれで終わり!」


 その声が余りに嬉しそうだったので、羞恥も忘れてマリアベルは後ろを振り向いた。


「お疲れ様」

「うん」


 するとふわっと体が浮く。突然の事に驚き、目を丸くしたマリアベルにディンはニッといたずらっ子のように笑った。


「後は昼食まで休憩。な?」

「え?」


 そのまま隣室へ移動し、ドアを閉める。そこは来客用にソファとテーブルのある部屋で、ディンは柔らかいソファの上に彼女を下ろした。


「ディン?」

「しー」


 唇に人差し指が置かれ、そして彼女が口を閉じると親指がそっと柔らかいそこを撫でた。気付けばディンの顔が間近に迫っている。


「ディ…、んっ」


 言葉の続きは唇で塞がれた。さっきまで仕事をしていた筈なのにどうしてこうなってしまうのか。けれど与えられる熱に何も考えられなくなる。何度も彼の舌がマリアベルの唇をなぞり、ぞくりっと背筋に走った感覚に身を震わせると、それが口内に侵入してきた。まるで口の中の美味しい飴を見つけようとしているかのようにディンの舌が中を探ってくる。舌と舌が触れ合い絡め取られると、直接心臓を舐められているような感じがした。

 マリアベルはこの城に来るまでこんな経験をしたことが無い。信託を受けるまではシィシィーレの神殿で一生を終えるものと思っていたし、フェルノーイ神の愛し子としてあまりにも有名だった為、個人的に近づこうとする異性など殆どいなかったのだ。だからマリアベルは恋を知らない。体を走るぞくぞくしたものが一体何を表すかを知る筈もない。

 いつの間にか着ていた萌黄色のワンピースの裾が捲り上げられ、ディンの大きな手が太ももを撫でた。


「あっ……」


 艶を含んだ女の声が唇から漏れる。それがまるで自分の声ではないようで、マリアベルは羞恥で顔を赤くした。一方ディンは笑みを深める。


「可愛い」


 もっともっとその滑らかで白い肌に触れようと、ディンは手を進める。その時、ノックの音が部屋に響いた。時計を見れば昼食の時間。侍従が食事を運んできたのだろう。それに気付いたディンは思わず舌打ちしていた。


「ちぇっ。空気読めよな、あいつら」


 しぶしぶ体を起して立ち上がる。今だ顔の赤いマリアベルに「はい」と手を差し出すと、彼女はおずおずと手を握り返してきた。先程までの行為の後で人前に顔を出すのが恥ずかしいのだろう。彼女の足は中々動かない。それでもディンがエスコートしてドアの前まで移動するが、そこでディンの悪戯心が働いた。ドアを開ける直前、マリアベルの耳に唇を近づけて囁く。


「続きはまた今度な」

「!?」


 更に赤くなった顔で振り返ったマリアベルを、ディンはこれ以上ないほど上機嫌にぎゅっと後ろから抱きしめた。その一部始終を二階の窓の外から〈木〉達が覗いていたのだが、その事に二人が気づく筈もなかった。

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