19.木々の間で
早朝。礼拝に向かう為にマリアベルは王城東の庭園を横切っていた。正面の庭園とは違い、自然の森林に近い形を残すこの東の庭園は彼女のお気に入りでもある。故郷であるシィシィーレの雰囲気に近いのがその大きな理由だろう。
(あら?)
木々の葉についた水の雫が陽の光を反射してキラキラと光っている。朝露かと思ったが、それよりも水滴の量が多い。誰かが水を撒いたのだろうか。鮮やかな緑色がなんだか活き活きして見えて、マリアベルは思わず笑みを零した。
クスクス……
(?)
小さな小さな笑い声が聞こえてくる。誰だろう。教会へ続く道を逸れてそちらに向かえば、見えてきたのは庭園を横切る小川。そこに一人の男性が立っていた。
「おはようございます……」
初めて見る顔に恐る恐る声をかける。すると彼はホースを持っていていた手を下ろした。
「おはようございます」
彼が笑顔を返してくれたことにほっとしてマリアベルは傍に寄る。
彼は背の高い人だった。声を聞く限りそれほど歳をとっていないと思うが、なんとなく年齢不詳なのは無造作に伸ばされた前髪で目元が隠れているせいだろう。天然でウェーブのかかった濃い灰色の髪は手入れがされていないのか全体的にボサッとしている。ダボダボのTシャツに綿のパンツとラフな服装。彼が持っているホースは小さなポンプに繋がっていて、更に後ろから太いホースが小川に伸びている。恐らくポンプで小川の水を汲み上げ、細い手元のホースから水を撒いていたのだろう。庭師だろうか。
「朝からお仕事ですか?」
隣に立ってそのホースを眺めていると、彼は緩く首を横に振った。
「いいえ。趣味みたいなものです」
「趣味?」
「はい。二日に一回は此処に来ないと、拗ねられるもので」
(拗ねる?)
一体誰が拗ねるのだろう。マリアベルが首を傾げると、再び小さな笑い声が聞こえた。
「隠れていないで挨拶くらいしたらどうだい?」
彼の一言で木々の陰から次々と小さな子供の姿が現れる。見た目で言えば三歳から五歳くらい。けれどそれはあくまでも人の目から見た年齢。実際の所はマリアベルでは分からない。なぜなら、彼らは木の精霊だったからだ。彼らの目線に合わせるようにしゃがむと、恥ずかしがっているのか数人の〈木〉が再び木の陰に隠れたり、ホースを持った彼の足にしがみついたりした。
「はじめまして。私はマリアベルと言います。皆さんはいつも王城にいらっしゃるんですか?」
すると正面にいた〈木〉がこくこくと頷いた。もともと〈木〉はおしゃべりな精霊ではない。アールハマトが例外なのだ。返事を貰えた事が嬉しくて、マリアベルの顔に笑みが浮かぶ。それにつられたように〈木〉達ははにかんだ笑みを返してくれた。
「そういえば、名乗っていませんでしたね」
ふとマリアベル達のやりとりを微笑ましく見守っていた彼が言う。マリアベルが立ち上がると、彼は恭しく頭を下げた。
「初めまして。シィシィーレ島の巫女、マリアベル様。私は塔に一室を賜っております、ノイメイと申します」
「塔? 魔術師の方でしたか」
「はい。庭師だと思いました?」
「あ……、ごめんなさい」
図星を疲れて思わず頭を下げるマリアベルに、気を害した様子も無くノイメイは朗らかに笑う。落ち着いた雰囲気にてっきり壮年の男性かと思っていたが、近くで見るとそれよりもずっと若い。ちらりと前髪の間から覗いた一重の目は薄い黄緑色をしていた。
「いいんですよ。良く言われます。多分城の方の中には本気で私が庭師だと思っている人も居ると思いますよ」
「ふふっ。そうなんですか?」
二人の間に柔らかい空気が流れる。この城に来てからというもの、初めてマリアベルに会う人達は顔を赤くしたり、緊張で身を固くしたり、果ては興味本位にジロジロ眺められたりとあまり気分の良いものではなかった。最初からノイメイのように親しげな笑みを向けてくれる人は少なかったのだ。
二人の様子を見て機嫌良さそうに体を揺らす〈木〉達に囲まれ、マリアベルは癒しとも言えるひと時を楽しんでいた。
***
いつもと同じ時間に目覚めたラズは体を起そうとして失敗した。
(あれ?)
いつもより体が重い。瞼も少し腫れている気がするし、喉も痛い。全身を覆う倦怠感。全力疾走した後のような、幼い頃散々泣き喚いた後のような感じがする。すぐに起きる気になれず、ごろんと寝返りを打つ。すると目の前に黒い塊を見つけた。よく見ればそれは黒い髪。
(……ネイ?)
彼は床に座り、ベッドの縁に頭を預けたまま眠っている。慌てて見渡してみるがここは確かに自分の部屋だ。何故ネイがここに居るのだろう。
(そう言えば、昨日……)
ケヴィンに呼び出されたと思ったら双子の弟が居ておかしなお茶を飲まされた。そこからは記憶が飛び飛びだが、確かフレアレクの部屋に駆け込んで、ネイを呼んできてもらったのだ。
(ずっとついていてくれたのか……)
そこではっと息を飲んだ。慌てて重い体を叱咤して上半身を起し、体をあちこち触ってみるが異常はない。服もその下のサラシもキチンと締められているし、シーツには何の跡もない。それを確認すると安心して息をつく。
どうやらあの変態魔術師に飲まされた薬のせいで昨夜はおかしな夢を見たらしい。まるで恋人のように甘い触れ合いをネイとするなんて現実ならば有り得ない。だってあの夢の中で自分は女性だった。女であることを捨てた自分にそんな未来は一生やってこないのだ。
はーっと長い息を吐いて両手で顔を覆う。すると左手よりも右手の方が温かい。無意識に目線は自分の右横で寝ているネイに向った。
(手を握っていてくれた? ……まさかね)
なんとなくそのまま寝顔を眺めていると、不意に彼が身じろぎした。
「ん……」
「ネイ?」
寝かしてあげたい気もするが、このまま床に座っていたら体を痛めるだろう。ネイの肩を揺すると、彼は緩慢な動きでラズを見上げた。いつも身長差があるせいで見下ろされることに慣れているラズからすると珍しい光景だ。
「……ラズ?」
「うん。おはよう、ネイ」
「……体は、平気か?」
「え?」
立ち上がったネイの大きな手がラズの額を覆う。彼の体温を感じ、何故か昨夜のおかしな夢を思い出してしまったラズは顔を赤くした。
「昨日熱があったろう。もう下がったのか?」
「あ、あぁ! もう平気! 大丈夫!」
「そうか」
ネイは手を離すとほっと息をついた。それを見て心配させてしまったんだな、と実感する。
「ごめん。昨日から付いていてくれたんだよな? ありがとう」
「いや…。大事無いならいい」
それだけ言ってネイはベッドから離れた。その背中を見送り、ラズはベッドの上で立てた両膝に顔を埋める。あんな夢を見たせいか、まともにネイの顔を見られない。
するとしばらくして戻ってきたネイはその手に湯気の立つカップを持っていた。
「飲むか?」
「あぁ。ありがとう」
中身はラズが好んで飲むハーブティーだった。少し濃い目だったが、だるい体を起すには丁度いい。
「ごめん、昨日は非番だったのに……」
「だから俺を呼ばなかったのか?」
「……え?」
忘れてた。そう言えばネイとの約束を守らず一人で塔に行き、結果迷惑をかけてしまったのだ。それ見たことかと笑うことしなくても、膝を詰めてのお説教はあり得る。ネイの怒りを覚悟して身を縮こまらせていると、降ってきたのは怒りの言葉ではなく溜息だった。
(え……?)
あれ? もしやこれはお説教ではなく、呆れられて見捨てられるパターン?
「ネ、ネイ? あの……」
「もうするな」
「…………」
慌てて顔を上げたラズは絶句した。思っていたよりも彼の表情はずっとずっと真剣で、苦しげだったから。自分の軽率な行動が彼にこんな顔をさせているかと思うと胸が痛んだ。
「……ごめん」
「俺はお前の護衛だ」
「うん」
「何度も言わせるな」
「うん。ありがとう」
ネイの手が落ち込んだラズの頭をポンポンと優しく撫でる。その手が温かくて思わず涙が滲んだ。例え現実ではなくともこの手に女性として扱われたことを思えば、あながち悪い夢でもなかったのかもしれないと、そんな馬鹿な考えが浮かんだ。
***
「やぁ」
実に機嫌良さそうに声をかけてきた魔術師に近衛騎士団の一人、オリバは眉間に皺を寄せた。いつも穏やかな彼には珍しいその表情を見て、相手の魔術師は大袈裟に嘆くような顔をする。
「久しぶりに会ったのにその態度は無いだろう。オリバ」
「半径百メートル以内に近づくな、と言ってあった筈ですが?」
冷ややかな目を向けられてもその魔術師、セフィルド=オレゴンは口元に笑みを浮かべるだけだ。相変わらずの二人に、オリバの隣でマリアベルの部屋の警備をしていたクレイドは溜息をついた。
自分の性癖を隠さないセフィルドは二年前にオリバを気に入ってからというものとにかく彼に付きまとっていた。同期でもあるクレイドはその場面に良く居合わせたのだが、剣を持つ者とは思えない程穏やかな雰囲気を持つオリバが彼に対しては冷ややかな態度を見せ、断固として拒否し続けた。いくらアタックしてもオリバに少しも靡く様子はなく、セフィルドが姿を見せなくなったのは約一年前の事。漸く諦めたのかとほっとして悪夢のような日々を忘れていた所に姿を見せられては流石のオリバも態度が硬くなる。
「安心してよ。もう君にちょっかい出したりはしないさ」
「……つきまとっている自覚はあったんですね」
胡乱な目を向けられ、何故かセフィルド嬉しそうに笑った。
「はははっ。酷いなぁ。所で話題の巫女殿はいらっしゃるのかな?」
「マリアベル様は外出中です。例えいらっしゃってもあなたのような変態に会わせるわけにはいきませんのでとっとと塔へお帰りください」
「やだなぁ。ヤキモチかい? ホント、君は可愛いんだから」
にたりと頬を緩ませるセフィルドの首元に、よく手入れされた剣の刃が音も立てずに突きつけられる。
「勘違いもいい加減しないと刺しますよ」
「可愛い君に刺されるなら本望だけれど、今日の所は仕事で来てるんだ。見逃してくれないかなぁ……、あ!!」
オリバ越しに人影を見つけてセフィルドが喜色を滲ませた。廊下の端からこちらに向かって歩いてくるのは二人。浅黄色のワンピースを着たマリアベルと歳若い侍従だ。彼はオリバの刃から身を引き、マリアベルの前に立った。
「あら、お客様ですか?」
「お初にお目にかかります。私は左の魔術師、セフィルド=オレゴン。以後お見知りおきを」
優雅な仕草でマリアベルの右手を取ると、その手のひらに唇で触れる。突然の出来事に驚き固まるマリアベルだが、次の瞬間「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。正面にいたセフィルドが後頭部をバシッと叩かれたのだ。
「……何をやってんだ、アンタ」
「ラズ!!」
突然襲った痛みに顔をしかめていたセフィルドだが、後ろから現れ、自分を叩いたラズにパッと笑顔を向ける。その目がうっとりと自分を映している事に気付いてラズは血の気が引いた。
「やだなぁ。何ってお近づきの印に挨拶しただけだよ」
「男が好きなんじゃなかったのかよ!」
「いや。俺は可愛い子が好きなだけ。そこに男女の差はないよ」
堂々と両刀だと宣言する魔術師。昨日の事など少しも反省していない様子でラズに手を伸ばす。すると彼の鼻先に剣の切っ先が突きつけられた。
「…………」
二度目の刃。だがセフィルドは動じた様子も無く、無言で睨みを利かせている剣の持ち主、ネイを見る。
「へぇ……。そういうこと」
魔術師は意味ありげな視線をラズの護衛に向けた。
彼らの様子に全てを察したオリバとクレイドは相変わらずな変態魔術師に呆れた溜息を付き、剣を鞘から抜いたネイに驚いたラズは唖然と突っ立ているしかなく、そして何も知らないマリアベルはただその光景に首を傾げるばかりだった。




