18.護衛の騎士
「君の〈風〉はここには来れないよ。予め風除けの陣を組んである」
楽しそうに男が笑う。ラズが予想通りの手を使おうとしたのが嬉しいのか、実に愉快と顔に貼り付けてある。
彼はラズが〈風〉と親しいことを知っているのだ。エルラインの下へ行った時同伴していた兄ケヴィンから聞いたのかもしれない。唯一の道も閉ざされ、ラズは歯噛みした。こうしている間にも徐々に薬が体を巡る。下半身から力が抜けていく。
「触るな!!」
伸びてくる手をかわし、拒絶の声を発すると同時にラズの影が急激に膨れ上がった。影が独りでに動き出すなどありえない。だが、それは確かに意思を持っているかのような動きでラズの体の横から伸び、真っ黒な塊と化してセフィルドを襲う。
「何!?」
魔術師と言えどセフィルドにも予想外だっただろう。当のラズさえ何が起こったのか分からなかったのだから。体をすっぽり覆う程巨大になった影は上から彼を丸呑みし、その中に閉じ込めてしまった。影に捕らえられ、身動きの取れないセフィルドを見てラズはやっとその正体に気が付いた。
「まさか……〈闇〉?」
ラズ自身は〈闇〉との繋がりを持っていない。恐らくネイに懐いていた〈闇〉が、彼の代わりにラズを護ってくれたのだ。ラズの大切な親友であるマリアベルの為に力を貸してくれた〈風〉達のように。
「あいつ、ホントどこまで好かれてるんだよ……」
闇に包まれ黒い塊と化したそれを見て一気に力が抜ける。だがボーッとしている暇はない。今は昼間。あまり〈闇〉の効果は続かないだろう。闇の塊は彼の声さえ完全に遮断しているが、セフィルドが中から抵抗しているのか、時々内側から突き上げられているかのように形が変わる。それを横目にラズは乱暴に扉を開けて部屋を出た。けれど転送陣は魔術師なしでは使えない。力の入らない体で一階まで階段を下りていたら捕まってしまう。
ラズは迷わず右の魔術師の部屋が並ぶ廊下へ駆け、扉を開けた。
「フレアレクさん!!」
バンッと勢い良く開いた扉に前回のトラウマが引き起こされたのか、デスクで研究に没頭していたフレアレクは文字通り飛び上がった。振り返れば鬼気迫る顔のラズが立っている。一気に恐怖が蘇り、フレアレクは部屋の隅へ逃げ込んだ。
「うわっ!! な、何です、いきなり!! 今日はリケイア様からの命など……」
「ネイを呼んでください!!!」
「わー!! すいませんすいません!! ……って、アレ?」
ラズは部屋の鍵を閉め、ずるずるとその場に座り込んだ。よく見れば顔が赤く、息が乱れている。以前のように自分を脅しに来たのではないらしい。
「ラズさん。貴方顔色が……」
フレアレクが傍に寄ろうとするが、キッと顔を上げてラズは彼を怒鳴りつけた。
「いいから早く!!」
「は、はぃぃいい!!」
涙目で返事をして、わたわたと自分の杖を掴んで部屋の噴水にその先を浸けた。そして何事か唱えると彼の姿が消える。それを見送って、ラズは床に崩れ落ちた。
ネイは騎士団の宿舎の一室で転寝をしていた。今日は風が心地よく、陽も穏やかだ。ベッドにごろりと寝転んでうとうとしていると、突然廊下が騒がしくなって目が覚めた。
「?」
ドタバタと不恰好な足音が近づいてくる。何事かと思って廊下に出れば、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ネイザンさーん! ネイザンさーん! ぅぅっ、どこですかぁ~~!!」
聞き覚えのある涙声だ。すると廊下の端からこちらに駆けてくるのは真っ黒なローブを着た魔術師だ。
「……フレアレク殿?」
「あっ! 居た――――!!!」
神の助けとばかりに飛びついてくる。自分に向かって抱きついてくる三十半ばの痩せた男をネイは易々と受け止めた。
「後生です!! お願いですから私と一緒に来てください!! じゃなきゃ殺されますぅぅぅぅ!!!」
ドバッと涙を流しながら訴えるボサボサ頭の眼鏡男。思わず退きそうになるが、尋常じゃないその様子が気にかかる。
「落ち着いてください。どういうことですか?」
「ラズさんが、ネイザンさんを連れてこいと」
「ラズが!?」
それを聞いた途端に無表情だったネイの顔が厳しいものに変わる。ぐっと彼のローブの襟元を掴み、引き寄せた。
「ぐえっ」
「ラズはどこに居るんです!!」
「彼は、私の、部屋に……」
それを聞いてネイの眉間に皺が寄った。ラズは彼の部屋。つまり自分の知らないうちに魔術師の塔に行っていたのだ。だが、今は何があったのか確かめている暇は無い。ラズが自分を呼んでいると言うのなら、何を捨て置いても今は彼の下へ行かなくては。
フレアレクを放り出して私服のまま愛用の剣を掴むとそのまま部屋を出る。だが、それを慌ててフレアレクが止めた。
「ままま待ってください! 転送用の陣を使います」
彼は持っていた小瓶の栓を外して中に入っていた水をネイの部屋の床に撒き、それをまるでインクのように伸ばして陣を描き上げる。その中心に杖を付き、ネイには分からない言葉を唱えるとその手を差し出した。
「掴んで下さい。移動します!」
言われるがまま彼の手を掴む。すると一瞬の浮遊感と共に、二人の姿が部屋から消えた。
「ラズ!!」
フレアレクの自室の中。ドアの前で倒れていたラズを見つけ、ネイは駆け寄った。その声に反応したラズが閉じていた目を弱弱しく開ける。予想外のその様子にネイは息を飲んだ。まさか病気の類だろうか。
「……ネイ」
「大丈夫か?」
「へ…き。部屋に……」
「分かった。掴まっていろ」
ラズを抱き上げ、再びフレアレクの力を借りて塔から移動した。今度は城の中庭にある池の前。どうやら水を専門とする魔術師である彼は城内で〈水〉が存在する場所ならどこでも移動可能らしい。その場で彼とは別れ、ネイは急いでラズの部屋へと向かった。
誰もいない部屋のドアを開けてベッドへ運ぶ。そっと下ろしてやると、ラズは苦しげに身じろぎした。
「大丈夫か?」
「あ…つい……」
息が上がり、顔も体もほんのり赤い。全身にうっすら汗をかいているようだ。熱があるのだろう。タオルを用意して首筋に垂れた汗を拭ってやると、それにそぐわない声が上がった。
「ぁっ……」
「ラズ?」
唇を噛み、何かに耐えるように瞼をきつく閉じている。尋常ではないその様子にネイは焦りを覚えた。
「今医者を……」
「…いら、ない」
「馬鹿、何を言って……」
責める声にラズは緩慢な動きで唇を動かした。
「茶を……」
「茶?」
「茶を、飲まされた……。娼、館で流行ってる、とかいう……」
言葉の間に吐く息が苦しげなのになんとも艶かしい。皆まで言わなくても大体の状況が分かってネイは歯噛みした。
(だから一人で行くなと言ったのに!!)
確かにこれでは医者は呼べない。クレイドの言っていた通り、ラズを狙う不埒な輩が塔にはいたのだ。そこでお茶に催淫剤の類を盛られたに違いない。
苦しげに吐息を漏らしているラズは体に篭る熱を持て余しているようだった。この状態がいつまでも続けば辛いだろう。自分で処理することも出来なそうだ。
自分が手伝ってやらなければダメかもしれない。ラズは嫌がるだろうが仕方がない。男同士だし、多少は我慢して貰うしかない。何よりネイは怒っていた。確かに一人で塔に行かないと約束したのに、彼は守らなかった。嫌がっても自業自得だ。
ネイは仕方なくドアの鍵をかけ、窓のカーテンを全て閉めるとラズの服のボタンに手を掛ける。するとラズが涙で潤んだ目で自分を見上げてきた。その視線に心臓が跳ねる。その動揺を表に出さぬよう、ネイは表情を硬くした。
「な…に……」
「前を開ける。少しは楽だろ」
「ん……」
落ち着かない鼓動を感じつつ、ボタンを一つ一つ外す。すると胸元に白い布が見えてネイは焦った。
(包帯……?)
「お前!! 怪我して……」
慌てて服を脱がせば、そこに現れたのはサラシにきつく縛られた胸元。だが、そこにあり得ない膨らみがある。
「……?」
その膨らみは苦しげに吐かれる息と合わせて上下していた。
(何……?)
無意識にきつく締められたサラシに手を伸ばし、それを優しく解く。現れた白い二つの双丘。男である筈のラズにはありえない膨らみ。だが、自らも熱に浮かされたようにネイの頭は働かない。無意識にごくりと喉が鳴った。
緩めたサラシに胸の先端を擦られ、ラズが甘い声を上げる。
「んんっ」
(嘘だ。どうして……)
服の下に隠れていたのは女の体。白く柔らかく、自分とはまるで違うモノ。
(何故気付かなかった……)
ヒントは転がっていた。けれど疑う理由などなく、自分はただ彼を守る護衛であれば良かった。そんな二人の関係に疑問など挟む余地などなかったのだ。
「あつ……」
熱に侵された呟きが耳に届いて、ネイははっと我に返った。今は呆けている時でも嘘を付いていたラズを責める時でもない。彼を、いや彼女を助けてやらなければ。
媚薬の効果で意識が混濁しているラズの耳元に唇を寄せ、ネイはそっと呟いた。
「怖かったら目を閉じていろ」
「んっ」
耳にかかる吐息さえも刺激になるのか、彼女の体が跳ねる。ネイは彼女を傷つけないよう優しくその肌を撫でた。頬、首下、耳たぶ、二の腕。柔らかな所を順々に触れていく。そして息を吐いて自分を落ち着かせた後、その胸を手のひらで包んだ。
「ぁ……」
驚くほど柔らかい感触に、ネイは自身の体も熱くなるのを感じていた。吐く息に合わせて上がる甘い声がネイを刺激する。初めて触れる女の体。無遠慮に力を篭めれば簡単に壊れてしまいそうな、柔らかな肢体。
いつしか彼女の甘い声に紛れて自分の名前が呼ばれていることに気がつき、ネイは息を飲んだ。
「っ、ネイ、……ネイ」
朦朧とした意識の中で何度も何度も彼女が名前を呼ぶ。ネイはぎゅっと奥歯を噛んだ。
「ネイ……」
「名前を、呼ぶな……」
だが、その訴えは既に意識が溶けかけている彼女には届かない。体に触れるたびに熱い吐息と共に吐き出される自分の名前。
(……ま、ずい。勘違いする。錯覚しそうになる)
まるで彼女がネイ自身を求めているかのような。
ぐっと湧き上がる欲望を押さえつけるネイだったが、彼女に名前を呼ばれ、震える手が助けを求めるかのようにネイの首に伸びてきて、たまらず彼女を抱き寄せその唇に口付けた。
「んっ……」
何度も何度も啄ばみ、赤く腫れた唇を舐める。彼女の体を押さえつけ、角度を変えて飽くことなく柔らかなそれを存分に味わう。
「ネイ…、苦し……」
呼吸を求めて開いた口に自分の舌を捻じ込んだ。途端に上がる二人の呼吸。交換する唾液も、吐く息も、そして彼女の小さな舌も何もかもが熱く、甘い。
ネイは冷静になろうと何度も深呼吸して、ぎゅっと彼女の体を抱きしめた。
「ん…、ネイ……」
「っ、馬鹿…」
無意識に抱きしめ返してくる細い腕の持ち主に悪態をつく。もはや彼女を助ける為だけの行為ではなくなっているのは分かってる。それでも止められない。ネイの体を占めるのは男の欲望と庇護欲、そして――
(なんだ、これ……)
彼女の声が自分の名前を呼ぶ度に心のどこかが満ちていく。だが、一方で体の奥は足りないと叫ぶ。
下から掬い上げるように唇を捕らえ、再び舌を絡める。感情のまま彼女に自分の欲をぶつけてしまえば、それは一生の傷になる。彼女の護衛である自分の使命は護ること。決して傷つけることではない。
だからネイは最低限の範囲で彼女に触れた。それ程強い薬ではなかったのか持続時間は短く、しばらくしてネイの腕の中で緊張していた体から力が抜ける。そして彼女は目を閉じた。呼吸が安定していることにほっとする。これでもう大丈夫だろう。
理性を総動員して彼女から体を離すと、新しいタオルを水に濡らして彼女の体を拭く。服をきちんと着せてシーツを取替え、何事もなかったかのようにベッド周りを整える。
全てを終えると長い長い息を吐いた。あどけない表情で眠っている彼女の寝顔。これが悲しみに変わらなくて良かったと心から思う。けれどもう、ネイは何も知らなかった頃には戻れない。
浅い呼吸を繰り返している腫れた唇が目に付く。名残惜しそうに親指でそっとそこを撫でると、彼女の額に唇を落とした。もう恋人のような触れ合いは許されない。自分は護衛で、彼女はその護衛対象。
護らなければ。彼女を害そうとする何者からも。それだけが彼女の為に自分ができる唯一のことなのだから。
――誰にも渡したくない。
一瞬頭を掠めた言葉を、ネイは頭を振って打ち消した。




