14.エルとアル
「見て。これがフェルノーイの巫女だって。綺麗だろ?」
少女の下へ小走りで近づき、アルが初めて弾んだ声を出す。マリアベルはヘリオと繋いでいた手を離し、彼の後を追ってゆっくり歩いた。そして少女の前に両膝を着く。
アルは何も言わない少女に向かって溜息をついた。
「なんだよ。照れてるのか? 変な奴」
「アル。……この人は?」
「これがエルだよ」
マリアベルは嬉しそうに応えたその声を聞いてぎゅっと唇を噛み締めた。
大木の根元に腰を下ろした少女。刺繍の入った水色のワンピース、青くて小さな靴、そして亜麻色の髪。彼女について分かることはそれだけだった。何故ならアルが友人として紹介してくれた少女は既に亡くなり、白骨化していたから。
二人から離れた場所でそれを確認した一行は皆痛ましい顔でそれを見ていた。ヘリオの顔が真っ青になっている。
「大丈夫ですか? 殿下」
「……へーき」
初めて見ただろう白骨死体。けれどヘリオは誰の力を借りることもなく、縋ることもせず自分の両足で立ち、二人を見守っている。国を支える王の子息として生を受けた少年は、それにふさわしく心を強く持っていた。
エルの前に座るマリアベルは表情を変えることなく彼女に話しかける。
「私を呼んだのは、貴方ね?」
その問いに答える者は居ない。居るわけがない。けれどマリアベルは確かに一つ頷いた。そして隣に立つアルを見上げる。巫女であるマリアベルの耳には確かに少女の想いが届いていた。
「ねぇ、アル」
「ん? 何?」
「エルを供養してあげよう?」
「……は?」
何を言っているんだとばかりにアルの目が見開かれる。そしてその意味を理解した途端、マリアベルに非難の目を向けた。
「エルは死んでない! お前も僕が嘘をついてるって言うんだな!」
今まで他の精霊達に散々言われてきた。彼女はもういないのだと。お前は狂ってしまったのかと。でもそんな筈はない。だってエルはここに居る。確かに自分には彼女の声が聞こえているのだ。
逆上したアルにマリアベルはそっと手を伸ばし、肉体を持たない体を確かに抱きしめる。その温度にアルは震えた。
「何を……」
「違うわ、アル。肉体は朽ちてしまったけれど彼女の魂は確かにここにある」
「え?」
「彼女はあなたの為に私を此処に呼んだの」
唖然とした表情でアルは体を離したマリアベルを見返す。自分の為とはどういう事だろう。自分はエルの為にマリアベルを連れてきたのだ。エルが会いたいと言うから連れてきたのだ。
「自分の魂を浄化させ、あなたを解放する為に私を、巫女を呼んだのよ」
「そんなの嘘だ! エル……エルはずっと僕と一瞬にいるって約束した!!」
誓ったのだ。二人はずっとずっと一緒にいるのだと。この大木に、澄んだ水に、そして夜の星々に。
「そうだったの。だからこの子はずっと謝っているのね」
謝っている? 何を? 傍を離れることを? 自分から離れる為に、エルは巫女を呼んだ?
「アル。人は精霊に比べればずっとずっと短い命だわ。でもね、彼女の死をあなたに受け入れて欲しい」
「嫌だ! エルは僕といるんだ! 黄昏の地なんかにやるもんか!」
「アル。もう解放してあげよう。もうここはエルが生きていた時代から随分離れてしまった。黄昏の地にはエルの大切な人達が待っている筈だわ」
「…………」
エルはずっと気にしていた。自分一人が故郷から逃げてきてしまったことを。彼女を護ってくれた人、傍で支えてくれた人、大好きだった人々のことを。彼らのことを思って夜泣き出してしまうこともあった。それをアルは良く知っている。だって涙の止まらない彼女を慰めるのはいつも自分の役割だったから。
「……向こうに行ったら、エルは幸せになれる?」
「彼女は幸せだったわ。あなたとここで過ごした時間は幸せで一杯だったって言っているもの」
ずっと夢を通して共有してきた彼女の思い出。それは優しく綺麗で温かな記憶で溢れていた。マリアベルだからこそ分かる。幸せだったと今も伝えようとしている彼女の魂の言葉に嘘なんて一つもないのだと。
下を向いてぎゅっと拳を握るアルの額に、マリアベルはコツッと自分の額を寄せた。
「アル。エルの本当の名前を教えて」
「……エルライン」
「ありがとう」
マリアベルは彼女の前に再び両膝をつけ、手を組み合わせた。そして祈りの言葉を詠唱する。親友である精霊アールハマトの為に、この地に留まり続けた少女の魂を浄化する為に。
(エルライン、か……)
二人の様子を後ろで見ていたラズは彼女の名前を確かめるように心の中で復唱した。恐らくその名に覚えがあるのはラズだけではないだろう。彼女の名前はあまりにも有名だった。
エルライン=レット=スレイル=ビアナ。二百年前存在していたビアナ皇国最後の王。国王と王妃を謎の死によって失い、幼くして王位を継いだエルライン女王は隣国と通じていた臣下の裏切りによって国を追われた。だが、歴史に残されているのはそこまで。その後彼女はこの地まで逃げ延び、木の精霊アールハマトと出会っていたのだ。彼女の骨格は細く小さい。恐らくその後も長くは生きられず、大人になることなく亡くなったのだろう。
マリアベルの祈りの言葉の間、彼らも少女の為に黙祷する。ただ一人、アルだけが目を開いてじっとエルを見つめていた。
やがて祈りが終わる。同時にアルは別れを告げた。
「さようなら。エルライン」
頭を過ぎるのは初めて彼女が名前を呼んでくれたあの日。
――アールハマト? じゃあ、あなたはアルね。
――アル?
――そう。エルとアル。まるで私達兄弟みたいだわ。
今でもはっきりと思い出せる君の笑顔。あぁ。そうだ。エルライン。僕はずっと幼い君を愛していた。
まるで祈りが作用したかのように、迷いの森の霧が晴れていく。そして一行はこの森に入って初めて夜空に輝く星々を目にした。
きっとこの森全体が彼女を護っていたのだ。そう、ラズは思った。
エルライン女王の供養と埋葬が終わり、一行が大木を離れたのはもう明け方だった。遠くの山から顔を見せた太陽が霧の晴れた森を柔らかく照らしている。
「なんだお前。〈風〉なんか侍らせて」
王城へ帰還する為に歩き出した彼らに何故かついてきた木の精霊アールハマトはラズを見るとそう文句を垂れた。この森に入ってからずっと傍にある〈風〉の気配が、どうやら彼には分かるらしい。
「いや、別に。侍らせてるわけじゃ……」
「〈闇〉は大人しいからいいけど、〈風〉はどいつもこいつも小言が多いから嫌いなんだ」
「酷いなぁ。優しくていい人達だよ」
「ハッ、外面の良さに騙されてんだよ。大体……」
すると言い終わる前に〈風〉が姿を具現化した。今度は皆に姿が見えるように。
『随分な言われようだな』
『ホント失礼しちゃうわ』
「げっ! 出たな。小姑どもめ!」
苦々しく顔を歪め、アルはマリアベルの後ろに隠れた。幼い頃から彼らを知っているマリアベルは二人の出現に驚きもせず、久しぶりの挨拶を交わしている。
『ねぇ、マリアベル。この子私達に預けて貰えないかしら』
「え?」
『我らにかかればこのような悪鬼、たちどころに品行方正に躾てみせようぞ』
そう言ってひょいっとアルの首根っこを掴む。アルはふざけるなとばかりに両手両足をジタバタさせて抵抗した。
「はぁ? ふざけんな、ボケ! 離せ! はーなーせー!」
だが相手が悪い。ラズの友人でもあり親でもある二人の〈風〉は上位精霊。彼らにかかればアールハマトはそれこそ小童に過ぎないのだ。〈風〉達はラズとマリアベル、そしてネイに別れを告げるとアルを連れてその場から姿を消した。
再び歩き出す一行。その中で〈風〉達に挨拶をしたネイに驚き、マリアベルは彼に話しかけていた。
「ネイザンさんは彼らを知っているんですか?」
「えぇ。私をマリアベル様の所まで導いてくれたのが彼らでした」
精霊を見る為には精霊自身が姿を現すことを了承しなければならないが、同時に相手も精霊の存在を認識している必要がある。泉の調査でラズに〈風〉の友人がいることを知ったネイはいつの間にか彼らに認められ、ラズがリベリ=ゴーゴルンと話をしている間に〈風〉の協力を得てマリアベルを探しにこの森まで来ていたのだ。別行動していた騎士団や魔術師達よりも先に彼女の下に駆けつけることが出来たのは彼らの協力があったからこそだった。
「すごい。協力してくれるなんて、余程気に入られたんですね」
「いえ、マリアベル様を思ってのことでしょう」
実際は二人ともラズの大切な人間。だからこそ〈風〉は力を貸してくれたのだが、ネイはそう思っていないようだ。
その後ろでヘリオはラズの袖を引いた。
「ねぇ、ラズ。風の精霊の二人にはアールハマトみたいに名前はないの?」
ラズは彼らのことを〈風〉としか呼ばない。精霊とはそういうものかと思っていたのだけれど、初めてアルに会ってそうではないと知った。だから不思議に思ったのだ。
「あるかもしれませんが、俺は知りません」
「どうして? 仲良しなんでしょう?」
素直なヘリオの言葉に、ラズは彼を見下ろして微笑んだ。
「彼らは誰にも掴むことの出来ない風です。自由の象徴である風に名を付けてしまえば、俺は彼らから自由を奪ってしまうことになる」
「どうして名前を呼ぶことが自由を奪うことになるの?」
「名前というのはとても重要な意味と力を持ちます。殿下は何故生まれたばかりの子供に親が名を付けるかご存知ですか?」
「何故って、赤ちゃんを呼ぶのに困るからでしょう?」
「それもあるのでしょうが、本来は魂を肉体に縛る為のものなんです」
「魂をしばる?」
首を傾げるヘリオの頭の上には疑問符が浮かんでいる。幼い彼には難しい話だったかもしれない。
「産まれたばかりの肉体と魂の繋がりはとても弱い。それはまだ魂が自我を持たないからです。自分がいる肉体という器が果たして己のものなのか否かの意識が弱い為に、外部からの圧力で簡単に繋がりを解いてしまう。だから名を与えて肉体に縛りつける。お前は陛下と王妃の御子、ヘリオスティンだよ、と教える事で二人の血が流れる肉体に繋ぎ留める訳です」
「じゃあ、いつまでも名前を付けて貰えなかったら、赤ちゃんは死んじゃうの?」
「そうとは限りません。医療技術が乏しかった昔は赤ん坊の死亡率が高かった。それを抑えるために人々が考え出した風習の一つです。ですが絶大な効果があったと文献には残っています」
「ふーん。不思議だね。名前なんて当たり前にあるものなのに」
「名前は呪です。魂を縛り、幾多利とあった筈の未来への道を振り落とし一つにしてしまう」
「話が難しいよ、ラズ」
ラズの袖を握ったまま、ヘリオが口を尖らせる。
「殿下はヘリオスティンと名付けられたが故にトゥライアの王子としての道を歩むことになりました。そしてもう他の人生を選ぶことはできない」
「……それは、なんとなく分かる」
「俺が〈風〉に名を与えれば彼らはそれ以外の存在ではいられなくなる。それ程名前というものは重要なのです」
ラズの話は難しいけれど、ヘリオには彼がどうしたいのかは分かった。ラズは〈風〉達を大切にしたいのだ。
「そっか。ラズは彼らに自由でいて欲しいんだ」
「えぇ。そうですね。恐らくエルライン女王の魂が二百年の時を経ても尚この地に留まっていたのはアールハマトが彼女の名を呼び続けた為でしょう。彼女は黄昏の地への道を進まなければならなかったけれど、『エル』はここに、彼の傍に縛られてしまった」
――エル。エル。
――なぁに、アル。
――丘の向こうに葡萄がなったよ。僕が取ってきてあげる。
肉体から魂が離れても自分を求めるアルの声。彼女は親友を想うが為に留まり、そしてアルも彼女を想うが為に名を呼び続ける。それを悪循環だと誰が言えるだろう。
「だからね、殿下。人ではない存在に安易に名前をつけたりしてはダメですよ。与えるつもりが相手から何かを奪っていることもある」
「……うん」
「それと自分の名を明かすも同様です。相手が魔力を持つものであれば尚更。魔力は名前を契約の楔にします。名を与えるのは自分の血肉を与えるのと同じなのです」
「う、うん。分かった」
王族や地位の高い者程長い名前を持つ事や、人々が愛称をつけて呼ぶのは本来の名前を隠す為だという説もある。
何故か物騒な方向に転がった話題にヘリオが懸命に頷く。そんな彼の頭を一度くしゃっと撫で、マリアベルの隣に行くよう促した。二人は再び手を繋ぎ歩き出す。するといつの間にかラズだけにしか見えない姿で〈風〉が傍に戻っていた。
『愛しい子。鎖を与えるのがあなたであるなら、私達は喜んでそれを受け取るのに』
『されど名がなくとも我らが友であることに変わりはない』
『でも、私はちょっと寂しいわ。アールハマトが羨ましくなるくらいには』
〈風〉の一人が遠くなった巨木を振り返る。異種間の壁を越え、確かに繋がれた二人の絆。それはとても強くて優しく、温かい。
ラズは小さな声をそっと風に乗せた。
「俺のようなちっぽけな存在の為に、永遠を生きる君達を縛るのはおこがましいよ」
『君はいつもそうやって自分を過小評価する。私達はそんな君は好きじゃない』
語られた否定の言葉。それでもその意味を正確に捉えたラズはそっと微笑んだ。
「やっぱり優しいな君達は」
ふっと〈風〉の気配が消える。するといつの間にか隣にネイが並んでいた。二人の間に言葉はないが、違和感も気まずさもない。この位置が当たり前になっていることに今更ながらに気付かされる。それは〈風〉がネイに気を許した事からも明らかだ。
不意に前を歩いているヘリオが振り返った。
「でもね、ラズ」
「?」
「アールハマトはとても幸せそうだったよ」
少女によって『アル』と呼ばれるようになった木の精霊。彼もエルによって縛られていた。友人の傍を離れられないのは彼も同じ。けれどエルをマリアベルに紹介した彼は本当に幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……えぇ。そうですね。殿下も大切な人の名前は本人と同じように大切にしてあげてくださいね」
「うん。ねぇ、もしかしてそれも魔法なのかな?」
「え?」
「大好きな人に名前を呼んでもらえると嬉しくなったり、ほっとしたり、ドキドキしたりするのは、その人がかかった魔法なのかもね」
「……そう、ですね」
ラズ、と呼ばれる度にこの身にはラズが残る。そうしてリジィターナは消えていく。皆の中から、自分の中から、そして世界から。女として機能しない自分は、魂の連鎖を断ち切る存在の自分は世界にとって必要のないもの。こうして静かに消えていくのならそれも良いのかもしれない。
自分の前を歩くマリアベルとヘリオ。二人はその手をしっかりと繋ぎ、笑顔を交わし、そうしてこれからも過ごしていくのだろう。美しい解呪の巫女は王子達に求められ、この国に必要とされている。護衛としてこの国を訪れたおまけのリジィターナは必要とされていない。
「おい」
思考にふけっていた所に肩を掴まれ、ラズは隣を見上げた。一対の黒い瞳がラズの顔を映している。
「え?」
「疲れたのか?」
「まぁ、走り回ったし、ちょっとは……」
「そうか。だが前を見て歩け。危なっかしい」
大きな手が先程自分がヘリオにしたようにくしゃっと栗色の髪を撫でる。その温度が温かくて、ラズは肩の力が抜けた気がした。
「……あ、あぁ。悪い」
ラズはなんだか恥ずかしくなってネイから顔を逸らした。
名前でなくとも人の魂を縛るものはある。例えば優しく耳朶に入り込む低い声だとか、髪に残る大きな手の温もりだとか。




