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13.夢

 違う違う違う。

 僕は狂ってなんかいない――





 ***


 はぁはぁはぁ……

 自分の息遣いがやけに大きく耳に響く。マリアベルは必死に足を前に出しながら、深い霧に覆われた夜の森を駆けていた。


「ほら、早く早く! 捕まっちゃうよ!」

「うん……」


 マリアベルの前を少年が軽い足取りで走っていく。明かりの無い真っ暗な森の中でも彼は迷わず進んでいた。時折後ろを振り返れば遠くにオレンジ色のランプの灯りが見える。マリアベルは恐怖に駆られて身震いした。


(あぁ。一緒だわ)


 蘇る光景。幼い足で必死に逃げ、全てを失った夜。もしあの明かりに捕まってしまったら、何かを失ってしまうのだろうか。


(そんなの駄目)


 トゥライアで出会った人達は皆大切な人なのだ。誰一人失えない、大事な人。だから逃げなくては。追ってくるあの男から。そしてアルの――


「きゃっ!!」

「マリアベル!!」


 走り続けていた足はとうに限界を迎えていた。急にがくっと力が抜けてマリアベルはその場に倒れこむ。少年が慌てて引き返した時、目の前にはランプの灯りが迫っていた。それに照らされたのは息遣いの荒い若い男の顔。男は彼女の腕を掴み、倒れた所を無理矢理立たせた。


「やっ、離して!!」

「黙れ! 手間かけさせやがって」


 男はランプをその場に置き、ポケット取り出したのは小さなナイフ。それを彼女の喉元に突きつける。


「死にたくなったから大人しくしていろ」

「私をどうするつもりですか?」

「フン。どうやって小屋から逃げたのかは知らんが、もうあそこは使えない。お前は目立つからな。辺境にでも売り払うか? 女ってだけで価値が高いんだ。お前なら相当だな」

「……」


 ナイフを突きつけられても怯むことなく自分を睨みつけるマリアベルに男は舌打ちを返した。相当な距離を走ったからだろう、彼女の白い肌には汗が流れ、首元には淡い金の髪が張り付いている。乱れた呼吸と上気した頬。それらが月光に照らされ、なんとも情欲的な光景だった。思わず男は唾を飲み込む。そして無言で彼女をその場に押し倒した。


「きゃっ!! 何を!」

「黙ってろ!!」


 片手で両腕を一まとめに拘束され、もう片方の手は彼女の首筋にナイフを当てている。男は体を彼女の足の間に滑り込ませ、首筋を流れる汗を舐め取った。


「嫌っ!!」


 男の荒い呼吸が首元にかかる。同時に怖気が走り、マリアベルの目に涙が滲む。その時、ミシッという音が右側から聞こえた。


「うわっ!!」


 何かがマリアベルの上から男を吹き飛ばす。衝動的に瞑った目を開ければ、脇に生えていた木が枝を伸ばし男の体を殴打していた。


「アル!!」

「ごめん、マリアベル。大丈夫?」


 少年がマリアベルに駆け寄ってくる。だが男はすぐに立ち上がり、地面に落ちたナイフを拾い上げた。


「テメェ、今何を!!」


 彼女に向かってナイフを振り上げる。けれどそれが振り下ろされることは無かった。男の凶行を阻んだのは騎士の持つ剣。マリアベルの前には黒髪の騎士が立っていた。


「あ、貴方……」

「ひっ、騎士!?」


 女性ならともかく訓練を受けた騎士には勝てないと踏んだのか、男はすぐに逃走に移った。だが遅い。黒髪の騎士は男の背中を剣の腹で打ち、地面に叩きつけてそのまま締め上げる。


「マリアベル様!!!」


 次に現れたのは見慣れた近衛騎士二人。そこでようやくマリアベルは助けが来たのだと分かって肩の力を抜いた。


「オリバさん、クレイドさん……」

「ご無事ですか?」

「えぇ。私は大丈夫」

「お怪我は?」

「無いわ。それよりあの人は?」


 マリアベルが目を向けた先では彼女を襲った男が縄で縛り上げられていた。その脇に居るのはラズの護衛、ネイだ。いち早く駆けつけ彼女を助けてくれたのは彼だったのである。


「殿下達も今こちらに向かっています。すぐに城へ戻りましょう」


 オリバの手を借りて立ち上がる。けれど彼女は首を横に振った。


「マリアベル様?」

「私、行けません。守らなくてはいけない約束があるんです」





 ***


 城下町の東にある森は人の多い土地に面しているのにも関わらず鬱蒼としていて人の手が入っていない。それはここが迷いの森、と呼ばれる非常に霧の深い場所だからだ。迷い込んだものは二度と出て来る事が出来ないと言われている、とても面積の大きな森である。城下町から森を真っ直ぐに進めば山裾に当たり、更に山を越えると国境になる。 

 そんな人が足を踏み入れることのない迷いの森を三分の一ほど進んだ場所に、珍しくランプの明かりが数個灯っていた。マリアベルを救出に来た騎士や魔術師、そして三人の王子達である。彼らは失踪した彼女を無事見つけたものの、その場から動けずに居た。未だ夜の森から出られない原因はやはりマリアベルであった。


「マリアベル。此処は霧の深い森だ。出直した方がいい」

「ごめんなさい。ディン。でも私どうしても行かなくちゃ」

「だから、それはどうしてなんだよ」

「……ごめんなさい」


 先程からこの繰り返しだ。やっと彼女を探し出したと思ったら「帰れない」と言う。理由を聞いても約束したからの一点張り。これではずっと彼女を心配していた人達、特に殿下達が報われない。どうにかディンが説得を試みてはいるものの、話は平行線を辿っている。

 マリアベルのことは殿下達に任せようと思い、後から合流したラズは黙ってこの様子を見守っていたが、いかんせん此処の男達はマリアベルに甘い。彼女に強く言えない男達に、そして彼女を心配している彼らに対して説明もないまま自我を通そうとするマリアベルに、いい加減堪忍袋の緒が切れた。

 ラズは座っていた木の根元から立ち上がり、マリアベルとディンの傍に行く。


「マリアベル」

「ラズ。あの、私……」

「いい加減にしろ!!」


 珍しく声を荒げるラズを皆が驚きの表情で見るのが分かった。見る見る内にマリアベルの表情が強張る。だが、ラズは容赦しない。


「それが自分を心配して探してくれた人達に対する態度なの? 君には彼らに今回の件を説明する義務がある。それも果たさずただ帰れない? そんな我儘通用すると思ってるのか」

「で、でも……」

「俺はね、君が帰れないって言ってる事を責めてるんじゃない。帰れない理由を言わずに周囲を困らせていることを責めてるんだ。君が此処に留まる事で彼らも城には帰れないことは勿論分かっているんだよね? その上で何も話せない? 何も言わずに彼らをここに拘束できる程君は偉いのか」

「私、そんなつもりじゃ……」

「つもりじゃなければ何をしてもいいの? 悪いけど、理由もなくただ帰れないって言うんだったら無理矢理でも連れて帰るよ。皆仕事があるんだ。君にばかり構っていられない」


 マリアベルの手を取り強引に引く。すると彼女は必死にラズの腕に縋った。


「待って!! でも、約束があるの」

「それは誰との約束?」

「…………」

「それも言えないの?」


 冷ややかな目がマリアベルに落とされる。その時、彼らの目の前に六・七歳程の少年が姿を現した。


「アル……」

「君だね、マリアベルを部屋から出した木の精霊は」


 確信を持ったラズの声に周囲の者達がはっと息を飲む。少年の姿をした木の精霊は肯定も否定もせずにラズを睨み付けた。


「マリアベルをいじめるな」

「いじめてないよ。大人なんだから我儘は止めなさいって話をしていただけさ。それで? 君とマリアベルは何の約束をしたの?」

「お前には関係ない」

「残念だけどそうもいかないんだ。マリアベルは君との約束を果たさなければ帰らないと言ってるし、彼女が帰らなければここに居る皆も帰れない」

「……でも、関係ないヤツをエルの元へは連れて行けない」

「エル?」

「アルの友達なの。私、アルと一緒にエルに会いに行く約束をしたのよ」

「そう。それで、どうして今でなくては駄目なんだ?」


 マリアベルは一度アルと呼んだ〈木〉の顔を見る。彼は悔しそうに両拳を握っていた。そんな姿を見て、マリアベルは覚悟を決めたのか口を開いた。


「エルは人間の女の子なんだけど、彼女のが小さくなってるんだって。多分もう、長くない。だから少しでも早く行ってあげたいの」

「…………」


 ラズはディンの反応を伺った。彼もどうするべきか悩んでいるようだ。彼らの話が本当ならば森の中にいるエルという少女を保護しなくてはならない。


「ここからエルが居る場所まではどのくらい?」

「……人間の足なら歩いて一時間」

「遠いな。ディストラード殿下、俺がマリアベルと共に行きます。お三方は先に城へ戻っていてください。陛下の居ない今、城を預かる殿下達が留守にするのはまずいでしょう」


 本当ならマリアベルの傍を離れたくはないのだろう。だが、第二王子としての自覚がディンの首を縦に振らせた。ディンが固い顔で彼女の目を見る。


「そうだな……。マリアベル」

「はい」

「もう勝手に居なくなるな。必ず戻って来い。いいな」

「……はい。ありがとう、ディン」


 言い終わると同時にディンはマリアベルの頬を両手で包んだ。そのまま彼女の唇に軽い口付けを落とす。


「ディン……」

「もうあんな思いをするのはごめんだ」

「うん。ごめんなさい」


 いつも強気なディンの声が掠れていて、マリアベルはとても彼らに心配をかけてしまったのだと分かった。ラズに言われた言葉が胸に沁みる。

 二人が離れ、ディンとダンが踵を返す。けれどヘリオは動かない。それどころか小走りでマリアベルの傍まで行くと「僕も行く!」と言い出した。


「ヘリオ! でも……」

「お願い。絶対邪魔はしないから」


 幼いながらに真剣な目がマリアベルと木の精霊に向けられる。そう、精霊であるアルの姿は皆の目に映っていた。通常精霊は人の目には見えないが、マリアベルを連れて行かせまいとして彼らの前に姿を現したのだ。

 王子達と共に来た騎士や魔術師達が説得するがヘリオは頑として譲ろうとしない。そんな彼を見て、オリバが前に出た。


「私も同行してマリアベル様とヘリオスティン殿下をお守りしましょう」

「ならば私も行きましょう」


 手を上げたのは魔術師のケヴィーノ=オレゴン。術式の解析に長けている左の者で、マリアベル捜索の為に奔走してくれた魔術師の一人だ。さらりと流れる銀髪を魔術師にしては珍しく短く整え、タレ目がちな甘いマスクをしている。歳は三十半ばだが、それより若い印象の彼はラズに笑顔を向けた。


「騎士と魔術師がついていれば殿下をお守りするに不足はないでしょう」

「……分かりました」


 一行はディン達と共に城へ帰還する者とその場に残る者とで別れた。口を挟むことはなかったが、当然ラズが残れば護衛のネイも残る。マリアベルとヘリオ、ラズとネイ。そしてオリバ、ケヴィーノを加えた六人は木の精霊アルの案内で森の更に奥へと進んだ。


「最初から説明してくれる?」


 今だピリピリしたラズの言葉に、マリアベルは今にも泣きそうな顔で頷いた。彼女の隣を歩くヘリオと繋いだ手を一度ぎゅっと握る。


「夢を見たの」

「夢?」

「そう。アルとエルの夢」


 彼女の言葉に反応したアルが一度後ろを振り返る。マリアベルは一度彼に向かって頷き、話を続けた。


「エルはね、故郷を追われてこの森に逃げてきたの。そこでアルと出会って友達になった。そんな二人で過ごした日々が最近私の夢に現れるようになったの」


 何故そんな夢を見るようになったのかずっと気になっていた。繰り返し現れる人間の少女エルと木の精霊アル。唯の夢だとは思えず、けれどマリアベルにはどうすることも出来ないで居た。そんな時、夢の中の登場人物であったアルがマリアベルの前に姿を現した。


「それが失踪した日か」

「そう。アルが部屋に来て、エルに会って欲しいと頼まれたの」

「それは何故?」


 ラズは自分達の前を歩くアルに問いかける。彼はマリアベル以外の人間に気を許す気は無いのか、不機嫌そうな声で答えた。


「理由なんかない。エルが欲しいって言ったからマリアベルを連れてきただけ」

「マリアベルに会いたいと言ったのはエルの方なのか」


 木の精霊と共に暮らしていた少女、エル。彼女の念が王城にいるマリアベルに届き、夢に現れたというのだろうか。ただの少女にそんなことが出来る訳がない。


(もしかして、彼女は……)


 嫌な予感がした。先程エルの気が弱くなっている、と言っていた。巫女であるマリアベルに干渉できるとしたら、少女はかなり弱っている可能性が高い。死に近づいた時、人は思わぬ力を発揮するものだから。


「……それで、彼の力を借りて二人で城を出たんだね?」

「うん。そうしたらさっきの男の人に馬車まで案内してくれると言われて……」

「ついて行ったら監禁された?」

「ごめんなさい。城勤めしている人だから大丈夫だと……」


 益々マリアベルは肩を落とす。人を疑わないのは彼女の良い所だが、今回ばかりはそう言ってもいられない。此処は人口の少ないシィシィーレとは違う。国の中枢である王城はあらゆる思惑の絡む場所でもあるのだ。


「黙って行ったのは何故?」

「アルが、他の人には知られたくないからと」

「当たり前だろ。僕達の森を人に荒されるなんて真っ平だ」


 挑戦的にアルが言い放つ。けれどラズが気分を害することはなかった。精霊が基本的に人との関わりを好まないことは承知しているから。

 ラズは鮮やかな緑色の髪をした少年の背中に声をかけた。


「アル」

「気安く呼ぶな。僕の名前はアールハマトだ」

「なら、アールハマト。マリアベルを彼女の下に連れて行けば、それで君は満足なの?」

「……どういう意味?」

「エルという少女の気が小さくなっているんだろう? 彼女が人間である限り、俺達は弱った少女を置いて森を立ち去ることは出来ない」

「エルを連れて行くつもりか!」

「そうなるだろうね」


 立ち止まったアルがラズを睨みつける。 相手は精霊。どれだけ剣の腕があろうとも魔術が使えないラズでは、アルが本気を出せば当然敵わない。一瞬の内に騎士と魔術師達の間にも緊張が走る。ネイがラズの前に身を晒そうとした時、その空気を破ったのはヘリオの一言だった。


「アルはエルが大好きなんだね」

「……ヘリオ」


 マリアベルは手を握っていたヘリオを見下ろす。彼は真っ直ぐな目で初めて出会った精霊を見つめていた。


「そうだよ。エルは友達なんだ」


 それだけ言うと、アルは再び歩き出した。しばらく一行の沈黙は続き、月の位置が大分傾いた頃アルの足が止まった。そこはまるで森の主のような巨木の前。手を伸ばした大人が十人で囲っても足りないような太い幹を持ったその木は柔らかな夜風に葉を揺らしていた。



「エル」


 木の根元に向かってアルが声をかける。そこには小さな少女が座っていた。

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