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10.精霊

「ちょ……ちょっと待って、ディン!!」

「嫌だ。待たない」

「でも……」

「なら二人でどこに行ってたのか教えてよ」

「それは……」


 ソファの上に押し倒され、言葉に詰まるマリアベル。それを見たディンはムっとして彼女に覆いかぶさった。


「じゃ、ダメ」

「や……、んんっ」


 乱暴に唇を塞ぎ呼吸ごと奪う。侵入させた舌で咥内を舐め上げれば、涙を浮かべた彼女が苦しげに名前を呼んだ。


「は、ぁ…ディン……」

「そんな顔したって許さないから」


 そう言って再びディンは彼女の唇を覆った。


(なんで俺ここにいるんだろう……)


 ダンは途方に暮れていた。先程までラズの部屋で他愛の無い話をしていた二人は昼近くに彼女の部屋に戻った。するとそこには彼女と一緒に昼食を食べようと待っていたディンがいたのだ。彼はやけに親しげな二人の様子をいぶかしみ、どこに行っていたのか訊ねた。けれどダンがラズの部屋の鍵を持っていることも、マリアベルが無断で入ったことも秘密にしなければならない。互いの顔を見合わせどう答えたら良いのか考えあぐねていたら、その様子にさえ嫉妬したディンが暴走したのだ。マリアベルを自分の下に引き寄せると、あっと言う間にソファに押し倒し、今こうして夢中で彼女の唇を貪っている訳である。

 どうしたら良いのかとおよび腰になっているダンにマリアベルは縋るような目を向ける。それに気付いたディンが増々口付けを深くした。


(まさかここでおっぱじめたりしないだろうな)


 二人がキスを交わす程の仲になっていた事すら知らなかったのだ。どこまで進んでいるのか分からないダンがこの勢いのまま服を脱ぎ始めるのでは、と懸念するのも無理はない。部屋を出るべきか迷っていると、外から扉が開かれた。


「どうした?」

「兄上」


 恐らくディンと同様に彼女と昼食をとるつもりだったのだろう。姿を現したマックにほっと息をつく。すると彼はソファの上でマリアベルに覆いかぶさっているディンを見つけ、その目を吊り上げた。


「……ディン。お前何してる」

「ンだよ、邪魔すんな」

「彼女が嫌がっているだろう。離しなさい」


 大股でソファの前まで行くとマックは彼女を抑えているディンの腕を取った。だが、ディンはそれくらいでは怯まない。


「ハッ、そんなこと言って。兄上だって同じことしたいくせに」


 バチバチと散っている火花が見えそうだ。てっきりディンの暴走を止めてくれると思って安心していたダンは更に厄介なことになりそうな雰囲気に唖然とした。ディンに組み敷かれてその様子を見ていたマリアベルは慌てて二人を止めに入る。


「ちょっと喧嘩は止めてください! お二人とも仲良く……」


 するとちょっと間が空いた後、マックがにっこりと笑った。その笑みに安心したのも束の間、彼はとんでもない提案を口にした。


「そうだな。じゃあ、仲良く二人でマリアベルに口付けようか?」

「え?」


 すると反対する所かディンまでもが同意する。


「マリアベルのお願いじゃ仕方がないな」

「えぇ!!」


 ソファに背をつけていた彼女を抱き起こし、マックが背後から彼女を抱きしめる。そして後ろから回した手で彼女の顎を捕らえて自分の方に向けると、そのまま宣言どおりに口付けを始めた。突付く様な吸い付くような軽いキス。気を抜きかけた所で彼の舌がマリアベルの唇を割って入ってくる。


「んぅ…。マック…や……」


 再び乱れる呼吸。すると正面からディンが耳に息を吹きかけてきた。


「こっちもな」

「やだっ、ディン。くすぐったい」


 首をすくめる彼女を楽しそうに眺め、耳に口付けをしていく。耳のふちに沿うように、そして耳たぶを軽く甘咬みすると彼女の体が震えた。その反応の気を良くしたのか、更に舌を耳の穴に滑り込ませる。


「ふぁ…、それダメ……」


 ぞくぞくとした何かが背筋を駆け抜ける。二人の腕に囲われ、その唇に翻弄されている彼女を見ながらダンは泣きそうな気分だった。


(帰りたい……)


 三人の世界を作っている彼らを放置してここを出るか。それともラズとの約束を守って傍に居るか。自分も花婿候補であることなどすっかり忘れて、逃げ出したい気分のダンなのだった。





 ***


 ――どうして。どうしてこんなことになってしまったの。


 小さな少女が懸命に駆けている。夜の森の中は暗く、振り返れば遠くに上がるいくつもの火の手が見えて少女は恐ろしさにその身を震わせた。あの火の下では見慣れた街や人々が燃えているのだ。少女の生活の中にあった沢山の日常が燃えているのだ。それは既に人の手で消すことの出来ない程の大きさになり、あっという間に全てを飲み込んでしまった。


(一体何がいけなかったんだろう)


 けれどそんなことは考えても意味が無い。少女はあまりにも無力で、無知だった。そしてそんな彼女を責めるかのように火は放たれた。誰でもない、身内の手によって。

 逃げろ、と彼女の騎士は言った。だから一人で逃げている。多くの手を掻い潜り、人の立ち寄らぬ深い森の中に。しかしいつまでも幼い彼女の記憶に焼きついた光景は消えず、この先も彼女を苛むのだろう。


(母様、父様……)


 優しかった両親が死んで、彼女はその全てを受け継いだ。けれど小さな肩にそれは大きすぎた。背負いきれず筈も無く、それでも上手くいっていると思っていた。少なくとも彼女の前では皆がそう言っていた。それをどうして彼女が疑えるだろう。どうしてそれを責められるだろう。


「あっ……」


 どしゃっと不恰好な音を立てながら少女が転ぶ。ずっと走り続けていた彼女の両足は既に限界だった。両膝に血が滲み、我慢していた涙が頬を濡らす。


「うっうっ……」


 怖いと思った。初めて人を怖いと思った。自分の周りにいる人達はいつも皆笑顔だったのに。全部嘘だったのだ。彼らは冷徹な表情で、今まで笑みなど浮かべたことがないような表情で火を放った。人を、斬ったのだ。


(私……私も死んじゃうの?)


 それはとてつもなく恐ろしい事。両親が死んだあの日、自分も死んだら同じ場所にいけるのかな、と思った。けれど死に直面した今はそれがこんなにも怖い。


(死にたくない…。死にたくないよ……)


 その時、小さな光が彼女の前を横切った。一瞬松明かと思った彼女は体を強張らせたが違う。その光は赤ではなく、緑色をしている。


「きったねぇ格好。誰だ、お前」


 その光の中心にいた少年が、少女を見て首を傾げた。彼女は泣くことも忘れて、その少年に魅入っていた。





 ***


「え? 空いてない?」


 イーシャの町に戻った二人は今馬を預けた宿屋にいる。けれど店主から告げられた満室の言葉にラズは信じられない、といった顔をした。そもそもイーシャの町は小さい。宿屋はここ一軒しかないのだ。


「二人分は無いんですよ。空いているのはお一人用の部屋一室だけでして」


 すいません、と年老いた男の店主が頭を下げる。するとネイはそれで良い、と言った。


「良いって、お前……」

「野宿よりは良いだろう。俺は床で十分だ」

「でも……」


 それでも納得しないラズをネイは見下ろした。威圧感すら感じるその目線にラズが一瞬怯む。


「ラズ」

「な、なに?」

「俺の役目はなんだ」

「……護、衛」


 その一言に満足したのか、彼は店主に向き直った。


「一部屋でいい。用意してくれ」

「…………」


 護衛である自分に気遣いは不要だと言いたいのだろう。ネイは最初からそうだった。けれど少なくともラズにとってネイは仕事仲間に近い。そんな風に線を引かれるのは心外だ。


(まぁ、かといって一緒のベッドで寝るわけにも行かないしな)


 ひょんなことで体に触れられ女だとバレても困る。色々言いたいことはあったが、結局ラズが折れることとなった。


 濡れてしまったネイを先に風呂に入らせて、ラズはベッドに座っていた。この部屋にあるのはシングルベッドとランプの置いてある小さなチェスト、丸テーブルに椅子二脚。ソファすらないこの部屋では本当にネイは床で寝ることになりそうだ。

 ネイがいないこの時間、ラズは古い友人達と話をしていた。


「驚いたよ。いつここに?」


 二人の風の精霊はラズの目の前に姿を現している。人間で言えば三十代前半ほどの年齢だろう。だが肉体を持たない精霊の年齢を見た目で判断することは不可能だ。彼らはラズが物心ついた時から傍に居た。その時から見た目は少しも変わっていない。


『我らにとって距離など意味を成さない。友の傍にと願えばたやすいこと』

『やぁねぇ。心配だったって素直に言えば良いのに』

「はははっ。ありがと」


 彼らはずっとシィシィーレにいた筈だが、流石は風。ここまで移動することなど容易いようだ。

 精霊は基本人間に感心を持たない。彼らにとって人が生まれてから死ぬまでの時間などあっと言う間だ。そんな些細な存在に逐一気を使うつもりは無いらしい。

 けれどラズの目の前にいる二人は別だった。少なくともラズやラズが大切に思っている人々に感心を持っている。それはきっと彼らが自分の親代わりだからだろう、とラズは思っている。実際育ててくれたのは神官長セリオスだったが、捨てられていた赤ん坊のラズを見つけ、神殿に知らせてくれたのはこの二人の〈風〉だったのだ。


『リジィ』

「……何?」

『大丈夫?』


 彼らはずっとこんな風にラズを心配してくれている。それは自分が女性として機能しないと知ってからは特に。きっと男として過ごしている今も心配をかけ続けている。だからシィシィーレから離れ、ここに来てくれたのだろう。


「……うん。ありがとう」


 柔らかな風が頬を撫でた。そうして瞬きする間に彼らは姿を消していた。





 ***


 既に時は深夜。宿屋の一室で二人は深い眠りについていた。一人は安宿のベッドの上で穏やかな寝息を立てている。いつも縛っている栗色の髪は解かれ、寝顔はほんの少し幼さを残していた。そしてもう一人はベッドの脇で片膝を立てて座り、剣を抱きかかえるような格好で眠っている。壁に背を預けて目を閉じてはいるが、異変があればすぐにでも剣を抜くことの出来る体勢だ。

 ドアも窓も閉じられた部屋。しかし、そこで突如風が起こった。それはベッドの上の一人の髪を揺らし、いつの間にか現れた透明な腕がその髪を撫でている。


『友よ』


 気を許した者にしか聞こえない声。それは確かにベッドの上のラズの鼓膜を揺らしていた。


「ん……。〈風〉?」

『疲れているのにごめんねぇ。でも起きれば珍しいものが見れるわよ』


 誘うようなその声に起され目を開ける。二人の〈風〉が視界に入ると、彼らは静かにその珍しいものを指した。そこにいたのは床に座って眠るネイ。だが彼らがラズを起してまで見せたかったのは彼の寝姿ではない。ネイの傍には彼に寄り添うように黒を纏った小人がいた。


「〈闇〉?」


 一人ではない。身の丈十センチにも満たない小さな闇の精霊達が数人そこにいた。ネイに寄りかかって一緒に座っている者もいれば、彼の膝の上にのっている者もいる。


『魔傷をその身に残しながら〈闇〉に好かれるとは、稀有な人間だ』

「凄い……」


 ラズは感嘆の吐息を零した。精霊の中でも〈闇〉は穏やかな気性だがその分臆病だ。滅多に人には寄り付かず、精霊達の前でも姿を現すのは珍しい。光が射せば簡単に影は消えてしまうが、闇は光を消すことが出来ない性質。それと同様〈闇〉は何も侵さない。常に受身なのだ。それ故自身で光を生成することのできる〈光〉や〈火〉が苦手で、それを道具として常日頃用いている人間を好まない。

 闇は悪と同意だと思われがちだが、それは陽の下で行動し、夜に眠る人間だからこその思い違いである。人の目は光の下でなければ機能しない。だから見えない闇に恐怖し、悪の象徴にする。闇がもたらす睡眠を永遠の眠りと繋げて嫌悪する。けれどそれは夜行性の動物達からすれば逆のことが言える。彼らにとっては自分達の行動を縛る光こそが恐怖なのだ。

 実際の〈闇〉は穏やかで、優しい。〈闇〉に好かれた人間には良い睡眠と夢が訪れ、疲れた体と心を癒してくれるのだとラズとマリアベルはセリオス神官長から聞かされていた。いつか自分もその姿を見てみたいと思っていたが、マリアベルは生まれ付き光の気が強い。その為彼女の傍にいたラズも〈闇〉を目にするのは初めてだった。

 昼間ラズが精霊を見ことが出来る事に驚いていたぐらいだから、ネイは自分が〈闇〉に好かれ、いつの間にかその恩恵を授かっていることに気付いていないに違いない。


『これは何者だ?』

「何者って言われても……」


 トゥライアの近衛騎士。五本の指に入る剣の実力者。真面目で頑固で、泳ぎが上手い。彼に遠慮などして欲しくないと思ってるくせに、彼について知っていることなんてそれくらいしかない。自然と落ち込むラズに〈風〉の一人が優しく声をかけた。


『知らないなら、これから知っていけばいいわ』

「……うん」


 柔らかな風と優しい闇。それらを傍に感じながら、ラズはあどけないネイの寝顔を見てそっと微笑んだ。



 そして翌日の夕方、城に帰還した二人に告げられたのはフェルノーイ神の愛し子、マリアベルの失踪だった。

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