第117話「大切な気持ちはありますか?」
平日の午後、一般的には学校で授業を受けているであろう時間帯にも関わらず私は自室のベッドに横たわっていた。
昨日から体調を崩したのが理由ではあったけど、そこには幼馴染みでありクラスメイトでもある市田まこまでもがいて、お母さんと会話を交わしていた。
「はい、私も今日は体調が芳しくなかったのですけど、午後になって復調したので結花のお見舞いに……突然押し掛けてしまってすみません」
「そうなの……でも無理するのはおばさん感心しないわ、急に良くなったら急に悪くなる事だってあるかもしれないのよ」
「心配して頂いて申し訳無いです。結花の容態も分かって安心しましたから、今日はこの後帰ってゆっくり休みます」
2人の会話を聞き流しながら自室のベッドに横たわる私の意識はつい先程記憶に刻まれた花菜の部屋に隠されていた段ボール箱へと没入していた。
(……花菜……)
段ボール箱に残されていた涙の跡、それは花菜もまたこの状況に悲しみ、苦しんでいると言う事実の証明だった。
花菜のあの嫌いと言う言葉が偽りであった証に安堵し歓喜し、何よりその涙を止めたいと私は強制的に立ち上がった。
まこは語る。「どれだけ傷付いていたとしても、花菜ちゃんの為なら動かずにいられない。それが野々原結花だもの」と。
(……それがマイナスに作用したのが今回の発端ではあったけど、動けないよかよっぽどいい)
結局の所、どうやら私は本当に花菜が動力源らしかった。
「ご両親は家に来ている事はご存知なのかしら?」
「……それはもう。先方にご迷惑にならないようにとしっかり言われて来ています」
平然と偽りまで織り混ぜた言葉を重ねながら、まこはお母さんを部屋から追い出すと朗らかな仮面を脱いで本性を晒す。
「ふう、徹夜明けで猫を被るのは少し辛いわね……」
隈の浮いた顔を自前のメイクで隠しつつ、声を張る事で疲労を滲ませない。
そんな努力を惜しまず、それでも未だまこが家に残っているのは、今回の件について私と相談をしようとしているからだ。
……ただそれも強制ではない。
「まこ、辛いなら――」
「帰って休め、なんて言わないでもらえるかしら? こんな消化不良のまま休んだら尚の事寝覚めが悪くなりそうだもの」
「今以上に悪くなるんだ……」
彼女の寝起きはすこぶる悪い。修学旅行などでその事を知らずに同室となった人の泣き顔を見た経験すらもある。
「あのね、そもそも貴女も人の事が言える口ではないでしょう?」
「……それは、そうだけど……」
確かに、体調面は気が張っているからかある程度復調しているけど、それでも完全回復には程遠い。
そもそもダウンする以前から体調は悪かった。追い打ちをかけた精神的なマイナスがプラスで相殺されたなら後には倦怠感に苛まれる体が残るだけなのだろう。
それこそ気を抜けばベッドの温かさに負けてしまいそうではある。
そう思うと2人でこうして話している事は重要かもしれない。
「ともかく、頭が働いている内に出来る限りをしてしまいましょう。まずは状況確認を。昨日下校してから貴女は花菜ちゃんに会ったのね?」
「うん。でも、やっぱり様子がおかしくて、家の近くまで来た所で――」
家の近くまで来た所で、私は花菜に謝ったんだ。
花菜とオフィシャルイベントで遊ぶ時の為に夜更かしをして、お父さんに叱られてしまって、それを花菜が聞いていたとしたなら、自分の所為でそうなったと落ち込んでいるのでは? と予想したから。
「――けど、そう言ったら花菜がいきなり……『そんなだからあたしはあんたを嫌いになるんだ』、『もう近付くな、関わるな』って言われて……」
「ショックのあまりにダウンしてこの有り様、と言う訳ね。ここまで来ると呆れるよりも感心してしまいそうよ」
「だって……だって……」
唇を噛む。そんな事を言われた試しなど無く、意味を思い出しては胸の痛みに呻く。
それが偽りと知ったとしても今も突き刺さった傷は残っていて、気が緩めば泣きそうになってしまう。
今はただその痛みをきっと花菜も感じたと気を張ってどうにか堪えているだけなのだ。
「……それはここでどうにか出来る事ではないわ、今は先に進みましょう。それで、花菜ちゃんに言われた後はどうなったの?」
「それでも何も……それきり、花菜とは話してない」
当然か、あれから……熱があるとお母さんに言われてからこの部屋に引き込もっていたし、何より私が花菜と会うのをすら恐れていたのだから、話なんて出来る筈も無い。
数少ない情報を話し終えると、まこは思案顔で目を伏せる。
「……そんなだから、ね……それは……花菜ちゃんの為に無茶をする結花だから、と言う意味なのでしょうね」
「多分そうだと思う、それで嫌いってまで言って……自分と関わらせない為に距離を置こうとしている、のかも」
そうなれば自分が原因で私が無茶をする事も無くなる……それが泣く程辛くても。
「私の自業自得だね……本当に、私の所為」
「――けど、」
まこは人差し指を私の胸に杭のように突き立てる。それはまるで鋭く尖った刃のようで、その奥にある私の心まで届きそうだった。
「だとするなら少なくとも簡単な解決の方法が1つあるわ。どんな方法だか分かるかしら?」
射抜くような視線は答えを求めている。……分からない、訳じゃなかった。
「私が花菜の為に無茶をしなければいい、でしょ?」
「そう。必死にならなければいい、一生懸命にならなければいい、花菜ちゃんが危惧しているような事を起こさなければいいのだもの。とても簡単で、花菜ちゃんの願いにも合致する方法」
「そうだね」
「そうよ。別に難しい要求でも無い筈よ、結花が自制すれば済む話でしょう? 無茶な事をするな、自分を厭え、自重しろ。ほら、たったこれだけだもの」
「そうだね」
そう、一昨日お父さんとも約束したじゃない。無茶をしてはいけないって。私が無茶をしたと誰かが知ればどう思うかを考えなさいって。それで私は、そうだ自分でみんなが傷付くのは嫌だからと頷いたんだ。今回の事だって発端は私が無茶をした所為だもの、お父さんの危惧した通りじゃない。なら花菜を苦しめない為にもそうするのは当然の選択だよ。そう、そうだよ何も間違っていない、全然正しい。私がそうすればまた花菜といつもみたいに戻れるよ。また、また――。
「……」
――まこが、私を見ている。ずいぶんと冷めた目だな、と思った。
「……出来るわよね?」
笑いも無い言葉、投げ掛けられた問いはまるで冷や水を浴びせかけられるのに似ていた。
だから、自身の心が過熱していたと理解して――自虐的に笑った。
「――出来る訳が無いじゃない」
用意していた筈の答えは、そんな愚かしいものに変わっていた。
「あら、どうして?」
「理屈を捏ねたよ。沢山、沢山。そうすれば良いんだって、それがあの子の為になるんだって。でもね……でも、」
拳を痛い程に握り締めた。手の平に爪が食い込むのを感じていた。視界が滲んだ。
「……それが一番良い筈なのに、どうしてかな私……それでもまこが言うみたいな関係になりたくないって思ってる……っ」
刺された指に押し出されるように、私の胸の奥から本音が、本心が溢れ出していた。
「あら、どうして?」
「だって! ……だって……あの子に何か起こっていてもただ指をくわえていろなんて出来ない! 私は、私は――」
「あの子と一緒にいたい!!」
叫ぶ。ただ想いを叫ぶ。
「あの子の傍にいたい!」
「楽しい時も嬉しい時も一緒に分かち合いたい!」
「悲しい時や苦しい時はそれを吹き飛ばしたい!」
「だから私は、まこが言うように冷静には……なれないよ」
「もしも花菜の身に何か起きたら、きっとどんな理屈があっても放り捨てる」
「身を呈してでも、身を粉にしてでも、それでも……私はきっと動く」
それは嫌われたと、離れたからこそ出る言葉だった。
お父さんの言うような理屈なんて消し飛ばす本能からの、花菜を求める言葉だった。
「花菜が傍にいない人生なんて嫌」
ギュッと体を抱き締める。
「私は………………花菜が欲しい」
今も何か……ふつふつととめども無く噴き上がり、胸の奥を焦がす、熱く激しいこの気持ちは何なのだろう。
大切な人を、ただただ求めて欲する。名前なんて知らないそんな気持ちが、今私の中を駆け巡っていた。
「……そう」
「どうしても……私、そうなるよ……」
でも、と思う。
私は私を責めずにいられない。
「……ほんとに、どうかしてるね」
私のブレーキは壊れていた。花菜の為とアクセルを踏み込めば再現無くスピードは上がり、やがては何らかの形で事故を起こす。
それで痛めた体を見て、花菜は泣く。
花菜を泣かせるなんて認められない選択、なのにアクセルを踏み込む私自身がいる。
それはどれだけ身勝手なのだろうかと自分自身に失望する。
こんな有り様で花菜は戻ってきてくれるのかと思えば私が泣きそうになる。
でも、
「バカね。それでいいのよ」
「……え?」
あっけらかんとそう言うまこに私は目を剥いた。
「どう……して……?」
どうしてこんなのを受け入れてくれるのだろう。どうして肯定してくれるのだろう。浮かぶ疑問に対してまこは肩を竦める。
「どうしても何も、始めからあんな方法が受け入れられるなんて思っていないわ。確かめたかったのは貴女がそれでもどうしたいか、だもの」
顔を寄せたまこが視界を埋める。見慣れた筈の顔は妙に迫力があって、思わず私は後ろに下がる。
「貴女は花菜ちゃんを手放したくない。それはとても大事な事だわ。ただ姉であろうとする義務感以上の大切な想いなのよ」
「な、え……?」
「きっと、貴女は――」
――何故だろう。そこから先は聞いてはいけない気がした。
「わ、わーわー! き、聞こえなーいっ!」
だから私は、思わず耳を押さえて喚き散らすなんて訳の分からない方法を取ってしまっていた。
呆気に取られたまこはしかし、ぷっと吹き出して肩を竦めて見せた。
「■■■」
「バカね」と言われた気がして、ようやく私は自分がしていた事の頓珍漢さに気付き、恥ずかしさのあまりにしゅんと身を縮こまらせる事になった。
「……」
「まぁ……今はいいけれどね。ただ、否定はしないであげなさい。それは貴女の芯だから」
「……芯……?」
「そう、芯。物の中心、そのものを形作る大切な何か。あると無いのとでは大きく違う。例えば……言葉を結花の心を切り裂く刃にも変えるように、ね」
「っ」
ギュッと上着を握り締める。
痛みがある。その痛みが思い出させる。そうだ、どんな言葉だってただ放つだけで人を傷付けもする。けど、生半な言葉だけで私はあんなに傷付いたろうか?
明確な意思、あるいは決意、もしくは覚悟。
きっとあの“嫌い”にはそれらが込められていたから、私には致命的なまでに効いたんだ。
「花菜ちゃんに取ってそこまでするだけの芯があるとしたなら、それはそう簡単には打ち崩せやしないわ。だから貴女にも芯が欲しかった。立ち向かえるように、花菜ちゃんに届くように、ね。それを聞けただけでも……そうね、良かったと思えるわ」
(私の、芯……)
握り締めた上着の奥のそのまた奥。そこにあるかもしれない想い。それをまこは肯定してくれるらしい。
それが不思議で、けど暗闇の中に見えた小さな光のようでもあり、現金な事に身勝手な望みが溢れて口から出てくる。
「なら、花菜にも効くのかな。効いて……またあの子の笑顔が見れるのかな……」
瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。温かく柔らかく朗らかで明るい笑顔。いつだって傍にあったその笑顔に、今は堪らなく触れたかった。手が届くのならいくらでも伸ばす程強く、強くそう思う。
だから「ええ、まだ手札は足りないけど……きっと」、そんな励ましの言葉が胸に沁みた。
「ともあれ、これでようやくスタートラインに立ったと言う事。良かろうと悪しかろうと、どうにかする方法は先伸ばしにしてもいい。でもその気持ちだけは忘れずにいなさい」
「……うん」
迷いが無いと言えば嘘になる。本当に、どうすればいいかはまだ見えない。
けど、少なくとも目の前にいる幼馴染みが私を思って力を貸してくれている事は紛れもない事実だった。
「……ありがと。ありがとう、まこ」
そう言った、本心からそう言った。まこがいなければ私は今もベッドの中で1人泣き続けていたかもしれない。花菜をずっと泣かせ続ける羽目になっていたかもしれない。
それをどうにかしようと思えるまでになったのはこの幼馴染みのお陰なのだから。
「何を気の早い事を言っているのかしら貴女は……まだまだ道半ばだと言うのに、まったく……」
しかし、返ってきたのはそんな呆れた声。
「何か言いたい事があるなら、それはすべてが終わってからではないかしら? 今はそんな事に心を割かず、花菜ちゃんの為に砕いておきなさい。半端なものでは届きはしないわよ」
真摯な言葉、それは強くて厳しくて、けどすごく思いやってくれている優しい言葉。
「うん、ありがとう」
「だからそう言うのは後にしなさいと何度……あら? 今の……」
かすかに聞こえたのはチャイムの音、今度は聞き漏らさずに済んだらしい。
私は目覚まし時計を、まこは情報端末の時計をそれぞれに確認すると、早ければ学生が帰宅してもおかしくない時間帯にはなっていた。
「……花菜ちゃん……じゃないわよね?」
「花菜は鍵持ってるからチャイムなんて鳴らさないよ。多分、宅配便とかセールスじゃないかな」
しかし、その想像はあっさりと外れた事が判明する。
――ドカドカドカドカッ!
階段を駆け上がる音がしたのだ。それも他に類を聞かないような音、それを聞いて私たちは互いに顔を見合わせる。
互いに言葉は無かったけど、誰なのかは長い付き合いから早くも気付く。
なので2人してドアを見ていると、次の瞬間乱暴に開け放たれた。
――バッターーンッ!
「オーイ! アタシをのけもんにしてんじゃねーぞコンチクショーッ!!」
そこから現れたのはもう1人の幼馴染み・佐原光子その人だった。彼女は激しく肩を怒らせながら私たちを見つめている。
「貴女は……もう少し穏やかな登場の仕方は無かったの……? 何だかつい最近も頭を痛めた記憶があるのだけど……気の所為だったかしら?」
「え、そだっけ?」
「光子……えっと、こんにちは?」
「おう、昨日ぶり。ったくよう、2人とも学校休むとか……中間の結果が続々と返ってくんだぞ、アタシのがよっぽど休みてーってのによぉ。ずりーよなぁ」
唇を尖らせながらそう語る光子はやはり勝手知ったる他人の部屋とばかりに自分のと決めているクッションの1つをひったくってドッカと座る。
どうやら心配してくれていたらしく、学校が終わるや部活も欠席してお見舞いの為に全力疾走してきたらしい。
「でさぁ、なんでまこがいんの? おばさんに聞かされてびびったんだけど」
光子は隣に座るまこを訝しむように睨んでいる。
あ、あの顔はマズい。メイクで隈などの不健康そうな要素を緩和しているので単純な光子だと下手をすれば……。
「あ、おま、ずる休みだな?! ずっけずっけ! アタシも明日休もっかなー」
とか思われるかも、だったのだけどドンピシャ……。
仲間外れにされていた事が余程悔しかったのか、光子はテンションのおかしなマシンガンばりのトークを飛ばしてくる。
「あの、ちょ、落ち着こ、ね」
取り成すのは比較的見た目の具合が悪いそうな私。光子も顔を見て一旦考えてからだらりと体の力を抜いた。
「いーけどさ。で? ずる休みしたまこは結花の家で何をしてるんだよ」
「相談」
「またかよ」
「残念、事態はあれから更に悪化の一途を辿ったそうよ」
「うわー、そりゃ厄介だなー」
そう軽い調子で言われては張っていた気も萎える。
とは言え、光子の重い空気を破壊する気質は、こうした事態だからこそ有り難く、私は力無く笑いながら光子にも事情を話し始めるのだった。




