表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
120/142

第116話「涙の跡が示すもの」




 ……あれからずっと泣き続けた私は、カーテンの隙間から空が白み始めたのを確認した所でようやく眠りに落ちた。


 目が覚めたのは10時になるかならないかと言った頃。

 熱はどうなのか自分ではよく分からないものの、体の怠さは変わっていなかった。


「は、あ……」


 それでも重い息を吐いてどうにか体を起こす、口はカラカラに渇いていてお母さんが置いていったスポーツドリンクに手が伸びる。

 体は水分を求めていたのだろう、浴びるように一気に3分の1を飲み干した。

 そうすると胃に水分が溜まる事で自分が空腹である事を自覚する。それこそ半日以上食べていないので熱があってもお腹が鳴る。


「……お母さん、いるかな」


 ふらつく体で立ち上がり……平日のこの時間なら花菜がいないと思えば今度は躊躇い無くドアを開けられた。

 バリアフリー用にと階段などに設置されているポールを頼りに1歩1歩ゆっくりと降りていく。


「結花?!」

「あ、お母さん……」


 そんな私を見咎めたお母さんが血相を変えて駆け寄って来て私を横から支えて降りるのを手伝ってくれる。


「お、お母さん……ちょっと大袈裟だよ……」

「大袈裟じゃありません! そんな土気色の顔をして何を言っているの! もう無茶ばかりして!」


 烈火の如くに叱られた、そんなに私の顔色は悪かったのかと顔に触れる。

 ほんのりと熱い以上の事は分からないけど、お母さんは心配そうに私を見続けていた。


「ごめん、なさい……」

「……はぁ……いいわ、ごはんは食べられそう?」

「多分……大丈夫と思う」

「じゃあリビングに行きましょう。次からは用事があるなら端末であたしを呼び出しなさい」

「ぁ、」


 そう言われると体が強張る。


「結花?」

「あ、ああ、ううん、何でも……ない」


 気付かれないように少しだけ視線を逸らす、お母さんは怪訝に思っただろうけど私を連れて行く。


「じゃあ軽い物を作っちゃうからそこで待っていなさい。動いちゃダメよ、いい?」

「うん」


 お母さんは毛布を持ってきてベッド代わりのソファーに横になっている私に毛布を掛けてそう言う。

 平日のお昼時なのだから当然私とお母さん以外は誰もいない。

 点けられたテレビには見慣れない平日の帯番組が政治のニュースを放送していた。


「……休んじゃった……」


 この体調では今更登校出来る訳も無いのだけど、2年生になってからは初めてだなとぼんやり思う。

 別にこの半年がすべて健常であった訳ではなかった。多少の無理は押し込めて登校した経験もある。

 ……それは何故かと問われれば答えは簡単。


(私はただ、立派なお姉ちゃんであろうとしていただけで……)


 本当に、私にはそれだけしか無かったのだなと改めて実感して、私は毛布に潜った。



◇◇◇◇◇



 軽く食事を済ませるとお母さんに体温計を耳に当てられる。


「ほっ……良かった、下がってるわね」


 体温計の表示に注視していたお母さんは安心したように安堵の息を吐く。


「どれくらい?」

「36度8分、おおよそ平熱ね。昨日は38度以上あったから大分下がってるわ」

「そう……」

「……具合は良くないの?」

「……うん、まだ怠い」


 心からのものか、体からのものかは分からないけど、体は重く怠く、頭も考えるのに疲れたとでも言うように霞がかっている。


「あの、」

「何?」

「病院、行かなきゃだめかな……」


 バツ悪く顔を逸らしながらそう言う。どうにも、今は外に出たいとは思えずにいた。

 それをどう受け取ったのか、気遣わしげな視線を向けてくるお母さんはため息を1つ吐くと言い含めるように私に話し掛けてくる。


「……自分では病院に行かなくても大丈夫と思うの?」

「良くなる気がしない、とは思ってるよ」


 じっと見つめられるのに晒されながら、それでも私はそう言う。それは本音で、本気でそう感じていた。


「……分かりました、様子を見ます。でも具合が目に見えて悪くなったら、駄々を捏ねても連れていきますからね」

「ごめんなさい」

「今日はそればかりね」


 小さく苦笑したお母さんに寝汗を拭いてもらった私は、いつまでもソファーに寝させる訳にはいかないからと再び自室に戻される事になった。


「ねぇ、結花」


 付き添われて階段を上る道すがら、傍らのお母さんに話し掛けられる。

 その視線は階段の先を見ているようで……それが何を意味するかくらいは、鈍った頭でも理解出来た。


「花菜の、事?」

「……ええ」


 階段を上り終えるとそこからすぐに私の部屋があり、その向こうには花菜の部屋がある。

 ドアに掛かるネームプレートは傾いていて、どこか昨日の花菜のような違和感を投げ掛けていた。


「問い質そうとはしたのだけどね、逃げるみたいにずっとゲームをしていて話は聞けなかったわ」


 聞けば強制終了をしてもまたすぐにログインしてしまい、話を聞こうともしないのだと言う。


「今、オフィシャルイベントをしてるから……」


 そんなのは違うだろうと思う。

 けどなら何が正解か、なんて分からない。今の花菜の事は何一つ分からなかった。


「……でも、おかしいのは分かったわ。だって、あんな無表情な花菜は初めて見たもの」


 お母さんの悲しげな言葉を身に受けた私は、曲がったネームプレートの先を頭に描いた。

 雑然とした見慣れた花菜の部屋、誰にも見られる事の無い場所。そこにいる時の花菜は、一体どんな顔をしていたのだろう?

 答えは、やはり出ない。



◇◇◇◇◇



 自室のベッドに寝かされた私はひたすらぼうっと天井を見上げていた。


(する事が無い)


 考える事は出来るけど、考えれば考えるだけ嫌な方向に考えが転がってしまいそうで、ただ天井の柄をなぞるしかしていない。

 かと言って眠気も無く、頭を空にしては時間を無為に浪費していた。


(あれくらいの熱ならログイン自体は出来るだろうけど……)


 オフィシャルイベントも何もかも、今の私にはどうでもよくなっていた。

 ゲームへの熱情は冷め、背を向けようとしている自身を自覚する。

 セレナにも、天丼くんにも、セバスチャンさんにも会わせる顔が無く、ずるずると疎遠になっていくイメージが生まれかけていた。


「……嫌な想像ばかり……」


 顔をしかめる。良い事なんて欠片も浮かばないくせに、悪い事となれば働く頭が本当に嫌だった。

 逃れるように視線を巡らすと机の上の物が視界の隅に映る。


「……」


 その先にあるのは私の情報端末。


(昨日からずっと電源切ってたんだよね……)


 誰かから連絡が来たとして返せるような状態である筈も無くて、部屋に戻ってから電源を切って机の上に放りっぱなしになっていた。


(……今の時間なら、いいか)


 当然ながら私の端末に連絡するのは大半が同じ学生だった。それなら昼間、端末を先生が保管する授業中なら誰かから掛かってくる事も無い。

 内容の確認なら丁度良い時間帯ではあった。


「……ふう」


 少し緊張しながら電源を入れて確認すると着信履歴がいくつもある。

 まこに光子、彩夏ちゃんにみなもちゃんの物もある。彩夏ちゃんなんて複数回掛けてきていた。


(花菜の事、心配してたもんね……)


 だからこそ彩夏ちゃんとみなもちゃんは私に託してくれた、なのに……ふっと自嘲気味のため息が出てしまう。

 だってその期待には応えられなかったのだから。


(……どんな顔をして会えばいいのか分からない人が増えちゃったな……)


 続いてメールを見ると同じようにみんなから届いていた。

 私たちの事を素直な言葉で励ましてくれている彩夏ちゃんからも。

 迂遠な物回しだけど激励してくれているみなもちゃんからも。

 また、光子から届いたどうでもいい事がただ書きつらねられているばかりのメールは肩に力を入れずに済んで、それが今はすごく有り難かった。

 それに加えてMSOから送られてきたメールもある。当然か、昨日は何の連絡も無しにログインしなかったのだから。


「……ごめんなさい……」


 お母さんの言った通りに、今日はそればかりしか浮かんでこない。

 胸が痛む中、それらに途切れ途切れに言葉を繋ぎ合わせて返信していく。

 彩夏ちゃんとみなもちゃんには謝罪と花菜の事を頼むと、光子にはただ感謝を。

 セレナと天丼くん、セバスチャンさんには謝罪としばらくログイン出来ないと。

 そして、


(……まこ)


 今回の事を相談をしていたまこからは私を励ますようなメールが1通、そして2通目のメールは私からの返信が無い事や電話にも出ない事から出した物であるらしかった。


『題名:ばかな幼馴染みさまへ

 本文:いつでもいいから連絡しなさい』


 ただそれだけの極々短い一文だった。


(ばかな、か……)


 否定出来ないと苦く笑う、相談した気安さがあったのだろう、少しだけ軽く指が動く。


(『だめだったよ』)


 それだけ、文字だけの短いメールを送るとじわりと疲れて情報端末をテーブルに置いた。その瞬間、


 ――ブルルルルッ!

 ――ブルルルルッ!


 情報端末がいきなり振動する!


「え、え?! ちゃ、着信?」


 マナーモードにしていたけど、振動でガタガタと喧しい。思わず手に取り、画面に表示されている発信先を見て思わず思考がフリーズする。


「ま、」


 『市田まこ』と、そう表示されていた。

 今まさにメールを返信した彼女から電話が掛かってきているぞと、情報端末がそう報せていた。


(な、なんで?! 学校にいたら出れない筈なのに……い、いやいやそれよりもど、どうしようどうしようどうしようどうすれば――)


 思考は働かずパニックに陥っていた。行動になんて移せず、ただ慌てて取り乱して、結局は何も出来ずにいた。

 やがて続いていた振動がぴたりと止まる。留守番電話に切り替わったのだろう。

 それを理解すると安堵の息を吐――。


 ――ブルルルルッ!

 ――ブルルルルッ!


「ひっ?! ま、また掛かってきた?!」


 そしてまたしてもパニック状態に陥る私、そしてまた留守番電話に切り替わると絶え間無く掛け直してくるのだ。

 最早一種のホラーかストーカー事案か、私は恐くなってとうとう電源を切る事にした。


「はあ……はあ……ど、どうしよう」


 ぐるぐると視界が回る。


(きっとまこを怒らせちゃった……あんなに心配してくれていたのにこんな真似をして……)


 またも増えた悩みに眠気は更に失せ、しかしもう何かをする気にもなれず、ベッドに潜り込む事にした。

 眠気来い、眠気来いと繰り返し念じながら……。



◇◇◇◇◇



 ――コン。


(……?)


 何か音がした気がする。

 頭から布団を被っていたからかすかにしか聞こえなかったし、気の所為かと流す。


 ――コン。


(……?)


 また音がした気がする。

 外で何かしているのか、しかし気にする理由も無いと耳を塞ぐ。


 ――コン。


(……)


 物音がさっきより大きくなった……気の所為と流せないくらいに大きく。

 恐る恐る掛け布団からのっそりと顔を出す。


 ――コン。


「っ」


 掛け布団から出た事で音はよりクリアに聞こえたのでびくりと驚く。しかし、お陰で音の出所が大体分かった。


(……窓?)


 それからも断続的に物音は続く。回数が10回を超えた辺りで物音が2連続となり、その内更に増えるのではと危惧させる。

 私はいよいよそら恐ろしくなったものの、お母さんは先程買い物に出掛けると言っていた。まだ帰ってはいないだろう。

 助けを求める選択肢を選べず、掛け布団にくるまりながらへっぴり腰でベッドから出る。

 カーテンをそっと掴み、そろそろと捲る。そこでタイミング良く、もしくは悪く、またコンと物音がした。


(い、石……?)


 小石だった。小指の爪程の小さな石が勢いよく窓にぶつかっていたのだ。

 こんな下手をすれば傷が付くような真似を一体誰が、そう思い更にカーテンを捲って外に視線を向けて……私は固まった。


「――――ぇ?」



 そこには、まこがいた。



 斜に構え、石を弄び、何より機嫌の悪さを隠そうともせず目を細めてこちらを睨む私服姿のまこが佇んでいたのだ。


『降りて開けろ』


 まこがくいっとアゴを引き、そんな風に言っている、気がした。

 これはもう長年共に過ごした故のシンパシー的なものなのだけど、正直今程持っていたくなかったと思ったのは初めてだった。


『さっさとしろ』


 的な事を言いたそうにもう一度アゴを引いているので、いい加減私は色々諦めた。



◇◇◇◇◇



「…………」

「…………」


 サンダルを突っ掛け、玄関を開けるとそこにはさっきまでとは一転して冷めた表情のまこがいた。


「あの……」

「外は寒いわ。部屋に行きましょう」


 そう言うとまこはズカズカと玄関に入ってくる。


「おばさまは?」

「その、か、買い物、に……出て、て……」

「タイミングが悪かったわね、何度呼び鈴を鳴らしても出ない筈だわ」


 確かに2階の私の部屋からは呼び鈴の音は聞き取りにくい、布団など被ればほぼ聞こえない。

 私も留守とは考えなかったのか……それともそれを確かめる為の小石だったのかどうか。

 我が家には数えるのもばかばかしいくらいに訪れているまこは勝手知ったる他人の家とまっすぐ私の部屋を目指していく。


「…………」


 でも、そんなまこが足を止めた場所があった。

 2階に上がってすぐにある私の部屋、その向こうにある1枚のドア。


「あ、の、」


 それを後ろから見た私は寒気を覚えて、思わずまこの背中を押して自室へと向かわせる。


「…………」

「行こ……ね」


 まこはどんな目をしていたのか、背中を押す私には分からずじまいだった。



◇◇◇◇◇



「ひどい顔だと思わない?」


 自身の顔を撫でてまこはそう言う。部屋の照明が照らすまこの顔には確かに色濃い疲労が見え隠れしている。

 普段の涼やかな印象の彼女からはどうにも想像が出来ない姿ではあった。


「まこも……具合悪くしたの?」


 そもそも今は授業中の筈だ。なのにまこは私服姿でここにいる。学校を休んだのは確定だけど、問題はその理由、もしかして私の体調不良が感染(うつ)ってしまったのかな……?


「まさか」


 まこは髪をかき上げると何でもないとでも言うように軽く言う。


「連絡が来たら対応出来るようにしていただけよ。まさか徹夜する羽目になるとまでは思っていなかったけど」

「て、徹夜……?! 『いつでも』とは書かれていたけどもそこまで待っていたの?!」

「仕方無いでしょう、寝過ごす訳にはいかないもの」

「それは……」


 基本的にまこは寝起きが悪い。寝起きに何かしらしようものならろくでもない結末が待っているのは私や光子の共通認識だった。


「さ、話しなさい。何があったの?」

「……話せと言われても……」

「花菜ちゃんに連絡してもガン無視されてイライラしているのよ。さっさとしなさい」


 少し事態に置き去りにされている感がある。

 現在私はベッドに押し込められていた、冷却ジェルシートが額に貼られているのを見たまこが「寝転がりながらでも話なんて出来るでしょう」と言って。


「な・に・が・あっ・た・の?」

「近いよ……」


 まこの顔が目の前にある。ベッドに寝転んでいては逃げられもせず、せいぜいが顔を逸らすくらいのものだった。


「近付かなければならない理由を作ったのは貴女よ。何度も連絡をしたのに……」

「……ごめんなさい」

「……まぁ、今はそうしてくれて良かったのかもしれないと思えているけど」

「え?」

「そんなに目許を赤く腫らすような事なんだとは理解出来たのだもの」

「! ――……そう」


 指先を目許に当てる、昨日今日と何度も泣いているのだからそうなっていても不思議には思わないけど、こうはっきりと間近で言われると反応に困る。

 まこは改めて表情を固くして尋ねてくる。


「話しなさい」

「……っ」


 ぐっと私はパジャマの胸元を掴み、視線を逸らす。


「その、」


 花菜との事を話すのは憚れた。お母さんに話したのとは違う、あれはただどうしようもない混乱を吐き出しただけだ。

 でもまこに話すとなればそれは事態が動き出すと言う事。事態を動かす人なのだ、彼女は。

 1ヶ月前がそうであったように、だから良しか悪しきか、どちらかに動くと長年の経験が告げていた。

 それが不安だった。

 こんな事になってもしも尚悪い方向に転がるのではと恐ろしくてたまらない。それが私の喉を詰まらせていた。

 けど、まこは胸元の私の手をギュッと痛いくらいに握り締める。

 じっと私を見つめる瞳は涼やかで、外を出歩いていた筈なのにその手は熱く燃えたぎるかのようだった。

 そしてまこはまた言う。



「このままにしておきたくないわ、貴女は違うの?」



 挑戦するような厳しい声音。


「そっ――そんな事、無い。私だって…………で、も……」


 対する私の声はひたすらに弱々しく、後半になる程掠れていく。


「私……そんな勇気、無い……よ」


 俯くと視界には震える手がある。今は花菜の事を考えるだけで自然とそうなってしまう。


「……バカを言わないでちょうだい」


 そんな私に、弱音を断ち切るような深く静かな声が落ちる。


「勇気が無い? 貴女に? そんな訳無いじゃない」


 握る手の力を殊更に増しながら、まこの言葉は徐々に加速していく。


「思い出しなさい、貴女はいつだって花菜ちゃんの為に勇気を出してきた筈でしょう。なら今だって出しなさい、貴女は――」



「――お姉ちゃんなんでしょう」



 一瞬、息が止まる。


「――――――なの、」


 ようやく再開した呼吸と共に出した声は、ともすれば自分の耳ですら聞き取れないかもしれないくらいにか細い。


「そん、なの――もう」


 続きを話そうとすると自然と声が揺らぐ。


「もうだめなの、き――――嫌い、って関わる、なって、言われ、たらっ、もう、わらひ、どう、しよ、うも……わらひっ! も、お姉ちゃんじゃ、ないの……っ!」


 まただ、また視界が滲む。

 瞳から次々に溢れる雫が頬を伝って枕を濡らしていく。噛んでいる唇は痛くて、息は苦しい。


「うぐっ、えぐっ……ひっぐ」

「なるほど、そう言う事」


 嗚咽を漏らす私、まこはそれをため息と共に見つめていた。


「バカね。あの(、、)花菜ちゃんが結花を嫌う筈が無いでしょう」

「だっ、てっ――花菜が……「嫌い」って、言ってたもん! それは、紛れもない事実、じゃないっ!」


 そう、この胸の痛みが事実だと伝えている。


「っ、どうしてそこを信じてしまうのよ。そんなの嘘だと信じる所でしょう」

「だって、あんな……あんな事、嘘であの子が付ける訳が無いっ!」


 ……ずっと、ずうっと一緒だった。

 嘘を付かれた事だって何度もあった。

 けど、あの子はずっとずっと私を好きでいてくれて、嫌いなんて嘘でだって一度だって言われた事が無かった。


「だからっ、それを言うなら――きっと、本当に、本気で、私を嫌い、に……」


 ――ギシリ。


 その、音とも思えない心が軋む音を聞きながらパジャマの胸元を更に強く握り締める。


「結花……?」


 信じていると言うなら確かに、信じていた。あの子の想いの強さを。

 信じていたからこそ、嫌いと言う言葉がどれ程の重さを持っているかに思い至って、私はこんなに……ボロボロになっている。


「――――――っ」


 嫌いと言われたあの時、胸に突き刺さった痛みはまだ胸の奥に深々と残っていた。

 それはふとした瞬間に、思い出す度に、前触れも無しに、いつだって現れる。


「……ああそう、だから貴女……」


 そう言うと、まこはそっと距離を取る。


「貴女、怖がっているのね。傷付いたから、また拒絶されるのが怖くて……動けないのね」


 ああ、と納得する。それが前に進む事が出来ない理由かもしれない。

 溺れた人が水を苦手になるように、ひどい怪我をしたらその原因を忌避するようになるのと同じ。

 あの言葉から受けた痛みを恐れる私は、これ以上傷付きたくないからと逃げようとしているのか。

 ……なんてひどい、私……。


「……そう。勇気が出る道はそれが塞いでいたのね。なら、こじ開けましょうか……方法は……」


 白けたように、まこは肩を竦めて立ち上がる。


「まこ……?」


 髪を乱暴に撫で付けるとまこは私の手を取り、立ち上がらせようとする。


「私が間違っていたわ。貴女は野々原結花(、、、、、)だったのだものね」


 されるがままに立つとぐちぐちと愚痴られながら部屋の外へと連れ出されてしまう。


「そうよ、説得なんてまだるっこしい真似なんてしないで最初からこうしておけば良かったのね」

「っ、ちょ――まこ?!」


 手を引かれるままだった私は、その向かう先が分かり足を止める。


「……いいじゃない。今この家には私と貴女しかいないのだから、見咎められもしないわ」

「そう言う問題じゃ……!」


 その先、まこがもう片方の手を伸ばす先には……花菜の部屋があった。


「……本当にへたれているのね、貴女」


 それだけ言って尚もまこは歩を進める。私の抵抗なんて何事も無いとでも言うように。


「傍目からは貴女が花菜ちゃんを甘やかしているものと思っていたけど……そう。花菜ちゃんこそ、その愛で貴女を甘やかしていたみたいね。この程度でへこたれるなんて……甘えるのも大概にしなさい」


 その言葉に顔がかっと熱くなる。積み上げてきた今までを否定されたかのようで……けど、それを今の状況が胸に凝り反論を許さなかった。


「そんな調子だからいつまで経っても話が進まないのよ。だから、無理矢理に連れていかせてもらうわ」

「だからっ、待っ、」

「待たないわ……私、嫌がられると燃える性質(たち)なの。知っているでしょう?」


 嗜虐的な笑みを満面に湛えてまこは私の手を引く。そしてもう片方の手が、花菜の部屋のドアノブへと触れた。

 まこは躊躇いもせずドアノブを回し、勢いよくドアを開けた。


「ふんっ」

「っ?!」


 その中へ、まこは私を放り込む。いきなりの事にたたらを踏み、躓いてしまう。


「痛……っ、まこいい加減に――」


 ぱたり、静かにドアが閉められる。カーテンが閉まっているので部屋は薄暗く、彼女の表情ははっきりとは窺えない。


「こっちではないでしょう?」


 まこが照明が点けると彼女は私でなく部屋を見ていた。


「……こっちではないでしょう」


 同じ言葉、まこの目が私を見る。それに促され、錆び付いたネジを回すようにギリギリと動かす。

 そこには――花菜の部屋があった。本やゲームはきちんと片付けられ、掛けられた服はよれも無い。整理整頓された部屋がそこにある。


「……綺麗なものね」


 ドアに寄り掛かり腕を組んだまこは、見たままを告げる。

 当然だろう、だってさっきお母さんがゲームをプレイしていた花菜を強制終了させたと言っていた。

 それはリンクス本体のスイッチを押さなければいけない。つまりお母さんは部屋に入っている、異常があったならさっき言っているだろう。


「でも、花菜ちゃんの部屋って……こんな感じだったかしら?」

「……違うよ……」


 ゲーム関連ならばいざ知らず、それ以外は適当に扱うのが花菜の常、だった。


「そうよね、もっと雑然としていて……そう……」


 何かを探しているようで、ぐるりと周囲を見回すまこ。


「整理されているのとはまた別に、ずいぶんさっぱりしているわ」

「……」


 私は目を伏せる。


片付けた(、、、、)のよね、きっと。だから結果として部屋が綺麗になったのでしょう」


 納得したように頷いたまこはへたりこむ私を無視して部屋の中を歩き、棚やタンスを漁り始める。


「どうせこの辺りに……」

「まこ!?」

「腰抜けは黙っていなさい」


 そしてクローゼットの扉を開く。花菜の私服が並ぶその奥を見て、まこは何かを取り出す。

 それは段ボール箱、ガムテープでぐるぐると厳重に何重もの封がされている。

 けど、そんな事はお構い無しと力任せにガムテープを剥がしていく。そして中から見えてきた物は――。


「はい、正解。どこかにあるとは思っていたけど、また分かりやすく隠していたものね」


 段ボール箱を横倒すと様々な物がいくつもいくつも転がり出てくる。


 ――それは作文、それは置物、それは服、それは小物、それはアルバム、それは……それはすべて私に関する物だった。


 花菜が作った物が、私があげた物が、2人で選んだ物が、しこたま詰め込まれていた。


「…………」


 その中の1枚の絵が目に留まる。

 それはずいぶんと昔、多分花菜が幼稚園児だった頃に描いた拙い絵。私と花菜がニコニコと笑顔を浮かべて手を繋いだ、そんな絵だった。


「……それを仕舞った、って事は……私を切り離そうとしてるって事、なのかな」


 やはり、嫌われてしまったのだと思うと世界が暗くなるようだった。


「本当にバカね」


 まこはまた私の手を取るとぐいぐい段ボール箱の前に引っ張っていく。


「見なさい」


 訳も分からないままに、後頭部を掴まれ鼻が突くくらいにまで段ボール箱に近付かせられる。

 薄茶色い段ボール箱の表面、そこには……斑点がいくつもある。


「……ぁ」

「分かる? 分かるわよね?」



「これは――涙の跡よ」



 涙……泣いていた、花菜が、泣いていた……?


「貴女を切り離す為に押し込めた? そんな訳が無いでしょう。それなら捨ててしまえばいいんだから。捨てられない(、、、、、、)のよ花菜ちゃんは、何があろうと」


 そう言うとまこは段ボール箱を起こして中身を乱雑に戻していく。


「花菜ちゃんはね、逆立ちしたって貴女無しじゃ生きてなんていけないわ。それでもどうしてかこんな事をしているから苦しくて、辛いの。だから――」



「――泣いてる」



 ぽつりと出た言葉。

 でも、その意味する所は私の心をゆらりと波立たせる。


「花菜が、泣いてる……」

「そうよ、貴女を想ってね。こんな事になった理由はまだ把握出来ない。分かったのはただ花菜ちゃんは結花が泣く程大切だと言う事」


 段ボール箱をクローゼットに戻し、カモフラージュを施し終えたまこは振り向き様に私を見下ろす。


「今はそれだけでも、分かったなら……立ち上がれるでしょう?」


 また、私は泣く。

 けどそれは昨日よりも今日よりもずっと……温かかった。


「……花菜」


 想われている、その事実が嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、嬉しかったから。


「花菜……っ!」


 けど、泣いている事実が辛かった。だから……私は立ち上がる。泣き止ませたくて、立ち上がる。


「……手間が掛かるわね、まったく」


 涙を拭う中で聞こえた呆れに、私は涙を垂れ流し続ける下手くそな笑みのままで答える。


「ごめん……ごめん……ごめんなさい……でも、ありがとう」

「不細工な顔」


 穏やかな笑顔でまこはそう評した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ