第115話「姉でない私」
まるで壊れた人形だった。
リビングのソファーに学生服のまま力無く座る私はぴくりとも動けず、花菜を追おうとすら出来ず、端から見ればまるで壊れて打ち捨てられた人形みたいだったろう。
こうして家に帰れただけでも奇跡かもしれない程に、私のどこかが致命的に壊れていた。
「結花……どうしたの?」
「…………」
傍に来てくれたお母さんの言葉にも反応出来ないでいた。
ため息を吐いたお母さんは階段の方をちらと見てからまた私を見た。
「あの子が何かしたのね」
その言葉に、反射的に体がびくりと震える。
どうして分かったんだろう? なんて思わない、だってお母さんは私たちのお母さんだから、分からない筈がない。
そして……そう言われた事でじわりと壊れた心から何かが漏れてくるのを感じる。
「っ――あ」
詰まった息、漏れた何かは涙に変わって、頬を濡らした。ヒビの入った堤防なんて、容易く決壊するものだ。
「嫌い、って……嫌、われ、ちゃっ……うっ、うう……うああぁあぁぁぁああぁあんっ、ああぁああぁぁああんっ!!」
「……そう。そう……」
「うああぁぁあぁぁあっ!!」
数分か、十数分か、それだけしか経っていないさっきの事はまざまざと思い出せて、私は泣いた。
子供みたいに、赤ん坊みたいに、涙は幾らでも溢れて止まらない。
そんな私をお母さんは何も言わずに抱き寄せてくれる。その体は温かくて優しくて、本音も弱音も涙と一緒に私の中から溢れ出ていく。
「何が、だめだったの、かなあ……何で、嫌われ、ちゃったの、かなあ……何で、何で……っ」
「いいの、今は何も考えなくていいの。何も考えずに思いっきり泣いておきなさい。そうすれば少しは楽になるから」
「うえっ、ああぁぁぁぁ……っ」
そのまま私はお母さんに抱かれたまま、また泣いた。
◇◇◇◇◇
「どう、少しは落ち着いた?」
「分からない……」
涙はまだ乾く事を知らなくて、息はフラッシュバックの度に詰まるから、落ち着いたなんて間違っても言えない。
私は思い出す度に泣きそうになるのを必死に堪え、ハンカチを握り締めながらお母さんにぽつぽつと起こった事を話していた。
「お母さんは驚かないの……?」
「昨日から花菜が結花に近付こうとしないんだもの、変だなとは思っていたわよ。むしろ何かあったと分かって納得したくらいだけど、あまり……喜べないわね。あの子はあの子で部屋に閉じこもったままだし……頭が痛いわ」
(……ああ、そうか)
――ねぇ結花、どうかしたの?
――そう……しっかりね。
――それで……調子はどうなの? 昨日はあまり良くなさそうだったけど……。
――そう……? まぁ、結花に任せるけど、何かあったら相談くらいはしなさいね。
もしかしたら昨日の晩ごはんの後からお母さんが私に向けた言葉の数々は、不審な行動をする花菜を私がどうにかすると言う前提の言葉だったのかもしれない……。
(私、自分の事ばっかりで……全然……)
単純に体調の悪さを気にかけてもらっているものと思っていた。それが無かった訳ではないだろうけど、それでも、きっと普段なら気付いていたような事。
けど、ゲームを禁じられるのを恐れて、怖がって、視線を逸らして話をきちんと聞かず、ちゃんと向き合っていなかった。
向き合っていたならあるいは――。
「そっ、か……私、ほんとにばか、だ……」
花菜だってそうだったのだ。
つまり、私が取り零し続けただけでサインはずっと発し続けられていたのだ。
(ようやく分かった……これが違和感だったんだ)
昨日から体の怠さとは別にじわりじわりと感じていた違和感。
それはつまり、花菜の態度に対して感じていたものだったのだ。
普段ならこれでもかと求めてくるスキンシップも、思い出せば昨日からそれが無くなっていた。
(感じてたならっ、気付こうと思えばいくらでも……っ)
そう思えばまたぞろ気分は沈み、涙が頬を伝う。確かに、こんなばかは嫌われたってしょうがないのかもしれないと私自身が思ってしまう……。
でも、お母さんは穏やかな声で沈む私を諭す。
「仕方無いじゃない」
「……え?」
「昨日は朝からずいぶん豪快に寝坊していたし、調子崩していたでしょ? ぼんやりしていても仕方無いと思うわ。あまり自分を責めないで」
「……ぁ……」
こちらを少し心配した様子で見るお母さん、でもそう言われると申し訳無くなる。
昨日起きるのが遅かったのは夜更かしをしたからだ。具合が悪くなったのだってそんな真似をしたからかもしれないし、普段の不摂生の積み重ねからかもしれない。
それが原因で花菜がおかしくなって、具合まで悪くしたならそれは完全な自業自得じゃないか。
なのに、それをお母さんに黙っているくせに心配してもらえる資格なんてある筈が無い。
「…………あの、」
私は寝坊の原因を話す事にした。もう、お母さんに隠し事なんてしたくない、しちゃいけないって、そう思うから。
私の告白にお母さんは目を剥いて驚き、すべてを話し終わると盛大なため息を吐いた。
「まったく……花菜も花菜でばかと思っていたけど、結花も結花でばかなのね」
そっと伸ばされた手が頬に触れる。お母さんの手が冷たいのか、私の額が熱いのか、どちらにせよそれは心地よかった。
けどお母さんは怪訝な顔になり、手を額に移す。
「……少し熱がありそうね……」
「え……?」
朝に保健室に行った時は無かった筈なのに、悪化したのだろうか……。
「心が弱ると体に跳ね返るものよ。色々と疲れが溜まってた体が、それに悲鳴を上げちゃったんでしょう。だから今日はもう休みなさい、少し時間を置けば頭も冷えていい考えもきっと浮かぶわ」
「そう、なのかな……」
今はどうあれ、そんな希望すら持てそうに無い。しかし、それでもお母さんは「そう信じなさい」と言い続ける。
「それと、今日は何があろうとゲームを禁じます、いいわね」
「……はい」
元より熱があるならリンクスのセンサーが感知し、フルダイブを中止する筈だけど、それとは関係無しに、お母さんの思いやりと叱咤のこもったその言葉に対して、私にそれ以外の返事はしちゃいけないとそう思った。
◇◇◇◇◇
私はお母さんに言われるまま、自室に引っ込む事になり、パジャマに着替えてベッドに潜り込んでいた。
晩ごはんもお母さんが軽い物を作って運んできてくれる……晩ごはんで花菜に会わずに済むと考えた自分がとても嫌になったけど、花菜はどう思うんだろうと考え……今の花菜の事が分からずに、また頭を痛めた。
(どの道、どんな顔をして会えばいいのかすら分かってないのに…………)
そして、そんな事を考えなくちゃいけなくなってしまった事が、また悲しくなって涙が滲む。
カーテンを閉め切り、照明も付けないので昼間であるのに部屋は暗い……でもッドに横になって目を瞑るものの眠気は襲ってきてくれない。
体は怠くて、頭もぼんやりしているのに、後一歩が足りないようで眠るまでには至っていなかった。
幾度かゴロンと寝返りを打ってもそれは変わらず、時計を見ようと目を開けると、わずかに射し込む光が部屋の隅に置いてある段ボール箱を照らし出す。
(これから……どうしよう)
私がMSOをプレイしている一番大きな目的は花菜と一緒に遊ぶ為だった。
その為にがんばって、足掻いて、助けられて、それは確かに目前にまで来ていた筈だった。
……けど嫌われてしまったとしたなら、向こうだって遊ぶ事を望みはしないだろう。
(――ああ、私がゲームをする理由の大半が無くなっちゃった)
1ヶ月の間に様々な出会いがあって、その人たちと遊ぶ事だってゲームをする目的にはなるだろう。
(けど、それでも私はMSOを続けられるのかな……“遊べる”のかな)
――花菜と関わりを持たずに続ける?
――花菜のくれたハードとソフトなのに?
――遊ぶって事は好きな事をして楽しむ事でしょ?
――こんな気持ちが胸にあって、私はあの世界で遊ぶ事が出来るの?
(そんなの……無理だよ。そんなの、楽しめる訳ないじゃない……)
坂道を転がり落ちるボールのように、急速に答えは否に傾いていく。
(だって、だって“アリッサ”は……そうだよ1人じゃ、意味無い)
大切な友達がいるのに、大切な仲間がいるのに――それでも花菜に嫌われた事実が私を苛み、リンクスから離れていく選択を選ばせようと心が傾いていく。
(何で、こんな事になっちゃったんだろう……ただ、ただ一緒に遊ぼうと思って、ずっと、ずっとがんばってきたのに……)
目頭がまた熱くなる。
目指してきた目標を失う事も、費やしてきた努力が無駄になる事も、育んできた友情を蔑ろにする事も、何もかもが辛くて虚しかった。
部屋を照らし出すわずかな光からすら逃げるように、私は掛け布団を被って縮こまる。
そこにあるのはただ真っ暗な世界、私だけの世界、そこには光なんて一片も見えなくて、瞼を開けているのか閉じているのかも分からなくなる。
私はそこで延々と膝を抱えて、考える事すら止めて、そうしてようやく、私は眠りに落ちていくのだった……。
◇◇◇◇◇
「すう、すう……」
「――花、結花」
「ん…………お母、さん?」
体を揺すられ、鈍い微睡みに苛まれながら眠りから目覚めるとお母さんが傍にいた。
「もうずいぶん遅いけど、ごはん、食べられそう?」
床に置かれたお盆の上にはお粥入りの小さな土鍋と小鉢などが載せられていた。
私がいつまでも連絡してこなかったからお母さんの方から来たらしい。
意識を向ければ確かに、お腹がわずかに空いていたようで私は小さく頷いた。
「……味、あんまり分からない」
ベッドから体を起こし、おかゆを少し口に運んだけど……味が分からなかった。薄味なのもあるだろうけど……。
「……熱が上がってるわね」
耳に当てたデジタル体温計がピピッと音を立てる、そしてその結果を見たお母さんが渋面を作った。
「疲労からダウンしたものと思っていたけど……明日病院に行った方がいいかもしれないわね……」
陽は既に沈んでいる、カーテンの向こうから射していた光も既に無い。普通の病院ならもう閉じている時間らしい。
熱が上がったとは言っても急を擁する程ではないのか、今は様子を見る事になった。
お母さんから市販の風邪薬と水の入ったコップを受け取り飲み下す。
「じゃあまた横になって。眠れなくてもいいから体を休めておくのよ」
「うん……」
言われるまま横になるとお母さんが枕元にスポーツドリンクを置いていく、コンビニにでも行ってきてくれたのだろうか?
「喉が渇いたら飲んで、でも一気に飲まないようにね」
そう告げるとお盆を持って部屋を辞そうとするので私は声を掛けた。
「あ、の……」
「どうかした?」
「……………………花菜、は? 花菜は、どうしてる?」
知る事に対する恐れはあったけど、それでも聞かずにはいられない。
あの後の花菜の動向はこうしてずっと自室に閉じこもっているから知りようが無かった。
お母さんは逡巡した様子だったけど、嘆息して話し出した。
「……ごはん時以外はずっとゲームをしているわ。いつも通りと言えば、いつも通りね」
「……そう」
MSOでは現在大規模なオフィシャルイベントが開催されている。花菜が楽しみにしていたけど、彩夏ちゃんは様子がおかしいと言っていた。
(なら、その元凶がいなくなったなら、楽しめているのかな……)
現状が分からず、想像はマイナス方向へと拡大していて……そう考える度にギリギリと万力で締め上げられるみたいにどこかが痛んだ。
「あたしからも話を聞くつもりだから心配はしないでゆっくり休んでいなさい」
「……うん……うん……」
気持ちのこもらない言葉を返しながら掛け布団に逃げるようにくるまる。照明が落とされ、部屋には廊下からの灯りが射すのみ……。
静かにドアが閉められようとする中で、足音がぶれて聞こえたのは……やっぱり熱の所為か。
「……」
少量でもごはんを食べたのはお腹に効果があったのか、私の瞼が自然と落ちる。
意識もまた、暗い私の内側に沈んでいく………………。
◇◇◇◇◇
……不意に目が覚めた。
理由は……トイレ。
飲み食いが殆ど無いとは言え、さすがに何時間も寝ているばかりでは限界も来るらしい。
私は億劫ながら布団から這い出る。
「っ」
立ち上がろうとした途端に膝が笑いふらついてしまう。暗闇が大勢を占める視界もぶれていて、心なしか息も熱い。
そのくせぶるりと体は震えて、私は傍に掛けてあるカーディガンを羽織って外に出ようと――。
「あ、」
ドアノブに手を添えた所で、私は固まった。小さく喉が鳴る。
外に出るのが……怖かった。
――もし花菜に会ったらどう接しよう。
――もし花菜に会って、すげなく扱われたらどうしよう。
もし――、もし――、そればかりが頭を駆け巡り、体のコントロールを阻害して……荒い息、熱い息、ぐらぐらと揺れる頭、とうとう気分が悪くなりその場に蹲る。
(……もうベッドに戻ろうか)
そんな考えがよぎり振り返れば暗闇でもかすかに光る時計が目に留まる。
「………………ぇ?」
長針と短針は午前2時半を指していた。
「……あ、は、は……っ」
こんな時間に、誰が起きている筈も無い。ありもしない事で怯えて怖がって一人相撲をしていた自分が可笑しかった。
「……本当に、ばっかみたい……っ」
乾いた笑いが途切れ途切れに零れ、やがて呻きに変わっていく。
(私は……いつこんなに弱くなっちゃったの?)
トイレに行こうと部屋を出ようとした、でもそれにすら怯える様は滑稽ですらあった。
元々自分が強いなんて欠片も思った事なんて無かったけど、それでもここまで弱かったのかと愕然とする。
たかだか…………たかだか花菜に、嫌い、と……言われただけなのに。
(……ばかじゃないの。たかだかなんて、欠片だって思えやしないくせに、ばっかじゃないの)
花菜の中の私のウェイトが大きいと思っていた事がある、それを呆れた事もある。
でも、結局私の中の花菜のウェイトの方がずっとずっと大きかったと言う事なのかもしれない。
だから、それが無くなったから私は空っぽになったのだ。
空っぽだから脆くて、動けば崩れて、1人で立つ事すら出来なくなったのだ。
(――もう、私は……“お姉ちゃん”じゃないの……?)
そう感じてしまった、考えてしまった、思ってしまった。
「ぁ……ぁぁぁ…………ぁっ」
また、涙が溢れた。溢れて、止まらなくて、声も無くまた泣いた。
誰もが眠りに落ちる夜に私は絶望に沈んでいく。
夜明けなんて、来ると思えないままに。
辛い展開が続きます。マジですいません。
ほんと書き進める度に落ち込む話ってのはキツいですね……orz。
ハッピーエンドまで持っておくれマイハート。




