第114話「断絶の壁」
花菜に何か異変が起こった。
だけどそれが何であるか未だ判然としない。
もどかしさの中、事態と呼応するかのように悪化する体を抱えながらも私は、保健室のベッドから抜け出そうとしていた。
「まだ顔色が芳しくないと思うのだけど、もうしばらく休ませてもらったらいいんじゃないかしら?」
「寝ていても進展があるでもないし……学校が終わらなきゃどの道あの子に会いに行けもしないんだから」
現在は1時間目の後の休み時間。50分近い中で話せるだけは話したつもりだけど話はそろそろ煮詰まっていた。今のままではこれ以上話しても変わらないと思うくらいには。
体の怠さはあるにせよ、放課後まで保健室のベッドを占有する程でもない。家に帰るでもないなら教室に行こうと思った。
「考えるだけなら教室でも出来るから。勉強は……頭に入らないかもしれないけど」
「……いいのじゃないかしら。それで困るのが自分だけなのなら」
「……うん、後でがんばって取り戻すよ。そうなればいいね……あはは」
そうしてベッドを降りて上履きを履こうとした、その瞬間の事。
――バッターンッ!!
「結花ぁっ! ぶっ、無事かっ?!」
狭い保健室を揺るがすような爆音と共にドアが開かれる。私もまこもそれに固まり、次いでベッドを囲うカーテンの向こうにいる保険医の水木先生の怒号が轟いた。
私たちは互いに視線を交錯させて、少し頭を痛めた。
「光子……」
「ゆっ、ゆゆゆっ……?!」
「落ち着きなさい」
別のクラスの、もう1人の幼馴染みは、どうやら私が保健室に行ったと知って駆け付けてきたらしい。
「ありがとう、光子。心配させてごめんなさい」
「だっ、だだだ大丈夫なのかっ?! 顔色悪いじゃねぇかよ、ワンパンでダウンしそうなくらい弱々っぽいじゃねぇかよ!」
「だからうるさいわよ。ボリュームを下げなさい、水木先生がまた睨んでいるでしょう」
まこからの厳しい視線に晒されて喋るのはマズイとは思ったのだろうけど、光子の私を案じる姿勢にブレは無く、オロオロとさながら奇抜なダンスのようにステップを踏んでいる。
「大丈夫だよ、体調は……少し悪いけど、光子が思うような危ない状態だったりはしないから」
「ホ、ホントか?! ホントだよな、嘘ついたら針千本だぞ」
私が微苦笑しながら頷くと長く長く肺を空にするくらいの安堵の息を吐いた。
「良かったぁ〜。もし結花に何かあったら花菜っちまで後追いしちまいかねねーもんな!」
――。
何気無く放たれた光子の言葉。しかし、今はそれが何よりも私とまこの空気を沈ませるのだった。
「どっ、どしたんだよ、オイ……」
突然の事態に、光子はまたも慌てふためいている。
私とまこは互いに目配せをするけど、話すべきか否かなんて逡巡はとうとう訪れなかった。
私たちの関係はそんなものだ。
「――と言う事情なのよ」
「はーん」
まこの適切な説明はすぐさま状況を伝える。それを聞いて分かっているのかいないのか、光子はカクカクと上下に頭を振っていた。
「それでか」
「そう、それで結花がこんな調子になってしまってね。それで――」
「あ、違う違う」
まこが肩を竦めていると光子はそれを遮って壁を指差す。どこを指しているのかと疑問にも思ったけど、それが中等部のある方角を指していると気付いて目を見開く。
「昨日の夜にさ、花菜っちから電話来ててー、テンション低いなーって思っ「「詳しく話して!!」なさいっ!!」うるさっ?!」
思わぬ所からの情報の襲来に勢い込んで光子に詰め寄る私とまこ、さしもの光子も仰け反ってちょっと怖じ気付いている。
しかし、光子がどうなろうと知った事か。今は花菜の情報が最優先なのだ。
「結花、授業に戻るのは後1時間遅らせなさい。話を聞くにも考えるにも時間が必要だわ」
「分かったそうする」
即答だった、光子にも「「ね」」とサボりを強要し、水木先生すらまこが言いくるめ、私たちはカーテンで隔絶されたベッドの1つで顔を突き合わせる。
「あ、あー……なんだったっけかなぁ」
変わらず私たち2人から凝視の対象となっている光子は居心地悪そうに頭を掻いている。
混乱しているのか、本当に思い出せないのか、なんであれ今の私たちにそんな事を許す寛容さはまったく無かった。
「いいのよそう言う引き延ばし工作は。急がないと時間が勿体無いでしょう、1.5倍速再生で話しなさい」
「え、えー……?」
まこの迫力に押され気味の光子はこちらに助けを求めるのだけど――。
「早くして」
取り付く島も無いと分かると観念したのか、光子は腕を組んで唸り始めた。
「えっとな、昨日の8時前くらいだったかな……花菜っちから電話があったんだよ。珍しいなーと思って出たらやけに声が沈んでてさ」
「じゃああの時の……?」
確かに思い返せば晩ごはんの後、花菜はさっさと自室にこもったのにログインしていなかった。
何か用事でもと思っていたけど、まさか光子に連絡を取っていたとはさすがに予想の外だった。
「それで、内容は?」
「『あの時、あたしは何て言ってたか』だってさ」
「あの時?」
「そう、中1の頃の告り合戦」
「あの、花菜ちゃんと光子が結花への熱い想いをぶちまけて和解したアレ?」
「そうそう」
……反応に困る。
「花菜ちゃんがその時の自分の発言がどのようなものだったかを尋ねてきたのね? それで、光子はなんて返したの?」
「んー、4年も前だからちょっと曖昧だったけど、『お姉ちゃんに恋人が出来たら殺す自信がある』とか『お姉ちゃんの為なら命なんて惜しくない』とか『あたしはお姉ちゃんと××××××』とか……」
「最後のは聞かなかった事にして……それを聞いた花菜はどうなったの?」
「いや別に? 最初よかちょっとばかり声が軽くなって『うん、そうだね。あたしはそうだったよね』って言ってそれでオシマイ」
「……」
「結花にどうかしたのか連絡したけど、前にこの話をした時に時間くれって言ってたの思い出したんで適当に話して終わらせた。そんだけ」
昨日、花菜に遅れて自室に戻った私に光子が連絡してきたのはそう言う事だったの……。
「……命なんて惜しくない、ね。そう言えばそんな事を言っていたかしら……」
聞き終えたまこはそっと自分の顔の輪郭を指でなぞる。瞳は若干伏せられ、考え事をしているよう。
でも私が気になったのはそれらを聞いた花菜が放った『うん、そうだね。あたしはそうだったよね』だった。
(それじゃあまるで……自分が自分である事に自信が無かったみたいな……)
過去の自分を確かめる為に花菜は光子に連絡した……それが今回の出来事に繋がるのだろうか?
まこが、光子が力添えしてくれている、なのに心にはどこか言い知れない不安がしんしんと雪のように積もり始めていた。
◇◇◇◇◇
放課後、私は中等部の門に手を突きながら息を切らせていた。
「は、は……ぜ、は」
家に先に帰る手もあったけど、一刻も早く花菜に会いたいと思ったら自然とこちらに来る事にした。
だからここで待つ為にロングホームルームが終わった途端に教室を飛び出したので先生から注意を受けつつも転がるようにここまで走り抜けた。
同じ一貫校の高等部と中等部とは言え、それなりの距離がある。それを走って行けば疲れるのも当然……ただ、今日はやはり少しおかしかった。
「ふう……」
急ぎ過ぎたのか、くらくらと立ち眩んでしまう。私は背中を門に預けて息を整える。
「また無茶をして……」
「顔色もまだ良くないんだぞ。あんま無茶すんなよ……」
それに頭を心配してくれているのはついてきてくれたまこと光子だ。一緒に走ってきた彼女らも多少息を弾ませているけど、私より余程軽い。
元より体力は劣るけど、さすがに普段はこここまでひどくはなかった。それがやはり私は体調が悪いのだと再認識させてくる。
それでも、そんな事を嘆いていられる場合では無いと踏ん張って体を支える。
「だ、い、じょうぶ……大丈夫。体はまだ全然動くんだもの、これくらいでへばっていられないもの……」
「……貴女と言う人は……」
深く息を吐きながらそう言うと、まこは最後まで言葉を続けずに私の肩に手を置いた。
「いい? 付き添えるのもここまでよ。ここからは貴女1人で花菜ちゃんと相対さないといけない」
「分かってる」
頷く。これはどこまで行っても私と花菜の問題だ。まこや光子、彩夏ちゃんに手助けされても、最後には私たちが互いに向き合わないと進展も解決も無い。
それは1ヶ月前の出来事から学んでいた。
「アドバイス出来る事がなんも無いのは情けない話だけどな……」
「ううん、2人は十分力になってくれたよ。ありがとう、助かった」
1人ではきっと花菜と相対するまでに不安が掻き立てられて消耗し切ってしまっていたかもしれない。
背中を支えてくれる人がいるのは本当に頼もしくて、相変わらず感謝するしか無い自分に落胆しながら離れていくまこと光子を見送った。
「ふう……」
そうして1人になり少し落ち着くと周りの様子が視界に入るようになる。
今も目の前をぱらぱらと見慣れた制服の生徒たちが校門をくぐって帰宅の途につく。当然私の横を通って。
ただ、高等部の生徒が珍しいんだろう、帰宅部らしい生徒のみならず部活の為にグラウンドに出始めている生徒たちの中にもこちらを見ている人が何人もいた。
そうされるとつい1年半前にはここに通っていた私ももう部外者になっているんだなと思う。
居心地は悪く、花菜を待つ緊張と疲れまでも相まって息苦しい。
「……」
それでも目を逸らさずにただひたすらに前を向いていた。だってその為にここにいるのだから、そうする以外の選択肢は無かった。
そんなじっとりとした時間の中で数分が経つ。すると――。
「……来た」
視線の波に晒されながら昇降口を見つめていると、ようやく見慣れた3人が姿を現した。
思わず動きそうになった足がサビの浮いた機械のようにギギッと動きを止める。
(……花菜?)
真ん中に位置する花菜は俯いていて表情は伺えない、ただ足取りは重くて普段の快活さは微塵も感じさせない。
頭1つ背の高い彩夏ちゃんは絶え間無くそんな花菜に話し掛けていて、少し小さなみなもちゃんは面倒そうに唇を尖らせていた。
やがて会話に窮してか、視線を泳がせていたみなもちゃんと3人を見つめていた私の視線が絡み合った。
そんな彼女が私を指差すと、まず彩夏ちゃんが反応してぱっと顔を輝かせる。そのまま花菜の肩を揺すり、私の存在を頻りに訴えているようだった。
……でも、当の花菜は――。
「っ……」
「花菜……」
一瞬強張った気がした体、ゆっくりと上げた顔に色は無く、リアクションを起こす気配すらも無かった。
……異常だった。おかしかった。
私は……今朝まで、こんな風になっている花菜に、気付いていなかったのかと愕然とする。
太陽が中天を過ぎてずいぶん経った、朝よりもずっと暖かい筈の午後。でも私の背中には冷たい風が吹き抜け、視界は暗くなったかのように思えた。
「結花さん、来てくれたんですね!」
「……こんにちは、彩夏ちゃん」
花菜の異常を理解しているだろうに、それでも健気に手を振る彩夏ちゃんに、ぎこちなく半端に上げた手で応える。
「……どうもなのです、結花姉」
「うん、みなもちゃんもこんにちは」
彩夏ちゃんの安堵とはかけ離れた雰囲気のみなもちゃんは一歩下がり、様子を窺っている。
そして最後の1人、花菜はこの期に及んでも私と目すら合わせずにいた。
「……」
「あ、の……」
それに気圧され、言葉が出ない。互いに切っ掛けを作れずにいた私たちを動かしたのは、引いて見ていたみなもちゃんだった。
「彩夏、そろそろ行くのです」
「え? 何を――」
いきなり前に出て私たちをはらはらと見ていた彩夏ちゃんの腕を取ると、朝のまこのように連れて行こうとする。
驚いた彩夏ちゃんが反応しようとしかけたけど、それよりも先にみなもちゃんが一手を打つ。
「結花姉、みなもと彩夏はちょっと寄る所があるのでここで失礼するのです。……ですよね」
「え、あ……あー、はい! そうなんです! ちょっといっぱい色々沢山……あるんです! い、忙しくて大変なんですよ! だ、だから、その、し、失礼しますっ!」
「……なのです」
明らかに違うんだろうと確信させながらも、2人は頷き合って逃げるように去って――。
とん。去り際、小さな拳が私の腕を叩いた。
「どうにかしろ、なのです」
そう私にだけ聞こえる声で囁き、そのままあらぬ方向へと去って行った。
後には私たちは気まずい空気を漂わせたまま取り残される。
「……」
「あ、ま、待って!」
互いに動けずにただ時間だけが過ぎていた、けど突然花菜が私を置いて歩き出す。私は慌てて花菜を追い掛けて並ぶのだけど……未だに会話は無い。
1年半ぶりの帰路はうだうだと悩んでいても何の不都合も無い程慣れ親しんだもの、だからこそ自然意識は隣へ向かう。
「……」
「……」
すぐ横にいるのは花菜だ。間違い無く花菜で、大切な大切な妹だ。
隣を歩くなんてもう当たり前の域に達している筈なのに、今日の私たちは悲しくなるくらいに他人行儀だった。
「……あの、」
ようやく話し掛けられたのは周囲の帰宅部員たちが疎らにほどけた所でだった。
「……ごめんね」
ザッ、と花菜が足を止めた。
「なんで……謝るの?」
やっと聞けた花菜の声。でもそれは重くて低くて、逼迫したような響きを帯びていた気がした。
「それ、は……」
ただの推測で、頭で考えただけの話をする。
「昨日のお昼。私が……夜更かししてお父さんに叱られたのを見てたんでしょ? だから花菜は……」
「……」
「だから、花菜は……自分の所為だって落ち込んだんじゃないかと、思って……だから、だからごめんって言わなきゃって、私があんな事したから……だから……」
萎む声は、果たして届いているのだろうか。俯いたままの花菜は反応を返してくれない。
「……メ……あ……」
「え?」
何か言った……?
それを確認する間も無く、再び花菜が歩き出す。私を置き去りにするくらいに速く。
「花、菜、花菜……!」
後を追う、もつれそうになる足を必死に前後に動かして、花菜の後を追う。
「ど、どうしたの? ねえ! 花菜……私、もしかして何か他にもしちゃったのかな?! それが花菜の重荷になっちゃったのかな?!」
息が荒くなって、その勢いに押されるように言葉がまろび出る。
「ご、ごめんなさい。私、思い付かなくて……教えてくれたら直すから……っ!」
高鳴る心臓は運動のし過ぎでは決してない。不安が心臓をオーバーワークさせ続けていて、それがまだどんどんと増している。
教えてほしかった。だって昨日の朝まではあんなに幸せだったのに、たった1日でどうしてこうまでなってしまったのかが私には分からなかったから。
でも、届いてほしいと言う想いがありったけこめられている言葉の筈なのに、届いてくれる気が欠片もしないのはどうしてだろう。
「……だから」
「花菜……?」
歩いて、歩いて、歩いて、ようやく家が見えてきた頃、花菜が何事かを呟き、いきなり振り返ると涙を滲ませた瞳で私を見た。
「そんな、だから! あたし、は――」
「あたしは、あんたを嫌いになるんだ!!」
「――――――――――――――――ぇ?」
意味が、分からなかった。
「な、に、を――花菜、花菜?」
よろよろと覚束無い足取りで花菜に歩みより手を伸ば――。
――ぱしん。
それを、花菜が弾く。
「 」
「はっ、はっ……ぐっ。もう、あたしに……近寄んな! 関わんな! あんたなんか! あんたなんか――」
「――大っっ、きらいだ!!」
顔を赤らめた花菜は唇を噛み、もうこちらを見る事も無く、髪を振り乱して家へと走り去って行った。
小さくなる背中を、欠片も動かなくなった私の体は、呆然と、愕然と、ただ見るばかりだった。
「――――キライ?」
かすかに動かした口から出たその言葉の意味を、私は理解出来ない。
「――――キライ?」
現実味が無かった。夢だと言われればああそうかと納得するくらいに地に足がついていない感覚。
「――――キライ?」
でも、ぎしりと胸の奥が軋む音は理解出来た。ミシミシと断続的に聞こえる音からすれば、きっと圧壊でもするのだろう。
「――――キライ?」
ぺたん、と足から力が抜けて地面にへたりこむ。視界が揺れていた、地震が起こったのだ、きっと。
「――――キライ?」
人が、車が通る。でもだからどうしたと言うのだろう。
「――――あれ?」
私の心は容易く潰れるのだと、この時知った。
書いてて憂鬱になるでごわす。




