序話:ナルト海峡を越えて・1
第二章、開始します。
渦潮が見える。
遠くの波間に、大きな渦潮が。
ここは海の上。
海に浮かんだ船の上。
アワ之国とアワジ島を隔てるナルト海峡を、人や物を乗せて運ぶ運搬船の上だ。
現在、天気は悪くないが、少し風が強くて波が高い。
船の舵をとる者は、あまり船が揺れないように気を付けてアワジ島を目指していた。
対岸となるアワジ島の陸地はまだ遠い。
昼過ぎにアワ之国を離れてまだ一時間程度であるので、航路の半分にも届いていなかった。
さて、この船には、ひとりの男が客として乗っている。
まだ歳若い童顔の青年で、ボサボサに伸びた黒髪は襟足の部分でまとめて縛り、首からは御守袋を提げている。
着古した上衣を着て、裾のほつれが目立つ裁付袴を履き、いかにも素浪人然とした姿の青年は、遠くの波間にある渦潮を、興味深げに眺めていた。
「おおー……、あれが噂の大渦かー、この船よりも大きそうだ」
青年は、片手で目の上にひさしを作り、船のへりから身を乗り出している。
渦潮との距離が遠いので、こうでもしないとよく見えなかった。
「あれ、もっとよく見たいから近付いてって言ったら、船員さん何て言うかな?」
『ふざけたこと言ってると船から叩き落とすぞ、だと思いますわ』
「やっぱり? せっかくだけど、まぁ仕方ないか」
こんなふうに海を渡ることはそうそうないし、あんな大きな渦潮を見ることはさらにないことなので、残念な気持ちである。
せめてもの気持ちとして青年は、さらにへりから身を乗り出す。片手をへりに乗せ、ぐぐぐーっと前のめりに。
『海に落ちないでくださいよ、ライアス』
「だいじょーぶだよ。船、そんなに揺れてないし」
ライアスと呼ばれた青年は、自分の頭の中にだけ聞こえてくる少女の声に、のんきな返事を返す。
すると突然、船が大きく揺れた。
「あれ?」
ライアスの足がつるりと滑り、ライアスの身体は海に投げ出される。
それを見ていたひとりの船員が、慌ててライアスのところに駆け寄った。
「おい兄ちゃん大丈夫か!?」
乗客が海に落ちたとなれば一大事だ。急いで引き上げなくては。
そう思った船員が下の海をのぞき込むと。
「ふぅ、危ない危ない」
ライアスは、海まで落ちていなかった。
片手で船のへりを掴んで、器用にぶら下がっている。
「だ、大丈夫なのか……?」
「あ、うん、だいじょーぶだよ。ちょっとびっくりしたけど」
よいしょ、とライアスは船の上に戻ってくる。
軽い身のこなしに、船員もそれ以上かける言葉が見つからなかった。
「ぶ、無事ならいいんだけどよ……?」
「どもども、お騒がせしました」
そう言ってライアスは、今度は船首のほうに移動していった。
それを見送った船員が、ふとライアスの掴んでいたところを見ると。
「……あの兄ちゃん、どんな力で掴んでたんだ……?」
ちょうどライアスの指の形に、木製のへりがへこんでいた。
ライアスが自分の身体を支えるために、強く掴んだせいであった。
船員も、力仕事をする関係で腕っぷしには自信があるのだが、ここまでの事はできそうにない。
よほど鍛えてあるのか……、はたまた火事場の馬鹿力というやつなのか。どちらにせよ、落ちなかったのだから構わないか、と考えた船員は、引き続き自分の持ち場に戻っていった。
さて、船首に向かっているライアスであるが、頭の中には、先程から少女の声が聞こえ続けている。
『落ちないでくださいよ、と言った次の瞬間にもう落ちるとはどういう了見ですか、ライアス。貴方、私の話をちゃんと聞いていたのですか?』
「ちゃんと聞いてたんだけど、思ったより船が揺れたからさ。それに、海までは落ちてないから良しとしてよ」
ギリギリセーフだったと主張するライアス。
少女の声は、呆れたように言った。
『完全にアウトです』
「えー」
『えー、じゃありませんわ。えー、じゃ』
「いいでしょ、あれぐらいなら」
『ダメです』
「厳しいなぁ」
『当たり前ですわ。あまりにも不注意が過ぎますもの』
すねる子供と、しかる親みたいなやり取りだ。
あるいは長年連れそった夫婦のそれか。お互いに、あー言えばこー言う、という感じだ。
もっとも、この青年と少女の声の関係は、親子や夫婦といったものではないのだが。
『防げる危険は防ぎましょう。貴方には、私の使徒としてこれからも頑張っていただかなくてはならないのですから』
「分かってるよ、神様」
ライアスは、少女の声を神様と呼ぶ。
そして少女の声は、ライアスのことを私の使徒と呼んだ。
そう。このふたりは、神様とその使徒という関係だ。
浄神ウルスラとその使徒ライアス。
世界にはびこる瘴気の霧を祓い、ぴっかぴかに大掃除するために旅をしているものである。
「次の目的地も少しずつ近付いてきてるし、あっちに着いてもちゃんと頑張るからさ」
そんなライアスは現在、新天地を目指して船に乗っている状況だ。
今まで一度も行ったことのない、新しい国。
その道中では、見るものも皆目新しく、次から次へと興味をそそられる。
そりゃあ、海に落ちかけるぐらい船から身を乗り出すというものだ。あんな大きな渦潮、今見ておかなくては一生見る機会がないかもしれないのだから。
ライアスはこう考えるのだが、ウルスラは「でも死んだら終わりなんですから」とつれないことを言ってくる。確かにそれはそうなのだが。
「しかし、対岸はまだまだ遠いねぇ」
船首まで来たライアスが、進行方向先を見て言う。
船が進んで少しずつ近付いているのだろうが、まだ遠すぎてよく分からない。
『そんなにすぐに着くものではありませんわ。この船も、エンジンが付いている訳ではないですし』
「エンジンって何?」
『内燃機関のことですわ。詳しく言いますと――』
ウルスラが、エンジンの仕組みについてライアスに説明をしていると(ライアスには全然理解できなかった)、少し先の海で何かが跳ねたのが見えた。
それも小さい魚が跳ねたようなものではなく、もっと大きな何かが。ざぱんと海面を叩いて海中に戻っていく。
ウルスラが、ピクリと反応した。
『む、今のは……』
「うんうん分かった。つまりエンジンは爆発なんだね」
『遠いようで意外と近い理解ですね。ところでライアス、妖魔の気配を感じました』
「え、もしかしてさっきの跳ねたやつ?」
『はい。しかも、何匹かいますよ』
ライアスは、あらためて海を見る。
海面のすぐ下に、いくつかの魚影が見えた。
まだこちらに近付いてきてはいないが、襲ってくると厄介である。
「んー……、こっち来る前に叩こうか」
『そうしましょう。放っておくと、海水も汚染されてしまいそうですし』
そう言うとライアスは、首にさげた御守袋を通じて、ウルスラから箒を受け取る。
それから箒の穂先を両足に当てて、こう唱えた。
「――玉水」
箒の穂先から、ふわりと淡い光があふれ、ライアスの身体にしみ込んでいく。
ライアスは近くにいた船員に、話しかけた。
「ちょっといいかな、船員さん」
「なんだお客さん、どうした?」
「今からちょっと海に降りるけど、すぐに戻るから置いていかないでね?」
「……ん?」
船員は、言われた意味がよく分からず首を傾げたが、ライアスは構わず船の端に寄った。
そして、船のへりに足をかけると。
「よいしょ」
そのまま海に、飛び降りた。
船員は、一拍遅れてライアスの行動を理解し、慌ててライアスのところに駆け寄る。
「なっ……!?」
そして、船の上から海を見ると。
ライアスが、海の上を走っていた。




