8話:激烈、凶獣のベガ・6
「ふぅぅうううううーーーーっ!!」
と、少女は息を吹き込む。
大きな風船を膨らませるときみたいに。
かまどの火を燃え上がらせるときみたいに。
口から口へ。
ライアスの中に自らの息吹を送り込んでいく。
ぶわりと広がる長い青髪が、それに合わせてほんのりと発光していた。
「なにを……!?」
突然のことに、さしものベガも驚く。
泣きながらライアスに口付けをする少女は、その場にいるすべての者からの視線を無視して、ひたすらライアスに息を吹き込み続けた。
長い、長い口付けである。
積極的だとか、情熱的だとか、そんな次元はとうに越えていた。
「……これは」
「兄さんの身体が……!」
ミケとタマヒコがそろって声をあげる。
少女の髪と同じ青色の光が、ライアスの身体の内側から溢れ出していた。
少女が吹き込めば吹き込むほど、その光は強さを増していく。
「治っていますよ、先生……!」
イナバはじりじりと下がりながら、見えるままを口にする。
溢れる光はライアスの身体を包み込み、その傷を癒していた。
積み重なった損傷も、蓄積された疲労も。
綺麗さっぱり消えていく。
少女の息吹が、ライアスの中に詰め込まれている神様の力を活性化させていた。
普段は一割も使えていないその大きな力を、一時的に多量に引き出し、ライアスの肉体そのものに作用させる。
すなわち、ぴっかぴかにしているのだ。
傷付き、ぼろぼろになったライアスの肉体を、新品同然の状態まで綺麗に、美しく。
ガスコンロにこびりついた油汚れを落とすように、たまったホコリを払うように、少女の息吹はライアスの肉体からダメージを吹き飛ばしていった。
そして、その息吹の効果はそれだけではない。
「……あらあら」
ベガは努めて冷静になりながら考える。
目の前の少女が何者で、どこから現れたのか。
どうやって大噛付を防ぎ、今何をしているのか。
――そんなことは、どうでもいい。
今、一番重大なことは。
「治ってるだけじゃないわね。強くなっているわ、これ」
ライアスから感じる気配が少しずつ変化している。
歴戦の凶獣は、その変化を敏感に察知していた。
それもそのはず。強制的に活性化させられた神様の力が、ライアスの上限を越えて溢れ出しているのだ。
綺麗にするためのものとはいえ、神様の力に変わりはなければ。その恩恵は様々で、あらゆる形でライアスに作用する。
戦うための力という意味でも、それは当然に活用できるものなのだ。
「さて、どうしましょう」
あの少女が何をしているかしらないが、このままいけばライアスは、完全回復したうえで、先程よりもはるかに強くなるだろう。
それを防ごうと思うなら、今ここで追撃を掛けて、確実にトドメを刺すべきである。
「…………フフフ」
だが、だからこそベガは、ライアスと少女を見守った。
何ひとつ手出しをせずに、少女の口付けが終わるのを待った。
たかぶる心を、努めて冷静になるよう押し留めながらも、ベガは心底から笑っていた。
「今まさに強くなる。……ウフフフフ、素晴らしいわ。そうであるなら、こんなに喜ばしいことはない」
やがて少女は、そっとライアスから口を離した。
がっしと頭を掴んでいた手から力を抜き、優しく頬に当てる。
小さく俯き、それから顔を上げて何事か呟くと、淡い光になってほどけ、御守袋の中に吸い込まれていった。
現実離れした光景に、タマヒコやイナバは目を奪われる。
いつの間にかライアスの手には箒が握られていて、ライアスは、ゆっくりと意識を取り戻した。
「…………神様」
小さく呟くと、ライアスはベガに向き直る。
ベガは少し離れたところにいて、値踏みするような視線をライアスに向けていた。目は猛獣のようにギラギラとしていて、口の端は堪えきれずにつり上がっている。
今にも飛びかかってきそうな様子なのに、どうにかそれを我慢しているようにも見えた。
はっきり言って、よく分からない。
「待ってくれてたの?」
ライアスの疑問に、ベガは「当然よ」と答えた。
「強くなってるのが分かるのに、わざわざ止める理由がないわ」
「……よく分からないけど、逆じゃない? 強くなってたら止めるものじゃないの?」
「いいえ、いいえ。せっかく強くなってくれてるのに、邪魔なんてしないわ。ワタシの趣味は弱いものイジメだけど、……ワタシの生き甲斐は、強いやつを叩き潰すことなの。だからこそ、退魔師をしているわけだし。趣味と生き甲斐なら、当然、生き甲斐のほうが大事よ?」
ライアスはそれを聞いて「なるほどね」と返した。
「それで、俺が強くなったほうが嬉しいわけか」
「ええ、そうよ。そして先程のやり取りで、どれだけ強くなったのか」
「気になって仕方がない、と。だからそんなにそわそわしてるんだね。……それなら」
ライアスは、すっと箒を持ち上げた。
穂先をベガに向け、剣術の突きのように構える。
何が来る、とベガが期待で目を光らせる。
「ベガさん、――突くよ」
その場で踏み込んで、箒を突き出した。
そのままで当たる間合いではないが、関係ない。
この突きは、伸びる。
「箒星!」
「っ!」
穂先から、青い光が一条飛び出した。
流星のような光は、ものすごい速さでベガに向かう。
ベガは反射的にそれを防御した。
「はっ!」
右の拳で、下から上に弾き上げる。
まっすぐ伸びていた箒星の軌道は上に逸れて、そのまま空に吸い込まれていった。
「……初めて使う技ね?」
箒星は、清めの力を一条の光線に束ねて矢のように打ち出す技だ。
大河の大町で掃除屋をして稼いだ経験点で覚えた。
一点集中することで物理的な威力を高めた技だが、その分浄化の力自体は清風より弱く、効果範囲が狭いのできちんと当てないと意味がない。
先程までのライアスは、大雑把に狙いを付けても当たる清風のほうが使い勝手が良かったので、そちらを使っていたのだが。
「うん、さっきまでは使っても効かないと思ってたから。……今なら当たるし、多少は効くね」
弾いたベガの右手、ざっくりと切れて血が垂れていた。
イナバが思わず駆け寄ろうとして、師匠にそれをとどめられる。
垂れている自分の血を、ベガはベロリと舐めた。
傷はもう、ふさがり始めていた。
「いいわ、実にいい。今のアナタなら、さっきよりは楽しめそうだわ……!」
じりっ、と僅かに腰を落とす。
両手の指を力を込めて、ベガはライアスに飛びかかろうとした。
「残念だけど、そんなに楽しめないと思うよ」
それに、ライアスは待ったをかけた。
「今の俺の強さは、一時的なものらしいから」
「……そうなの?」
「神様曰く、さっきのはあくまで俺の身体を治すためのもので、この強さはその副産物に過ぎないんだって。しばらくすると、元に戻るらしい」
今は一種のドーピング状態だが、長く続くものではない。
神様の力が溢れ出している間は通常以上の強さで戦えるが、それもしばらくすれば治まる。
そうなれば、ライアスの強さも元に戻るのだそうだ。
ベガは明らかに落胆した様子を見せた。
その様子を見たライアスは、勝負をかけることにした。
「……けど、俺がきちんと頑張れば、将来的には今ぐらい、いや、今以上に強くなることも可能だって言ってる」
「…………」
「そしてそれには、ある程度の時間がかかる、とも言ってるよ」
ベガは少しだけ考え、構えを解かずに問うた。
「それは、……将来的に強くなってみせるからここは見逃せ、と言いたいのかしら?」
「どう取ってもらっても構わないよ。けど、そう聞こえたんなら、ベガさんもそう思ってるんじゃない?」
「……ふーん?」
ベガが、仕事と生き甲斐のどちらを取るか、ライアスには分からない。
ただ、趣味と仕事でも多少の迷いは見せていたことを考えれば、可能性はあるはずだ。
「そう、ねぇ……」
ベガは、獰猛な笑みを浮かべたまま思案する。
彼女の頭の中では、何を優先するかの選択が高速で行われていた。
ライアスもタマヒコもミケも、ついでにイナバも固唾を飲んで見守る。
やがてベガは結論を出した。
「…………やっぱりダメね。ここから強くなるアナタには非常に興味があるけど、お仕事をきちんとこなす、というのが退魔師としてのワタシの売りなの。だからこそ、本当に強い奴を退治してくれという依頼も来るわけだし」
だから見逃すことはできない、と。
どうしても、タマヒコたちを始末するつもりらしい。
それなら、とライアスは。
「その、お仕事というのは、誰から依頼を受けたの?」
「それは言えないわね。依頼人は秘密にするものだから」
「……だいたい想像は付くけどね。じゃあ、依頼の内容はどうだったの?」
「……村外れに住み着いた妖魔の退治、だったかしら」
「もう少し詳しく。正確に。……そこでいう妖魔というのは、タマヒコ君とミケさんを名指しにしてたの?」
「……イナバぁ、」
「! はい!」
「一言一句覚えているでしょ? 言いなさい」
いきなり指名されたイナバは、おそるおそる答えた。
「確か……、『最近村の外れに悪ガキが住み着いて困っています。誰にも気付かれないうちに悪さをしていくんです。あれはきっと、天狗かなにかに違いありません。妖魔なら退治してください。もし確認して、単なる悪童であったのならば、その時は追い払ってくれるだけで構いませんので』……です」
「上出来よ、イナバ」
それを聞いたライアスは、よし、と頷いた。
「つまり、タマヒコ君がただの悪ガキだったなら、村の近くから追い払うだけでいいってことだよね?」
ベガが、ぴくりと眉を動かした。
「……そうねぇ、もしそうなら、……こんな鬼のなりかけじゃなくて、ただの悪ガキなら、それでも構わないわねぇ……」
「分かった」
そこまで聞くとライアスは、ベガの横を抜けてタマヒコに歩み寄った。
ベガもそれを止めなかった。
「タマヒコ君」
「う、うん」
「俺、やってみなければ分からない、って言ってたと思うんだけど」
「……うん」
ライアスは、タマヒコの頭上に箒を構えた。
「今ならこう言えるよ。……絶対なんとかする。だから、俺のこと信じて」
「…………うん」
タマヒコはしばらくの後、静かに頷いた。
タマヒコに抱えられているミケが、ほっと安堵の息を吐いた。
「行くよ。――煤祓!」
「……!」
力強く、タマヒコに煤祓をかける。
浄化の力がタマヒコの身体を包み込む。
触れているミケの体表にピリリと刺激が走ったが、ミケは無言のまま耐えた。
やがて、タマヒコの体内に溜まっていた瘴気、その全ては浄化された。
タマヒコの額に生えかけていたツノは引っ込み、跡も残らず消えてなくなった。
「……成功、かしら?」
タマヒコは自分の額を触ってみる。
今まであった異物がなくなっていた。どれだけ触っても、何もない。
「っ…………!」
タマヒコは、泣き出しそうになるのを、唇を噛んで耐えた。
嬉しくて、嬉しくて、それでも今は、泣きたくなかった。
あの恐ろしい女の見ている前で、泣いてる姿を見せたくなかった。
それに、まだ、これでは。
「良かったわね、ボウヤ。これでアナタは、ワタシの獲物ではなくなったわ。……それなら後は」
ベガは、タマヒコの手元を見た。
そこには、深手を負った一匹の妖魔がいた。
ベガは退魔師だ。
妖魔は、決して見逃さないだろう。
それでもタマヒコが、何か言おうとして。
「――まだだよ」
ライアスが、遮った。
タマヒコもミケも、ベガもイナバも、ライアスに注目した。
「まだ終わってない。ここまでなら、今の俺じゃなくてもきっと出来た」
「……兄さん?」
「そして、ここからが、今の俺だからやれることだ」
ライアスは箒をしまうと、ひとつ深呼吸をした。
そして、ミケに対して、確認の言葉を投げ掛けた。
「ミケさん」
「……なんだい、ライアス殿?」
「俺のこと、信じてくれる?」
ミケは、ハハハと力なく笑った。
「これはまた、不思議なことを聞くね。ここまでのライアス殿を見ていて、いったいどこに、僅かでも疑うべきところがあるというのやら。……信じるよ。何をするつもりかは知らないけど、それでも僕は、貴方を信じる」
その言葉を受けて、ライアスは頷いた。
タマヒコに抱えられたままのミケを包むようにして、両手をそっと当てる。
「行くよ、ミケさん」
そして、言葉を紡いだ。
「――気高き猫よ、人間の友よ」
ライアスの手から、青い光が溢れ出す。
「勇気と知性に溢れ、献身すら厭わぬ強き者よ」
何を言うべきか、何をするべきか、今ならはっきりと分かる。
「君の命の輝きを、我が神は見た。君の美しき誠心を、我が神は知った。君の誇らしき魂を、我が神は讃えた」
ミケの身体が、青い光に包まれた。
「浄神の使徒、ライアスが命じる」
ライアスは、心を込めて、それを告げる。
「君よ、神使たれ。神よ、これを認め賜へ」
ウルスラが、それに答えた。
『――認めましょう』
「っ!」
ミケは、息を呑んだ。
神様の声が、頭の中に響いてきたのだ。
『ミケよ、一切の穢れを捨て去り、生まれ変わるのです』
「…………」
『今から貴方は、神の使いです!』
「……はい!」
ミケが返事をするとともに、ミケを包んでいた淡い光がぱあっと弾けた。
ふわふわと雪のように、光が舞い散る。
ライアスがそっと手を離すと、ミケの傷はきれいにふさがり、消えていた。
そしてなにより。
「……ありがとう、ライアス殿」
その中から出てきたミケは、妖魔ではなくなっていた。
見た目こそ以前と変わらないが、体内に蓄えられていた瘴気はすべてなくなっていて、かわりに別のもので満たされている。
それは紛れもなく、神様の力であった。
ミケは、妖魔としてのミケから、神の使いとしてのミケに、生まれ変わったのだ。
「……ふぅ、なんとかなった」
ここで、ライアスの強さが元に戻った。
活性化していた神様の力が落ち着いてきたらしい。
ライアスはくるりと振り返り、ベガに問う。
「ベガさん。……これなら文句ないでしょ?」
ベガは。
「……ええ、そうね。今ここにいるのは、単なる悪ガキと神の使いの猫だけだわ。妖魔じゃないなら、ワタシが手を出す理由はない。……イナバ!」
「はい!」
「戻るわよ。依頼は終了、住み着いていた悪ガキはちょっと脅して追い払った、と報告するわ」
「分かりました」
弟子を引き連れて、ライアスたちの前から立ち去った。
最後に一言、「またどこかで会いましょう」と言い残して。
「…………」
その後ろ姿を見送ってしばらく待ち、もう戻ってこないことを確信したところで。
「……はぁー、助かった」
ライアスは、大きく安堵の息を吐いてその場に座り込んだ。
緊張が解けて膝が笑っていた。
「タマヒコ君、ミケさん。ちょっと休んだら、俺に付いてきてくれる? 俺の目指す町まで案内するから」
ふたりは、そろって頷いた。




