13》渦中の無心機
「『この一件を綺麗さっぱり終わらせたら』……? そんなこと言うってことは、その状態でまだ戦うつもり……?」
カナルの全身はヌルヌルのオイル塗れになっていて、獣のように四つん這いになっている。僅かに指を動かしただけでも、際限なく滑っていきそうだ。
「そうだ」
全身オイルまみれといっても、まだ僅かに、背中部分で無事な箇所がある。だから、能力を使って空に逃れる。が、オイルによって滑ってきた岩石が、空高く浮遊しきっていないカナルに激突する。うがっ! と吐血しながら、地にばら撒かれているオイルによって、硬い壁にぶつかるまで滑っていく。
「させると思うか?」
そもそも、中空に逃げ出したところで、カナルの能力の持続時間はそこまで長くない。空中を駆けることはできても、鳥のように自在に飛行はできない。だから、ツキミのように空中戦を得意とする《デバイサー》には、すぐに捕まってしまうだろう。
そして、今の一撃でカナルはオイルの上を転がってしまったせいで、今度こそ完全に全身をオイルで覆われてしまった。もうこれで飛ぶことはできない。
「そっちがその気なら、カナルがしばらくの間再起不能になるまで、全身の骨をブチ折るしかないみたいだな」
シャー、とツキミは膝を折らずに、驚異的な速度で近づいてくる。
「どう足掻いても滑る。滑って、立てない。だったら――」
「思う存分、滑りまくるしかないよなあ」
能力を使っても、オイルによって阻まれる。それが反動となって返ってくるならば、それすらも利用して滑走の速度を引き上げる。反動力と、それからオイル本来の摩擦力を加算すれば、ツキミが摩擦力をコントロールするより前にカナルが目的地に着けるはずだ。
「海面まで滑って――!? まずい! 全身をコーティングしていたオイルを、海水で洗い流される!!」
水とオイルは反発する。バシャンッ!! と勢いよく大海へとダイブする。カナルに付着していたオイルは、ごっそりと海面に浮く。ここから、反撃の開始だ。ようやく自由になった矢先――ズボォ!! と海上から腕が伸びてくる。顔面を掴まれると、岩にこびり付いていた珊瑚に叩き付けらえる。ごぼぉお! と空気の泡が口内からでる。慌てて口を塞ぐが、この場は圧倒的にカナルに不利だ。
《無心機》は、人間と違って呼吸をする必要がない。しかし、こちらが酸欠になったら意識を喪失するどころか、運が悪ければそのまま永遠に呼吸することがなくなってしまう。港近くで比較的浅いとはいえ、海底まで引き摺りこまれてしまった。
酸素を求めて手足を掻こうとするが、ツキミがそれを許さない。ガンッ! と、両肩を抑えつけられる。ゴボゴボ、といたずらに酸素を排出するだけで、カナルは抵抗らしい抵抗もできない。ここならばツキミのオイルは効力を発揮できない。しかし、ここではカナルの拳も水中では緩慢な動きしかできない。珊瑚に触れて操作するが、やはり水中では飛ばす威力が低くなってしまう。ツキミは鉄拳によって打ち砕く。だから――
ゴゴゴゴッ!! と底の見えない渦を発生させた。
触れたもの全てを操れるということは、この海そのものが今やカナルの掌中にあるということだ。《無心機》として水中こそが独壇場。そう確信して追いつめたつもりだろうが、今ではこちらが逆にツキミを追いつめている。
珊瑚や水草、水中を散歩していた魚。停泊していた帆船までも巻き込んで、渦は苛烈さを増していく。カナルは薄暗い海に差し込む光を目指して泳ぐ。能力を使用しながら手を動かしているおかげで、より速く進める。だが――水中を掻いている脚にグルングルン、とワイヤーが巻かれてしまう。
ハムのように肉まで喰いこむワイヤーを伸ばしているのは、渦中にいるツキミ。一蓮托生とばかりに渦の中心に引きずり込む。関節が外れそうなぐらいに腕を伸ばすが、あと少しのところで海上には届かない。息が――もたない。脳に酸素がいかないせいで、眼がかすんできた。やむを得ず渦を解除する。その瞬間、ツキミは足底から、スクリューのような四枚刃を出すと、そのまま回転させ海中を脱出する。そのままのワイヤーで繋がれていたカナルを、頭から地面に叩き付ける。
「ぐあっ!」
地面に沁みこんでいたオイルが、まるで蔦のように絡み付く。
「今度は摩擦力を極限まで下げて、その場に固定させた。指一本たりとも、もう動かすことはできない。これでもう海で私のオイルを洗い流すこともできなくなった」
ツキミの言うとおり、まるで全身が石化したかのようだ。仰向けになったまま、首を動かすこともできない。ハァハァ、とカナルは肩で息をしながら、
「なあ、質問……というか確認していいか」
「…………?」
「海中にいるときはオイルが反発して、ツキミの能力を発動できなかった。そして、今俺は海水でずぶ濡れだ。だから能力は発動できないはずだ。だけど、それでも能力が発動しているっていうことは、単純に、今はオイルの能力の方が強く作用できているってことだ。海中にいた時は、海水の量が多すぎた。だからオイルが効力を下げた。……つまり、圧倒的質量差があれば、お前のオイルは役立たずってことだよなあ」
「……だから、なに? 今カナルに武器はない。地面に能力を伝えようとしても、オイルに弾かれるだけだ。身動きができないカナルは、もう私の攻撃を受けることしかできない」
「ああ。もう俺にはなにもできない。だけど、もう何もしなくていいんだ」
瞳だけを動かして、ツキミを見やる。巨大な影ができたことによって、ようやく何かに感づいたツキミが振り返る。そこには――
巨大な帆船がツキミに向かっていた。
「海中に逃げ込んだのは渦で私を倒すためじゃなく、帆船を武器にするために――!?」
海上にある帆船ならば、海に接している。それならば、海に潜ってしまえば海水を伝導出せて帆船を操作することができる。
ドゴォオオン!! と船底はオイルで滑ることもなく、圧倒的質量を伴った重量でツキミを押し潰した。




