10「ぁたしは『ことり』。あすかの体に眠る、もう一つの人格よ」
母さんが最近デパートで買ってきた和菓子と、出がらしのお茶をトレーに乗せて、僕はリビングへと戻った。良家のお嬢様をもてなすのに、こんな安物で大丈夫だろうか?――という不安を抱えていたのだが、あすかは平身低頭に謝罪をしながら僕を迎えた。
「――も、申し訳ありません、お兄様。本来ならば、こちらが手土産の一つでも持ってくるべきものを」
「気にしなくていいからね。それより、切ってきたからこれ食べてよ」
僕はあすかの前に、芋ようかんが乗った皿を置いた。
「あ、ありがとうございます。お兄様が手ずから用意していただけるなど、身に余る光栄、恐悦至極に存じます」
「遠慮はいいから、早く食べて」
「は、はい。では、失礼いたします」
あすかは僕に一礼をすると、右手で楊枝をつかみ、一口サイズに切り分け、上品な所作で口元まで運んだ。
すると、彼女は感嘆の声を漏らし、
「おいしゅうございます。お兄様にご用意いただいたお菓子は格別にございますね」
「そっか。安物だけど、そんなに喜んでもらえて何よりだよ」
若干皮肉っぽかったかな? と思ったが、あすかは気にする様子はなくようかんを食べている。
「ところでさ、あすか」
「は、はい、なんでございましょう」
「そろそろ、事情を話してもらえないかな? あすかが僕の妹っていうのは、一体どういうこと?」
「かしこまりました。ただ今ご説明いたします」
僕がそう言うと、あすかは楊枝を皿の上に置き、佇まいを直した。
表情も真剣そのものになっている。
「まずは、わたくしの母である、雪ノ宮つばめのことをお話しなければなりません。母は今の夫の前に、一度結婚をしていました。今から十七年前、母が十六歳の頃だと聞き及んでおります。ほどなく母は、前夫との間に一子をもうけました。
ところがこの前夫というのが、鬼畜にも劣る極悪人でございまして。毎日のように大酒に酔い、母は言われのない暴虐を受けていたと言います。母はそのような生活に耐え切れず、家を出ました。幼い子供を置いて。
それからすぐ、母は今の夫である雪ノ宮の長男と婚約します。その時に産まれたのが、わたくしです。そして、置き去りにされた子供というのが……」
「僕……なんだね」
「……はい」
「ひどい話だな」
僕は率直な意見を口にした。
「覚えてるよ。母親に置いていかれた時、僕はまだ三歳だった。それも虐待をするような父親の家に取り残されて。一歩間違えば死んでいたかもしれない」
「おっしゃるとおりです。弁解のしようもありません」
「あ……いや、君が悪いわけじゃないんだけど……」
「いいえ。お兄様をお辛い目に合わせましたこと、不徳の致すところにございます」
あすかは母の行動を、まるで自分のしたことのように語っている。
「しかし母は、当時の行いを深く反省しております。家を出た後、何度もお兄様の行方を探しました。しかし前夫が飲酒障害で亡くなり、お兄様が別の家――つまり、神奈月家に引き取られたことによって、中々探し出すことが出来ずに、今日にいたってしまいました」
「そう、そうか」
僕は曖昧に相槌を打った。あすかの語っていることが嘘ではないことは、共感性症候群により分かる。というより、この真っ直ぐな視線からは、嘘を言ってるようには感じられない。
「君の境遇、僕の出生、母の現況については、おおよそ把握できたよ。それで? 君が僕の所に来た理由は、今さら家に戻ってきてほしいとか、家督を継いでほしいとか継がないでほしいとか、そういうことかな?」
「い……いえ……。そういうことではなくて……。あっ、いえ、違います。もし当家に戻ってきて下さるならば、わたくしにとって大変嬉しいことなのですが、それよりも……」
あすかはアタフタと言いよどむ。そして、
「違うのです。わたくし、ただお兄様にお会いしたくて。今まで写真でしか、お兄様のことを知らなかったものですから。お兄様の所在が判明したと聞いて、いてもたってもいられなくったのです。わたくしにとって、唯一残された兄妹ですから……」
と、あすかは両手を顔に当てて涙を流した。
もしかして、僕の言葉が彼女を傷つけてしまったのだろうか。
そ思った時だった。
ピタッと、あすかの嗚咽が止まった。
「あすか……?」
僕が声をかけると、今度はあすかの体がブルブルと震えだした。
小刻みに震えていた体が、次第にガクガクと激しい身震いに変わっていく。
「あ、あすか……? いったい、どうしたの?」
「あ……す……か?」
彼女の声は枯れていた。
「ち……がう。ぁたし、あすかじゃなぃ……」
あすかはそう言った。
「何を言ってるんだ。具合でも悪いのか?」
僕はあすかに駆け寄り、手を差し伸べようとした。
その手がパアン、と振り払われる。
「ど……どうしたの?」
「……ぁたしは……で。…………だ」
意味不明な言葉を呟きながら、彼女はビクンと痙攣した。
それを何回か繰り返し、やがて震えが収まると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「くひひ……久しぶりに変われたわ……。あすかと」
その顔には先ほどまでの涙はなく、代わりに好戦的で鋭い視線があった。
「どういうことだ? 君は雪ノ宮あすかだろ?」
「――ちがうわ」
僕の問いに、彼女は衝撃の言葉を返した。
「ぁたしは『ことり』。あすかの体に眠る、もう一つの人格よ」




