7「わたくしのことは『あすか』とお呼びくださいませ!」
「ちょっと、大丈夫……?」
「ひっく、うっ、うっ、うえぇぇ……」
まったく大丈夫じゃなさそうだった。肩を震わせ、嗚咽を漏らし、まさに大号泣。僕の声など少しも耳に入っていない様子だった。
白梅香の色っぽい香りと、体にあちこち当たる柔らかい感触に戸惑いつつ。
その間に、僕は考えを巡らせた。彼女の言う「雪ノ宮」家についてだ。
雪ノ宮といえば、古くから続く由緒正しい家系で、名家中の名家。何人も政治家を輩出している位の高い家柄だけあって、資産も多けりゃ家も馬鹿でかい。雪ノ宮といえば、この町で知らない人間はいないとまで言わしめるほどだ。
しばらく熱い抱擁を交わしたあすかが顔を上げたのは、たっぷり五分ほど経ってのことだった。
「……申し訳ありません。わたくしとしたことが。お兄様のお召し物を汚してしまうなど、一生の不覚にございます」
バツが悪そうにあすかが向けた視線の先を追うと、確かに僕のシャツには涙の跡がしっかりとついていた。それにしても、「お召し物」や、「一生の不覚」とはまた時代錯誤な言葉を使う。これも名家ゆえか。
僕はそっとあすかの体を離すと、
「大丈夫だよ。僕は気にしてないから。とにかく、落ち着いて説明してもらえるかな?」
と、出来るだけゆっくりと、刺激しないように言った。
(あぁ……お兄様。突然押しかけてきたわたくしに、そのような優しいお言葉を……。まさに神のようなお方にございます。いいえ、神などお兄様に比べたら微々たる存在に思えるくらい、偉大なるお方……)
何だか、ヤバい心の声が聞こえてきた。
僕の考えを察したのか、あすかは言いづらそうに答えた。
「あの……ちょっとここでは……」
「ごめんね。今ちょっと立て込んでるから。手短にここで話してくれないかな?」
「……申し訳ありません。お兄様に早く会いたいばかりに、急な訪問をしてしまって。真に不徳の致すところでございます」
「いや、そんなの全然かまわないから。えーっと、雪ノ宮さん? って呼べばいいのかな?」
「いいえ、そのような! わたくしのことは『あすか』とお呼びくださいませ!」
会話に「……」の多いあすかが、この時ばかりは熱を上げて叫んだ。
「無礼を承知で申し上げますが、真に重大な話しになります。お兄様の出生にも関わることですので。……その、お兄様にとっても、他人に聞かれるとお困りになるかと」
「それは、まずいねえ……」
僕は、要領を得ないあすかの返答について考えてみた。
主に、あすかの正体についてだ。
まず、これだけ礼儀正しく、筋の通った話し方が出来るのだから、単なるおかしな人という線はない。次に頭に浮かんできたのは「ストーカー」だ。それならば考えられるが、その場合は、なぜ自分を僕の妹だと思い込んでるのか、という謎が残る。
しかし、即座にその線もないと断定できた。なぜなら、僕が神奈月家の本当の息子じゃないことは、母しか知らない事実だからだ。
僕は正直言って、嫌な予感がしっぱなしだった。このあすかの真剣な表情、やはりただ事ではない。それに、彼女の言うことを全て信じるならば、この問題には「雪ノ宮」家も関わってくることになる。もし僕が、実は雪ノ宮の人間だったとするなら、遺産相続やら何やら、かなり面倒なことに巻き込まれることになる。
まさかと思うが、家に上げた瞬間、懐に忍ばせた短刀で刺されたりとか……。
嫌な予感はだんだんと膨れ上がり、胸騒ぎまでするようになった。ふとあすかを見ると、彼女は涙目になりながら、"雨の日に捨てられた子犬"のような目で僕を見上げていた。
しょうがないか。僕はため息をつくと、
「ふーっ。わかった。わかったよ。時間がないからちょっとだけ。話を聞くよ」
「お兄様!」
すると妹(仮)は、雨雲が晴れたような笑顔で僕を見つめた。
「ありがとうございます。やはり、わたくしのお兄様は大変お優しいお方です」
「そんな、オーバーだよ。僕なんて大した人間じゃないよ」
「いいえ! お兄様はわたくしにとって、神にも勝る素晴らしいお方です! ……その、男性としても」
(ああ……。お兄様、愛しております。兄としてではなく、一人の男性として、お兄様のことをお慕い申しております)
あすかが呟いた声は聞こえなかったけど、心の声はバッチリ聞こえた。
「あの……今、何か言った?」
すると、あすかはハッとして、
「! いいえ! 何も言っておりませんわ!」
「そ、そう……? じゃあ、リビングに案内するよ」
僕はそう言うと、必死に弁解をするあすかを土間に上げた。
ひょっとしたら、いや間違いなく、彼女もデレデレでヤバい子だな。そう思いながら。




