50「お兄ちゃん、大好き♡」
僕は目を開けた。視界に入ってきたのはお花畑でも三途の川でもない、普通の天井だった。
匂いを確かめると消毒液の匂いがする。視線を動かすと、僕は真っ白なベッドの上に横になっていた。どうやらここは病院らしい。
視線を横に向けると、パイプ椅子に座るほみかの姿があった。
僕が横たわるシーツの上に顔を乗せて眠りこけている。
「……ほみか」
ボソリと呟いた。
すると、ほみかはビクン、と跳ね起き、僕を見た。
「お、お、お……」
「おはよう、ほみか」
「おにいちゃああああああああああああああああああああん!」
ほみかは、ガバッと僕に抱きついてきた。ほみかの手が、傷口に触れる。僕はあまりの痛さに顔をしかめた。
「ほ、ほみか! 痛い、痛い!」
「あっ! ごめん、お兄ちゃん!」
そう言うと、ほみかは申し訳なさそうな顔をしながら僕から離れた。
「ご、ごめんね、お兄ちゃん。ほみか、つい嬉しくて……」
「い、いや、いいんだよ。それよりさ……」
「? ……なに? お兄ちゃん」
「ほみか、口調変わってない?」
僕がそう指摘すると、ほみかはキョトンとした。
「だって、今までだったら、『なによ心配かけさせやがって、このバカ兄貴がー!』とか、『ようやく目を覚ましやがったわねこの死にぞこないがー!』とか言うはずなのに……」
「……うう、ほみか、わかんない。気がついたら、こんなんなってた」
ほみかは、気まずそうに目を伏せ、体をもじもじさせた。
その様子を見て、僕はハッとした。
――昔、本で読んだことがある。
ツンデレ病には、「デレ期」というものがあると。
想いを寄せる異性に素っ気ない態度をとる期間が「ツン期」、ある特定の条件化で好意を隠さずイチャイチャしだす期間が「デレ期」。
今のほみかが、その「デレ期」なのだ。
眉唾物の話だとは思っていたが、実際にほみかのこんなしおらしい態度を見せ付けられると、納得せざるをえなかった。
普段のツンがきついため、デレた時の破壊力が凄い。
もちろん、本音ではいつもデレデレだったのだが。
心の声よりも、こうして態度に出してくれた方が何倍も嬉しかった。僕がツンデレ病のことを説明すると、ほみかは半分驚き、半分は納得したように唸った。
「そうなんだ。『ツン期』と『デレ期』が……。それで、今のほみかは『デレ期』なんだね? それで、こんな素直にお兄ちゃんと会話できるんだ」
「ああ、おそらくね」
「そっかあ、デレ期、デレ期かあ……」
ほみかは何度も復唱すると、嬉しそうに僕を見た。
「お兄ちゃん、大好き♡」
「……はい?」
「お兄ちゃん大好き♡ 世界で一番好き♡♡ もうお兄ちゃんなしの人生なんて考えられない♡♡♡ そう思えるくらい、ほみかはお兄ちゃんのことがだーいすき♡♡♡♡」
ハートマークいっぱいに言うほみか。僕がその変貌っぷりに戸惑っていると、ほみかは笑顔で僕を見つめながら言った。
「……今まで言えなかった分、たくさん言うことにしたの! お兄ちゃん、大好きだよ!」
「あ、ああ。それはありがとう」
「だってさ」
笑顔だったほみかの表情が曇る。
「デレ期があるってことは、またツン期に戻るってことでしょ? そしたらまた、お兄ちゃんに生意気なこと言って困らせることになる。だからそのまえに、いっぱいお兄ちゃんに気持ち伝えとくの。ほみかの本当の声で」
「……そっか」
デレ期はあくまで一時的なもの、と本に書いてあった気がする。
ホッとしたような、ガッカリしたような。複雑な心境だ。
僕は話題を変えようと別の質問をした。
「ところで、今何時? 僕は何時間くらい眠ってたの?」
「お昼の一時だけど……。何時間なんてもんじゃないよ。お兄ちゃんは三日間も入院してたんだよ?」
目に涙を浮かべながら、ほみかは答えた。
「死んだように眠ってたんだから。もうほみか、心配で、心配で……」
ほみかはぐずりだし、目からは涙が零れ落ちそうになっていた。僕はあわてて、
「ご、ごめん! でも、もう大丈夫だから」
「それなら……いいんだけどさ」
そう言うと、ほみかは指で涙をぬぐった。
「本当によかったよ。お兄ちゃんが無事で。お兄ちゃんが死んだら、ほみかも後を追うところだった」
「またそういう……」
言いかけて、僕はふと気づいた。
ほみかの目の下には、隈があった。心なしか、頬も少し痩せこけている。ろくに寝てないのか、衰弱してるのは間違いないようだった。まさかと思うが、この三日間、つきっきりで僕の看病してくれていたのだろうか。
いや、おそらくそうなんだろう。
心の声を聞かなくてもわかる。だってほみかは、そういう奴だから。
「……?」
ほみかは、僕の言葉の続きを待っているようだった。
僕は気恥ずかしくなって、思ってたことと全く違うことを言ってしまった。
「……ねえ、ほみか」
「うん?」
「本当にごめんね。心が読めること、秘密にしてて……」
「ああ、そのこと?」
ほみかはそう言うと、椅子から立ち上がった。
そしてカーテンを揺らし、窓を開けた。すぐ外には公園があった。緑が生い茂る芝生。池には鯉が泳いでいた。初夏の香りが、鼻腔をくすぐる。新鮮で爽やかな空気は、何年ぶりみたいに美味しく感じられた。
公園か。思えば僕が共感性症候群に目覚めたのも、公園だった。
あれからほみかと、普通の会話が出来るようになるまで、ずいぶん時間がかかったものだ。
ほみかもそう思ったのかもしれない。
彼女は窓枠に腰掛けるとこう言った。
「いいんだよ。ほみかの本当の気持ち、知ってくれて嬉しかったし」
ほみかは笑った。まぶしい、満面の笑顔だ。
ほみかのこんな顔、久しぶりに見た。
「あ、いっけない!」
突然ほみかは、大きな声を上げた。
「お母さんにこのこと、言うの忘れてた!」
「母さん?」
「うん。お兄ちゃんの目が覚めたら、すぐに連絡を入れるよう言われてたの! 本当はお母さんも付き添いしたかったらしいけど、流石に何日も会社休ませるわけにはいかないでしょ?」
「……ああ、そうだね。じゃあ、連絡してきてくれる?」
「うん、病院の中は携帯禁止だから、外に行ってかけてくるね!」
ほみかはそう言うと、扉に手をかけた。
「お兄ちゃんは、ゆっくり休んでていいからね?」
「うん。お言葉に甘えて、少し寝させてもらうよ」
「あ……その前に」
ほみかは振り向くと、僕の前まで小走りで近寄ってきた。
「ほみか……?」
僕が名前を呼ぶ、その一瞬の隙に――。
唇が触れた。
しっとりとして柔らかい感触と、ほんのりとした温かさ。
どれだけの間、そうしていただろうか。もしかしたら、数秒のことだったかもしれない。ともかく、ほみかは僕から唇を離すと、
「じゃあ、行ってきます! 愛してるよ、お兄ちゃん♡♡」
それだけ言い残して、ほみかは病室を去っていた。
室内には僕一人が取り残された。
「…………」
唇には、まだキスの余韻が残っていた。
ほみかの柔らかさ、甘さ、温かさ。
僕はそれらを指でそっとなぞると、布団をかぶって寝ることにした。
頭が冴えて、到底眠れそうになかったが。




