38「さあ、帰ろうか」
「あっ!」
僕に頬を叩かれたりおんは、短い悲鳴を上げて床に倒れた。
りおんは、叩かれた頬を触っている。手加減はしてなかったので、赤く腫れているようだ。
「……」
りおんは、何も言わなかった。ただおろおろと、僕の顔を見上げているだけだ。
「りおん。僕は君のやったことは許せない」
女性に手を上げたのは、これが初めてのことだった。
りおんとは、口げんかさえしたことがなかった。
しかし、彼女はやりすぎた。
ここで追求の手を緩めれば、りおんはまたほみかを傷つけるかもしれない。だったら、いっそのこと徹底的に糾弾するべきだ。
「透ちゃん、ごめんなさい……」
「僕に謝るより、ほみかに謝ってほしいな」
僕は、りおんの謝罪を受け流した。
「さっきも言ったけど。ほみかは本当に傷ついてるんだ。心の底から。このままいくと、学校にこれなくなってしまうかもしれない。それぐらい、りおんに裏切られたことがショックなんだ。だから、このことはりおんにしか解決できない」
「……そうだね。ちゃんと、あやまんないとだね」
「それと、もう一つ。今後、二度とほみかに危害を加えないことを、ここで誓ってくれ。もし約束を守れないようなら、今度はビンタぐらいじゃ済まさない」
「……透ちゃん」
「向き合っていこう? 病気と。僕と一緒に」
ヤンデレ病が、こんなことで完治するとは思っていない。ヤンデレ病とは心の病気なのだ。きっかけ次第では、いつまた発症するか分からない。ほみかに会わせたことで、突然発症したように。だから僕は、復調に向けて協力することにした。
「うん。もうわたし、ほみかちゃんを傷つけたりしないよ……絶対に」
強い意志を感じる口調で、りおんはそう答えた。
この調子なら、もう大丈夫だろう。
今のりおんには、前みたいな不安定さはない。
「……ねえ。透ちゃん、一つだけ聞かせて。ほみかちゃんのこと、本当に好きなの?」
ふいに、りおんが尋ねた。
「さあ、どうだろうね」
「どうだろうねって……。昔、結婚の約束までしたんでしょ? ほみかちゃんだって、透ちゃんのこと好ききだよね? でも、二人は兄妹じゃない。結婚なんて出来ないんだよ?」
「まあ、ね。今はただ兄として、ほみかを守りたい。それだけだよ」
「今は、か。わたしにもまだチャンスはあるのかな?」
「……過激なやり方さえしなければね」
僕は床に落ちた包丁を拾い上げると、タオルに包んでカバンの中に入れた。刃渡り十センチほどの出刃包丁だった。殺傷能力はそれほどない。りおんはやっぱり、本気で僕を刺す気はなかったのではないか。
ほみかに対してもそうだ。
結果的には、階段から突き落とされたけど軽傷で済んでいる。
だからといって、りおんが手加減したという根拠にはならないが。
幼馴染を本気で殺すなんて、りおんには出来なかったのではないか。
それは、あくまで僕の希望的観測でしかないが。
「あ、あの……透ちゃん。本当に、ごめんね?」
りおんが、気まずそうに声をかけてくる。
「ああ……いや、もういいんだ」
僕は、りおんに向き直って言った。
「さあ、帰ろうか。ついでに、ほみかのお見舞いしてくれると嬉しいな」




