36「……これで、よかったんだ。これで」
「透ちゃん!」
叫び声が、上がった。僕のお腹からは、大量の血しぶきが舞った。
僕は、刺さっていた包丁を引き抜いた。まるで噴水のように血が飛び出す。
僕は地面に倒れた。崩れ落ちる瞬間、りおんの顔がスローモーションのようにゆっくりと流れる。
その顔は、親に叱られて泣くのを我慢する子供のように見えた。
「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
りおんは、顔を両手で覆った。それでも、叫び声の大きさは伝わってきた。
後悔、反省、苦しみ、絶望。
あるいは別のなにか。
僕はゆっくりと顔を上げた。りおんが心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。
目には涙がたまっている。その姿は、僕よりもよっぽど痛そうに見えた。
「……これで、よかったんだ。これで」
「透ちゃん、喋っちゃダメだよ! 傷口が開いちゃう!」
「手遅れだよ。僕はもう助からない」
僕は腹部を触った。
見ると、手にはべっとりと血がついていた。
その手をぎゅっと握り締めて、りおんを見る。
「……りおん。最後に一つだけ、約束してくれないか。僕が死んでも、ほみかを傷つけたりはしないって。ほみかは、ほみかだけは……! ごふっ!」
僕は言い終える前に、ゴホゴホと激しく咳をした。
りおんは僕の頭を抱きかかえる。
「透ちゃん! しっかりして!」
「……あはは。もう、目が霞んできた……」
僕は目を細めて、力なく笑った。
「……透ちゃん」
ぼんやりとした視界の中、りおんは僕の頭を抱えながら抱きしめていた。
頭に添えられた手が、ブルブルと震えている。
おそらく分かっているのだ。
たとえ救急車を呼んでも、無駄なことを。
「わかった! わかったよ! もう、ほみかちゃんを苛めたりしない! 謝るし、絶対に仲直りする! 仲直りするから……」
りおんは、大声で叫んだ。意識が遠のいている僕にも聞こえるように。
僕の頭を必死に揺り動かし、意識が途絶えないようにしている。
「……だから、死なないで! これからは、いい子になるから。ワガママ言わないから。迷惑かけないから。わたしのことがキライなら、近づかないようにするから。なんでもするから。だから、死んじゃヤだ!」
りおんは、僕の顔に頬をつけながら、大声で泣いた。
小さい頃に戻ったかのように、えんえんと。
その姿を見て、僕は何ともいたたまれない気持ちになりながら。
ガバッと勢いよく体を起こした。
「ふえ……?」
りおんが、涙でくしゃくしゃになった顔をあげた。
何が起こってるのか分からないといった表情で。
僕はシャツの下に手を入れて、モゾモゾとそれを取り出した。
「えーっと……、りおん。ごめんね」
懐から取り出したのは、三千ページを超える分厚い広辞苑。
それを紐でお腹にくくり付けて、包丁から身を守ったというわけだ。
りおんが刃物を持ち出してくることは分かっていたから。
血は、トマトジュースを袋にいれておくことで、血のり代わりとした。本当なら匂いや色でバレそうなものだが、動揺していたりおんは簡単に騙されてくれた。
「え……どういうこと? 透ちゃん……もしかして……」
まだ事情を飲み込めていない様子のりおんに、僕はキッパリと言った。
「うん。全部嘘だったんだ」




