35「……僕がいなくなっても、ほみかと仲良くしてね」
猛然と獣のように襲いかかってきたりおんだったが、途中で包丁を止めた。
僕の心臓まで数センチというところ。
りおんは、そこから包丁を突き入れることはしなかった。
ただ包丁をブルブルと震える手で握り締めている。
「ねえ……透ちゃん。ほんとに、わたしじゃ駄目なの?」
うつむきながら、りおんが呟く。
「透ちゃん、まだ死にたくないでしょ? わたしだって、できれば透ちゃんを殺したくないし。だから、今ならまだ間に合うよ? わたしの恋人になってさえくれれば、もう乱暴な真似はしないから」
ぽつ、ぽつ、と、水滴が地面に落ちた。
りおんは、頭をたれたままだった。
手の震えは収まるどころか、身体全体をガクガクと身震いさせていた。
震える声で、りおんは口を開く。
「わ、わたし、何でもするよ? お料理だってもっと上手になるし、お家の掃除もするから。気配りもできるようになる。身体だって好きにしていいよ。透ちゃん、スタイルのいい女の子好きでしょ? ね? ね? 欲望の赴くままに、わたしを陵辱していいから。だから……だから」
そこからの言葉は続かなかった。自分でもなにを言えばいいのか、りおんは迷っているようだった。僕は、そんなりおんの姿をじっと見つめた。りおんの本心を、見逃さないように。
「……だから、わたしを見捨てないで……」
そう言って、りおんは顔を上げた。
大粒の涙がこぼれ、びしょびしょになった顔を。
「刺せばいいじゃないか」
「……え?」
だから、僕は冷たく言い放った。りおんが本心から、そんなことを望んでいるわけではないことは、わかってる。だからこそ、ハッキリと言い切る必要があった。
目を見開くりおんに、僕は追い討ちをかけた。
「ほみかに怪我を負わせたように。僕にも同じことをすればいいじゃないかって言ったんだ」
「さ、刺すよ。ほ、本当に、刺しちゃうよ?」
(刺したくない! 透ちゃんのこと、殺したくない!)
「刺せばいい。そして、力ずくで僕を奪えばいい。でもね、そんなことをしても僕は一生君の事を好きにならない。りおんはバカだよ。もっと普通に、告白でもなんでもすればよかったじゃないか。なのに、なんでほみかを苦しめるような真似をした?」
「……だって、だって……」
(……透ちゃんに拒絶されるのが、怖かったから……!)
「……僕に拒絶されるのが、怖かったんだね?」
僕が心の声を読むと、りおんはビクッと肩を振るわせた。
「不安な気持ちは、みんな一緒だ! ほみかだって、アリサさんだって! 君は逃げてるだけなんだよ!」
「ふ、普通に告白したからって、どうなったっていうの!? 付き合ってくれたの!? 透ちゃん、ほみかちゃんのこと好きなんでしょ!? 昔っからそうだよ! パパもママもお仕事ばっかりで、わたしのことなんて見てくれなかった! 透ちゃんだけが、わたしのお友達になってくれた……。そんな透ちゃんを好きになったのに、それさえもわたしは奪われるんだよ!? 怖かった! 怖かったよ! 不安なんてものじゃない。また一人に戻るのが、どうしようもなく怖かったんだよ!」
顔を真っ赤にして、りおんは叫んだ。僕も、負けじと怒鳴り返す。
「りおん、それは違うよ! 一人になんてならない。僕もほみかも、りおんを一人になんてさせない!」
「……嘘! 透ちゃんの嘘つき! 透ちゃんはきっと、わたしを捨てるつもりなんでしょ!?」
「ああ! 僕は嘘つきだよ! でも、それは僕だけじゃない。りおんだって、ほみかだって、アリサさんだって、みんな嘘をついてる。でもね、それは誰も傷つけたくない、苦しめたくないからなんだ! それだけは本当だ!」
「……そんな、こと……」
「じゃあ、言おうか!? ほみかだけど、りおんがしたこと、とっくに気づいてるよ! 気づいてて、りおんのことを庇ってるんだ! りおんが退学にならないようにね! 本当は泣きたいくらい辛いのに、我慢してでも笑顔を作ってる。過去の経緯はどうあれ、ほみかは今でもりおんのことを慕っているんだ! りおん! 君は、そんなほみかの気持ちまで否定するつもりなのか!」
「……そんな、そんな……でも、今さら、わたし……」
りおんは、愕然と体を震わせていた。
目には、恐怖の色が浮かんでいる。
それは、今までの行いを悔いているからなのか。
それとも……。
「りおん。わかってるよ、君の気持ちは。本当はわかってほしかったんだろう? 怖くて、辛くて、不安な気持ちを。だから、こんなことをした」
僕は、ゆっくりと前に進んだ。
そして、りおんの手をつかむ。
「ぁ……」
りおんが、小さく声を漏らした。
「まだ、遅くないよ。全然やり直せる。また、昔みたいな幼馴染に戻れるさ」
「……もう、遅いよ。ほみかちゃんだって、わたしのこと許してくれないよ……」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、それでも謝るんだ。りおん。君は、本当はとても優しい女の子だ。僕はちゃんとわかってるよ。だから……」
僕は力を入れてりおんの腕を握った。ここからは、共感性症候群は必要ない。自分の言葉だけで、りおんの心を動かしてみせる。僕の、命に代えても。
僕はりおんの右手から包丁を取り上げた。
その包丁を、自分の腹に押し当てる。
そして。
「透ちゃん? なにを――」
「……僕がいなくなっても、ほみかと仲良くしてね」
僕は自らのお腹に包丁を突き刺した。




