43「いいのよ。それより、早く透を安心させてあげなさい?」
「私があの人――小川と結婚したのは、十八歳のときだったわ」
つばめは言った。
「そのときの暮らしは、決して順風満帆とは言えなかったわ。手を伸ばすのもやっとのオンボロアパート。彼は建設会社で、私がパートをすることでようやく切り盛りできていたわ。当時の結婚生活で楽しい思い出といったら、ほとんどなかったわ。彼は結婚後、急に変わってしまった。それは透が産まれてからでも変わることなく、いえ、むしろどんどん酷くなっていったわ」
つばめは苦し気に目を伏せた。菫色の髪がさらりと揺れる。
「この話をするかどうかは、一晩中考えました。いっそ話さないというのも。だけど、あなたは尋常ならざる覚悟でここに来ている――ならば、私の方も全てを包み隠さず話すべきだと、そう結論付けました」
「一度は、隠蔽しようと思ったんですね?」
「ええ。恥ずかしい話だけど、悩みに悩んで決めたことよ。昔の恥を晒すことだし、私にとっても辛い過去を掘り返すことだから。でも、そんなことはどうでもいいの。私はただ、ほみかちゃんに全てを知ってもらいたい。あなたと――透のためにも」
「お兄ちゃんの……ため?」
「ええ。透は元気でやっていますか? あすかとは上手くやっているの?」
ほみかは一瞬言葉に詰まった。
透とあすかの仲は、悪くない。それどころか、仲が良すぎるくらいだ。
しかも透を争って自分と対決したなどとは、とても言えず、
「……は、はい。仲良く、やってます」
詰まり気味に、そう答えることしか出来なかった。
すると、つばめは、
「……そう。なら、それだけで充分。あの子が元気にしていることだけが、幸せになることだけが、私の望みなのだから」
「あ、あの、一ついいですか?」
ほみかは意を決したように、つばめ対して言った。
「それならどうして、お兄ちゃんを捨てたんですか? そのことで、お兄ちゃんがどんなに辛い思いをするかぐらい、分かってたんじゃないですか?」
つばめは、すぐには答えず俯いた。
やがて、毅然とした表情を上げると、ほみかを見つめて、
「それが、あのときの私の判断だったからよ」
「判断、というと?」
「小川と一緒に暮らしていた方が、あの子にとって幸せだと」
「何を言ってるんですか!」
ほみかは立ち上がり、声を荒げた。
「あなた、さっき言ってたじゃないですか。小川という男は、本当に酷い人間だって! なのに、そんな男の元に置き去りにした方が幸せって、何考えてるんですか!」
「今では、あのときの判断は間違っていたと思うわ。でも当時の私は、それが最善の選択だと信じていたの」
「酒浸りでギャンブル好きで、女性を家政婦、子供を奴隷としか見ないような男がですか?」
「あの人は世間一般的基準で考えれば、確かに人間の屑と言えるでしょう。しかし、決してそれだけの人間ではありませんでした。結婚前は本当に優しくて、思いやりのある人で――私は、そんな彼の良心に全てを委ねました」
つばめは複雑そうな表情を浮かべて話した。過去、自分が愛した男を酷評しなければならない運命が、そうさせるのかもしれない。
「私とあの人――小川さんとは、学生時代に知り合ったの。私は高校二年生、彼は大学二年生だったわ。私達は、出会ってすぐお互いに惹かれ合っていた。私は彼と同じ大学に行きたかったけど、私の実家は貧しくて、進学するだけの余裕がなかったの。もしもあの時別の進路を選んでいれば、今と全く違う人生になっていたでしょうね……。でも世間知らずだった私は、彼の言いなりになって、高校を中退したの。そして、六畳二間のアパートを借りて、彼と一緒に住むことにした。そして……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ほみかは、つばめの言葉を途中で遮った。どうしても理解できないポイントがあったからだ。
「どうしてそんな大事なことを、簡単に決めたんですか? 高校を辞めたんですよね? しかも、その勢いでフラフラしてる大学生と家庭を築こうとしたんですか?」
「ええ、そうよ」
そう答えるつばめの口調に、澱みはなかった。
「あなたは、小川のことを少し思い違いしています。彼のことを悪鬼羅刹のように考えているようでが、優しい面もありました。彼自身が辛い家庭環境で育ってきたせいか、普段は大人びていて、とても気遣いができ、そして頼もしいのです。これは決して当時を美化しているのではなく、私自身が客観的に、彼を一人の男性として評価した部分です」
「でも、その目は節穴だったわけですよね。結果的にDVを振るってるし。本当に優しい人なら、どうしてそんなことが出来るんですか?」
「そのどちらも、本当の彼だったのよ」
つばめは目を細めて、
「周りは反対してたけど、私にとってはそんな声、ちっとも障害にならなかった。どれだけお金がなかろうと、不自由だろうと、彼がいればいい。それだけでいい。そう思えるくらい、心底私達は愛し合っていたの」
全ては錯覚だったのだけれど――。
つばめは遠い目をしながら、そう呟いた。
「なに都合のいいこと言ってんのよ!」
ほみかは大声を上げた。
落ち着いて聞くとの約束だったが、それでも罵倒は止まらなかった。
「小川が良い人だった? 心底愛し合っていた? あんた、ただ自分勝手なだけじゃない! その証拠に、今だって全てをやり直したいと思ってる! 苦しい思いをしたら何もかも捨てたくせに、許されようだなんて思ってんじゃないわよ!」
ほみかはふーっ、ふーっ、と肩で息をついていた。
その様子を、つばめは淡々と見据えていた。
「……何も返す言葉がないわね。そうよ。あの人だけじゃない、私だって同じくらい最低。透や神奈月の皆さん、ほみかちゃんには、謝っても謝りきれない」
「だったら、最初からするんじゃないわよ!」
「そうね。でもね? 一つだけ良かったと思える点もあるの。それは、自分が間違ってたことに気づけたこと。それだけが、私の財産。だからほみかちゃんには、私と同じ間違いを繰り返してほしくないの」
「な……なに言ってんのよ。あたしは……」
そこからの続きが言えなかった。
あたしとあなたは同じじゃない。そう言いたかったのに。
代わりに、つばめが口を開いた。
「ハッキリ言うわ。今のあなたは、あのときの私と同じよ。ただ感情に流されて、周りの迷惑になるような行動をする。でもね? 私とあなたで、一つだけ確実に違う点があるわ。あなたには、あなたを本心から思いやる仲間や家族が沢山いる。ようは、その言葉に耳を傾けられるかどうかよ」
「あ……」
ほみかは、つばめの言葉にはっとした。
そうだ。
自分には、みんながいた。
お兄ちゃん、お母さん、りお姉、アリサさん、あすかちゃん……みんな、みんないる。なのに、自分は大切な人達のことを何も考えずに……。
「あ……あたし……」
ほみかは、苦しげに言葉を紡いだ。
「お兄ちゃんのことも、誰のことも憎んでなかった。だって、仕方のないことばかりだから。もう済んだことだから。でも、お兄ちゃんにはお兄ちゃんのいた世界があって、あたしとは全く関係がなくて。それが受け入れられなかったんです。もちろん、お兄ちゃんの嘘も。
でも本当は、そんな自分が何より嫌いだったんです。お兄ちゃんは、あたしを傷つけたくなかっただけなんです。だから話さなかったんです。あたしは、それが分かっていたのに。
分かって、いたのに……」
「自分の間違いを、認めるのね?」
「……はい」
「そう、分かったわ」
つばめは立ち上がると、ほみかに背を向けた。席を外し、しばらくして室内に戻ってくると、つばめは大きな土鍋を持ってきていた。
「透を明日、うちに招待するわ」
テーブルの上に鍋を置くと、つばめはそう言った。
「……明日、ですか」
「誘うのは、あなたがなさい。今すぐ透に電話するの」
「なんて言えば、いいんですか?」
「それは自分で考えなさい。私が口を挟んでは、意味がないわ」
厳しく言い放つつばめ。ほみかも表情を引き締めた。そして、ポケットに手を入れスマホを取り出すと、画面を数秒見つめ固まった。しかし、すぐに顔を上げると、つばめに対して頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、色々酷いことを言って、すみませんでした」
「いいのよ。それより、早く透を安心させてあげなさい?」
つばめがニッコリ笑ってそう言うと、
「はい!!」
ほみかは、元気いっぱいに返事をした。
そしてためらいのない、スッキリとした表情で通話ボタンを押すのだった――。




