20「これは、靴とシュークリームのお礼。それだけなんだからね」
その日、僕は家に帰るまで若干の寄り道をした。この街の中では、一番大きなデパート。そこで僕は、いくつかの買い物をした。三千ページを越える広辞苑、ヤンデレ病について書かれた本、ほみかの好きな専門店のシュークリーム。そして……。
僕は、それらの物を購入しながら帰路についた。家につく頃には、陽は沈み辺りは暗くなっていたが。
(やっぱり……。上靴で帰ってる)
慌てて帰ったのだろう、泥で少し汚れた上履きを玄関で見つけると、胸が締め付けられる思いがした。どうして。どうして、ほみかがこんな目にあわされなきゃいけないんだ――
「透。おかえりなさい……ほみかちゃん、どうしたの?」
リビングに上がるなり、母さんは僕にそう尋ねた。
「なんでもないよ、母さん」
僕は内心を気取られないように、できるだけ穏やかに答えた。
「なんでもないってことないじゃない。帰ってくるなり、ご飯もいらないからって部屋にこもってるのよ? それに、どうして上靴で帰ってきてるの? ほみかちゃん、まさか……」
母さんは、そこで言葉を区切った。その続きは、こう聞きたかったのだろう。『ほみかちゃんは苛めにあってるの?』と。心配そうな表情で、僕の顔を覗きこんでいる。
「ちがうよ、母さん。そうじゃないんだ」
「でも、ほみかちゃんの様子、普通じゃなかったわよ? あれでなんでもないって――」
「母さん」
僕は母さんの言葉を途中で打ち切った。
「落ち着いてきたら、全部話すから。ほみかのことは、僕に任せて?」
「透……わかったわ。母さん、もうなにも聞かない。その代わり、後できちんと事情を話すのよ?」
母さんの言葉に、僕は頷いてみせた。母さんは安心したように微笑んで、それきりなにも言ってこなくなった。自分でも確証は持てなかった。あれが、りおんのやったことだとは。いくらヤンデレ病をわずらってるからといって、幼馴染のほみかにあんなことを……。
しかし、そうだとしたら原因は全て僕にあるのだ。僕が、解決しなければいけないことだった。
二階に上がり、ほみかの部屋へ。
ほみかの部屋は、僕の部屋の隣だった。
『ほみかの部屋。バカ兄貴勝手に入ったらコロす!』とプレートがかかったドアに、軽くノックをする。
返事は、返ってこなかった。だから僕は、もう一度ノックをした。そして、ほみかの名を呼ぶ。
「おーい、ほみか。僕だ、開けてくれー」
すると、ドアが小さく開き、ほみかが顔を見せた。
泣いていたのだろうか。目が赤く腫れている。
「なんだほみか。いるなら返事くらいしてくれたっていいじゃないか」
僕が軽口を叩くと、ほみかはボソリと呟いた。
「うるさいから……バカ兄貴」
(泣いてる顔……見られたくなかったの)
「……うん、ごめんね」
心の声は、僕を責めてはいなかった。安心したと同時に、後悔もしてしまう。
「……大丈夫だった? 靴の話だけどさ、気にすることないよ。きっと、何かの間違いだ。ほみかはなにも悪いことはしてないんだら、堂々としてればいい」
そう、無責任なことばかり言っているから。気にするなと言われてそうしてられるほど、ほみかは強い人間ではないのだ。だから、ツンデレ病を患っているのに。僕はそれを、誰より分かってるはずなのに。
「……別に、気になんてしてないし」
「……本当に? 無理はしないほうがいいよ」
ほみかの声は、消え入りそうだった。心の声を聞くまでもなく、強がっているだけなのがわかる。
「なによ! あんたなんかに、なにがわかるってのよ!」
(お兄ちゃん……ほみかのこと励ましにきてくれたんだよね? すっごく嬉しいけど、今は一人にしてほしいの)
ほみかは怒りを込めて叫んだ。しかし心の中では、深く傷ついている。だから僕は、ほっておけなかった。
「わかるよ、ほみかのことなら、なんでも」
「は……? 何言ってんの、キモい……」
(いくらお兄ちゃんでも、これはほみかの問題だから。甘えるわけにはいかないよ……)
ほみかは、表面上は鬱陶しそうに言った。
「あんたの顔見てると気分悪くなるから、どっか行ってよ」
(ごめんねお兄ちゃん……今だけは、そっとしておいて)
「まあ、待ってよ。話を聞いて?」
「バカ兄貴と話すことなんてないわ。りお姉とでもイチャイチャしてれば? あたしのことなんか、ほっといてよ!」
(お兄ちゃんも見たでしょ? ほみか、苛められてるの。多分ほみかが悪いの。ほみかが、こんな性格だから。ほみかに構うと、お兄ちゃんまで苛めにあうよ? ……だから、ほみかなんかにもう構わないで)
「そんな顔してる妹を、ほっとけるわけないじゃないか」
ほみかは心を、深く閉ざそうとしてる。僕は食い下がった。
「今日さ……、靴、ダメになっちゃっただろ? だから、帰りに新しいの買ってきたんだ」
そう言って僕は、鞄の中から、紙袋を取り出した。中身は、新しく発売されたブランドのローファーだった。
「えっ……それ、あたしのために……?」
僕は答えた。
「うん。ほみかに似合うだろうなって。ほみかの好きなシュークリームも買ってあるから、後で一緒に食べよ?」
僕がそう言うと、ほみかは涙で目を潤ませた。
「……あんな酷いこと言ったあたしのために? なんで?」
「なんでって……別にいいじゃないか」
「いいから!」
僕がお茶を濁そうとしてると、ほみかは凄い剣幕で怒鳴った。
これはちゃんと説明しないと駄目だな。
「あー……ほみかは、僕の大切な妹だから。僕は、ほみかのことが大好きなんだ。だから、ほみかが悲しそうな顔してると僕も辛いんだ。早く、元気になってもらいたい。そして、いつもみたいにワガママを言って僕を困らせてほしい。正直そうじゃないと、こっちも調子が狂うからね」
「うっ、うう……う~~」
ほみかの顔色が、トマトみたいに真っ赤になっていった。
「おいおい何だよ。ほみかが言えっていったんじゃないか」
僕はそう言うが、ほみかは蒸気機関車みたいに、頭から湯気を出していた。
「だ、大丈夫かい、ほみか?」
僕はほみかの肩をつかんだ。ほみかはビクッと体を痙攣させた。
「ほ、ほみか――?」
その瞬間、ほみかは僕に抱きついてきた。僕の体に、ほみかの柔らかい感触が伝わってくる。痛みを感じるほど腰に強く腕を回して。ほみかは、僕の胸に顔を埋めていた。
「勘違いしないでよ、バカ兄貴……」
ほみかの声は、涙声だった。
「これは、靴とシュークリームのお礼。それだけなんだからね」
そう言って、僕の頬にキスをした。
キスといっても、無理やり押し付けたような、乱暴なキスだったが。
ほみかなりの、精一杯の気持ちだったのだろう。
だから僕は、何も答えなかった。
その代わりにほみかの頭を、落ち着くまでずっと撫でてあげることにした。




