46「……あすかのこと、よろしくね」
「ことり……悪い冗談は止めろ」
「冗談じゃなぃ。断ったら、今度こそ本当にぉ兄様を殺す」
「そんなこと、お前に出来るわけないだろ」
「試してみる?」
ぐいっ、と。
ことりは短刀を僕の左胸に強く押し当てた。
肌が切れ、つつーっと血が滴り落ちる。
「こんなことしたって、何の意味もないぞ」
「意味はぁる」
「あすかが、悲しむじゃないか」
「分かってなぃよ。ぉ兄様は、何も」
寂しげな笑みを浮かべながら、ことりは自身の左手の静脈を見せた。
そこには、
「ことり……お前」
「あすかは、暗闇の世界に囚われてぃたの。でもぉ兄様と会うことが出来て、ようやく光の差す道に歩き始めた。でも、ここでぉ兄様に見捨てられたら、きっとあすかは死を選ぶ。こんな風に――」
ことり、すなわちあすかの左腕には、真一文字の傷があった。おそらく、自傷の跡だろう。あすかがあの時、僕と温泉に入ることを激しく拒絶していたのは、これが理由だったのだ。
「……あすかの境遇については、可哀想に思う。でも――」
「ぉ兄様があすかのそばにいてくれるなら、ぁたしは安心してぃなくなれる」
「ことり、それは違うぞ……っと、あぶない」
ことりの言葉に思わず身を乗り出しかけ、短刀が突き刺さる寸前で慌てて体を引っ込めた。
「違うって……何が?」
「あすかにとって、一番支えになるのは君なんだ。僕じゃない。今までだって、ずっとあすかのことを助けてきたんだろ? あすかは今でも、ことりのことを慕っているんだ。僕があすかのことを支えるのに何の不満もないけど。それでもことり、君はあすかにとって必要な存在なんだよ」
「そんなこと……ぁるわけなぃじゃなぃ!」
髪を振り乱し、僕の言葉を拒絶することり。
僕はそんなことりをじっと見つめ、
「僕だって同じなんだよ、ことり。だからまだ、雪ノ宮の家に行くわけにはいかないんだ。あの家に行ったら、名家のルールに従わなきゃいけなくなる。母さんや、りおんや、アリサや、ほみか。周りの人たちとも会えなくなる。でも僕は、大事な人たちがいたから、ここまでやってこれたんだ。この気持ち――ずっとあすかを見守ってきたことりになら、分かるだろ?」
「……ぅん。わかるよぉ」
「ごめんね、ことり」
頷くことりに、僕は謝罪した。
「でも、これだけは言わせてくれ。僕は、あすかのことを今まで以上に大切にするし、兄として、ちゃんと守ってやるつもりだ」
「ほんとぉ?」
「ああ、本当だ。嘘は言わない。僕はあすかのことを、世界中の誰より大事に思ってる。何たって、生き別れの妹なんだからね。それに――」
「それに?」
「ことり。君もね」
僕がそう言うと、短刀を持つことりの腕が震えた。
おいおい。間違って刺さないでくれよ。僕がそう願っていると、
「ぉ、ぉ兄様……」
目じりに涙を溜めて、頬を赤くして――、鼻をぐずらせながら、ことりが言った。
「なんで、そんなこと言ぅの?」
「えっ、なんでって?」
なぜと問われて僕は言葉に詰まる。
「ぉ兄様、ぃつもことりのこと邪険に扱ってたじゃなぃ。『いい加減にしろ』とか『あすかの体から出て行け』とか」
「うん。それは実際思ってたよ。でも、その時は真相を何も知らなかったから……。ことりだって、最初は僕と敵対してたけど、今はこんなに普通に喋ってくれるじゃないか」
「ぁぅぅ……。それはだって、ぉ兄様があすかを苛める悪ぃ人だって思ってたから……」
「なら、いいじゃないか。お互いに誤解が解けたってことで」
「で、でも……」
ことりは俯きながらぶつぶつとぼやき、納得していない様子だった。
本当に頑固な奴だ。僕はそんなことりの頭に、ぼふんっと手を乗せた。
不意のことに、ことりは真っ赤になった顔を上げ抗議する。
「な、何をするの、ぉ兄様!」
「何って、ご褒美だよ。今まであすかのことを守ってくれて、ありがとう。ちょっとやり方に問題はあったけどね……。とにかく、お兄ちゃんとして頑張った妹は褒めてあげないと」
「ご褒美って……ぁたしは子供じゃなぃ!」
「いや、子供だろ。ていうか、何でそんなに顔を赤くしてるの?」
「だ、だって……」
ことりの声は、もう涙声になっていた。
「今まで誰も、ぁたしのことを一人の人間として見てくれなかったから……。ぁたしはあすかの中にいる別人格で――怖がられることはぁっても、褒められることなんてなかったから。だから……」
「そんなことはもう、どうでもいいんだよ。考えてみれば、これは素晴らしいことだ。もう会えなくなったはずの兄妹が、こうしてまた巡り合えるだなんて。ことりもあすかも、今まで出来なかった分僕に甘えればいい」
「そ、そんなこと出来――」
「それに、さ。悪ぶってることりより今のことりの方が、僕は好きだな」
「~~~~っ!!」
顔どころか、耳たぶまで真っ赤にして。
頭から湯気を出しそうなくらいことりは赤面していた。
「ぉ……ぉ兄様の、バカ……。こんな時に、何言ってるのよ……」
そう言いながら、ことりは僕の胸から短刀を離した。その表情は、悪戯を咎められた子供のようにバツが悪そうだった。
額にはうっすらと汗が浮かんでいて、視線はあちこちに泳いでいて、息を荒くハアハアとついていて。
――まるで。
まるでこれから死んでしまうかのように。
心配する僕をよそに、ことりは口を開いた。
「ねぇ、ぉ兄様」
「なに……?」
「ぁりがとぅ。ぁたしのこと、妹だって言ってくれて」
ゆっくり。
ゆっくりと。
本当にゆっくり、ことりは前のめりに倒れた。
僕は、慌ててその体を抱きとめる。
「おい、ことり?」
「……ぁりがとぅ」
「何言ってるんだ。しっかりしろ! おい!」
「……あすかのこと、よろしくね」
それが、ことりの最後の言葉だった。
「よせ! 消えるな! ことり! おい! ことり――――――――――!!」
僕は大声で叫ぶが、ことりからの返事はなかった。
なんでだよ。
これまで散々ケンカをしたし、僕は何度もことりに殺されかけたけど。それでも、僕に忠告をしてくれたり、話もちゃんと聞いてくれるようになって。
やっと分かり合えたのに。
なんで、いなくならないといけないんだよ。
「……いつも勝手に出てきて、散々暴れまわって、自由に好きなことして。最後の最後まで、こっちの意志は無視して勝手に消えるのか。本当に、ワガママな奴だよ……お前は」
溢れ出てくる涙を止めるために、憎まれ口を叩きながら。
僕はことりが抜けて出た「あすか」の体を、抱きしめ続けていたのだった。




