44「だって君は……本当はすごく、優しい女の子だから」
僕は、ことりを追いかけコテージを出た。
すぐそこには、小さな遊歩道があった。木で出来た階段を下って森の中へと入っていった。右も左も木ばかりで、いわば樹木の迷路だ。月が出ているため何とか先は見えるが、それでも歩を進めるのは容易なことではない。僕はリビングから裸足のまま出てきてしまったのだ。せめて靴を履いてくればと後悔した。
ガサガサガサ! という音がした。と思って辺りを見渡したが誰もいなかった。風が木の葉を揺らす音だったようだ。枯れ木を踏みしめる音、ホゥホゥとフクロウの鳴き声。昼間なら取るに足りないことだが、夜だとこれほどまで不気味に感じるものなのか。しかし、僕は歩みを止めるわけにはいかなかった。
彼女を助けるために。
夜の山道というのは、想像以上に歩きにくいところだった。街灯で照らされ、きちんと舗装された道路とは訳が違う。明かりといえば月明かりだけ。道は曲がりくねって細く、少しでも油断すると足を踏み外しそうだ。
そんな風に土道を散策してると、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
僕はその方向へと走った。そこは、切り立った崖の上だった。すぐ下は海だ。もし落ちたら、助かる可能性は低いだろう。まさに断崖絶壁だ。
悲鳴の主はすぐに見つけた。立花綾だ。彼女はおさげ髪を振り乱し、服ははだけ、体にはあちこち擦り傷がついていた。
メガネには亀裂が入っていた。その奥の瞳には激しい混乱と、おぞましいまでの恐怖があった。
「立花……さん?」
僕は立花さんに声をかけた。
「あ……」
彼女はカッと目を見開いていた。恐ろしさのせいか瞳孔が開いている。
「立花さん、僕だ。神奈月だよ。あすかはどこに行ったんだ?」
「あすか……」
僕がその名を口にすると、立花さんはビクリと肩を震わせた。
「雪ノ宮……あすか……雪ノ宮……うわぁぁぁああああああああああああああ!!」
突然彼女は、気でも触れたかのように叫び出した。僕は慌てて、立花さんの肩に手を置いた。
「落ち着いて。大丈夫だ。僕がついてる。だから状況をくわしく――」
「……!」
手に痛みが走った。立花さんが僕の手を払いのけたからだ。僕が一瞬ひるんだ隙に、彼女は背を向け、僕が来た道を引き返していった。
気がつくと、僕一人だけが取り残されていた。いや、一人というのは違うか。気配を感じる。もう一人。僕のすぐ後ろに立っている。
僕は後ろを振り向いた。
「はぁい♪ ぉ兄様」
「ことり……」
高所に立つ恐怖も相まって、緊張しながら僕はことりと対面した。
彼女のほうは落ち着いていて、取り乱してる様子は微塵もない。ただ無機質な瞳が、真っ直ぐに僕を見据えているだけだった。
「ことり、もうやめるんだ。こんなこと」
「……」
僕は話しかけたが、ことりは返事をしなかった。
「こんなことをしても、何の意味もない。あすかも、君も。みんな不幸になるだけだ。それは君にも、もう分かってるはずだ」
僕がそう言うと、ことりは着物の懐に左手を忍ばせた。おそらくまた短刀を出すのだろうが、僕に逃げる気はなかった。
「ねぇ、ぉ兄様。ひとつだけ教えて?」
思ったとおり、短刀を取り出したことりは、僕に向かって言った。
「どうしてぉ兄様は、ぃつもことりの邪魔をするの?」
「邪魔してるつもりはないんだけどね。むしろ、人助けのつもりさ」
僕が肩をすくめて言い返すと、ことりは静かにため息をついた。
「わざわざ出てこなければ、まだ死なずに済んだのに。バカなぉ兄様」
「バカなのは認めるけど、殺される為に走ってきたわけじゃないよ。僕はちゃんと、五体満足で帰るつもりだ」
余裕を持って答える。ことりは玩具に興味を失くした子供のような表情で、
「殺されなぃ、と思ってるんだ」
と言った。
「だから、そんな冷静なフリしてぃられるんだ。でも、残念ね。クリスティーナは意識を失ってるし、こんな所までは誰も助けに来られなぃ。もぉ、ぁたしの邪魔をする者はぃなぃのよ?」
僕は首を振った。ことりは薄く笑って、
「ぐふふ……。ずいぶん余裕ね。何か策でもぁるの? それとも、ただのハッタリ……? どっちにしても、ぉ兄様はこれまでね!」
ことりは短刀を僕に向けて構えた。僕のすぐ後ろは崖。逃げ場はない。
「死ね、ぉ兄様!」
ことりは僕に向かって、猛烈な勢いで突進してきた。
「……!」
ことりが放つ短刀の切っ先が、僕のすぐ喉元まで迫ってきた。凶刃が僕に突き刺さるまで、あと数センチまでの距離になる。
その瞬間を、僕は瞬き一つせずじっと見ていた。ことりの動作には何ひとつ迷いがないように見えた。しかし、刃は刺さらなかった。僕の喉に触れるギリギリのところで、ことりが寸止めをしたからだ。
「ぉ兄様……なぜよけなぃの?」
うつむきながら、搾り出したような小さい声で、ことりが尋ねる。
「殺されないことを、知っていたから……かな?」
僕がそう答えると、ことりは顔を上げた。
「……どぉして?」
ことりは、唖然としていた。
僕は親が子供を諭すように、優しく彼女に言い聞かせた。
「だって君は……本当はすごく、優しい女の子だから」




